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R.シュトラウス:家庭交響曲 作品53


クレメンス・クラウス指揮 ウィーンフィル 1951年12月録音


巨大化した「交響詩」

リヒャルト・シュトラウスの作品で「交響曲」という名称がついているものと言えば「アルプス交響曲」が一番有名で、その次が「家庭交響曲」です。しかし、これ以外に、若書きの作品として二つの交響曲が残されていて、20歳の時に書いた「ヘ短調」のシンフォニーには「作品11」という番号が割り当てられています。この若書きの2作品は、いわゆるベートーベン以降の交響曲の伝統をふまえたライン上で模索された音楽なのですが、有名な方の二つの交響曲はそういう伝統的な概念からは大きくはみ出しています。

今さら言うまでもないことですが、シュトラウスの管弦楽作品の本流を形成しているのは「交響曲」ではなくて「交響詩」です。
16歳の時に習作としてニ短調のシンフォニーを書き、20歳で作品11のヘ短調のシンフォニーを書いてからは、彼はこの伝統的な世界に戻ってくることはありませんでした。

習作としての交響曲


  1. 交響曲(第1番)ニ短調:1880年

  2. 交響曲第2番ヘ短調 作品12:1884年



交響詩


  1. 「ドン・ファン」作品20:1888年

  2. 「マクベス」作品23:1890年

  3. 「死と変容」作品24:1889年

  4. 「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」作品28:1895年

  5. 「ツァラトゥストラはこう語った」作品30:1896年

  6. 「ドン・キホーテ」作品35:1897年

  7. 「英雄の生涯」作品40:1898年



聞くところによると、ヘ短調のシンフォニーに関してはブラームスからあれこれと五月蠅いことを言われたようで、それでウンザリしたのでしょうか、その後のシュトラウスは「交響詩」という形式に力を傾注し、管弦楽音楽の一つの頂点を極めることになります。その流れを概観して気がつくのは巨大化と複雑化です。
平均的な演奏時間で比較してみても「ドン・ファン」(約17分)→「マクベス」(約18分)→「死と変容」(約24分)→「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」(約18分)→「ツァラトゥストラはこう語った」(約33分)→「ドン・キホーテ」(約40分)→「英雄の生涯」(約40分)という感じです。
そして、この延長線上にさらに二つの作品が追加されます。


  1. 家庭交響曲 作品53:1903年

  2. アルプス交響曲 作品64:1915年



平均的な演奏時間は「家庭交響曲」(約40分)→「アルプス交響曲」(約50分)です。
「ドン・キホーテ」や「英雄の生涯」では平均的な演奏時間が約40分程度となり、さらに「家庭交響曲」でも同じような規模となったことで、シュトラウスは自分の作品が「交響詩」という枠の限界を超えたと判断したようです。そこで、シュトラウスはついに「交響詩」という名称を捨て、作品番号53を与えた「大オーケストラのための作品」に対して「家庭交響曲(Symphonia Domestica)」という名称を与えます。演奏時間が50分を超えることもある「アルプス交響曲」ならば言わずもがなです。

しかし、シュトラウスが「交響詩」という名称を憚って「交響曲」という名を与えたとしても、それはベートーベン以後の伝統的な形式とは全く異なった音楽になっています。「家庭交響曲」も「アルプス交響曲」も明確な標題を持っているという点では「交響曲」よりは「交響詩」に近く、特に単1楽章で出来ている「アルプス交響曲」は巨大化の果ての「マンモス交響詩」と言う方が妥当なとらえ方でしょう。
後期ロマン派というのは、交響曲だけでなく、全ての形式で恐竜のように巨大化した時代といえるのです。

しかし、「家庭交響曲」は「英雄の生涯」や「アルプス交響曲」とは異なり、見かけが4楽章構成と言うこともあって見方によっては自由な形式による「交響曲」という見方も可能です。何しろ、その4パーツは「1.主題提示部」「2.スケルツォ」「3.アダージョ」「4.終曲」となっていますから、いかにも交響曲です。とはいえ、この作品は「わが愛する妻とわれらの子どもに捧ぐ」と記されているように、幸福な家庭一般が音楽で表現されているものの、そのモデルは明らかにシュトラウス自身の家庭であることは間違いありません。

冒頭のチェロで提示される主題は家庭の主人であるシュトラウス自身がモデルであり、その主人の夢想的な面(オーボエ)、怒りっぽい面(クラリネット)、情熱的な面(ヴァイオリン)が次々に表現されていくあたりはまさに「交響詩」、つまりは音楽による「お話」なのです。そして、交響曲的に見れば第1楽章に当たる主題提示部では、ヴァイオリンと木管で活発な妻を、オーボエ・ダ・モーレというバロック時代の楽器で愛らしい子どもが紹介され、さらにはその子ども眺めて目を細めている叔母(トランペット)や叔父(トロンボーン)も登場して役者が揃うことになるのです。
そして、それに続く第2楽章(?)では活発に遊び回る子ども達、全曲の核になるアダージョ楽章(?)では夫婦の愛が、そして終曲では子どもの教育を巡る夫婦の諍いと仲直りなどが描かれていきます。

そういう構成を見れば、この作品もまた巨大化した「交響詩」と見る方が妥当なのかもしれません。

ウィーンフィルとの相性の良さ


クラウスの棒によるシュトラウスは、ヨハンの方もリヒャルトの方も困ってしまうほど面白いと書いたのですが、調べてみると50年代にウィーンフィルとのコンビでまとまった録音を残しています。
ウィーン、ベルリン、ミュンヘンというドイツ語圏の三大歌劇場の音楽監督を歴任した人にしては残された録音が異常に少ないだけに、モノラルとはいえデッカレーベルでこれだけまとまった録音が残ったことは感謝すべきでしょう。


  1. 交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」 op.30 1950年6月12日&13日録音

  2. 交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」op.28 1950年6月16日録音

  3. 交響詩「ドン・ファン」 op.20 1950年6月16日録音

  4. 家庭交響曲 op.53 1951年9月録音

  5. 交響詩「英雄の生涯」 op.40 1952年9月録音

  6. 組曲「町人貴族」op.60 1952年9月録音

  7. 交響詩「ドン・キホーテ」 op.35 1953年6月録音

  8. 交響的幻想曲「イタリアより」 op.16 1953年12月録音

  9. 楽劇「サロメ」op.54 1954年3月録音



「ナチスの指揮者」というレッテルのために戦後はしばらく演奏活動が禁止されていましたから、戦後の音楽活動のほぼ全ての時期を網羅しています。戦後の録音はほぼ50年からスタートしていますし、54年の5月に演奏先のメキシコで急死したクラウスにとっては、その年の3月に録音された「サロメ」は結果として遺言のような録音になってしまいました。

それにしても、こうやってまとめて聞いてみると、クラウスとウィーンフィルとの相性の良さには感心させられます。
ウィーンフィルの美質と言えば、他では聞けない管楽器群の響きの美しさと、弦楽器群の臈長けた美しさ、そして何よりも他のオケでは絶対に聞くことの出来ない歌い回しの見事さあたりでしょうか。
そういえば、ヴァイオリンのソロが大きな役割を果たす「ツァラトゥストラはかく語りき」や「英雄の生涯」ではコンサート・マスターのボスコフスキーがつとめているのですが、そのとろっとした響きの美しさこそは「これぞウィーンフィル!」と思わせるものがあります。

それだけに、新しく再開されるウィーンの国立歌劇場の音楽監督に自分が指名されることを、彼は疑いもしていなかったのでしょう。
ところが、結果は、このような優美さと高貴さを讃えた指揮者ではなく、木訥な田舎もののベームがその地位を手に入れるのです。結局は、ベートーベンが指揮できないような指揮者がウィーンのシェフでは困ると言うことでしょうし、さらに言えば、何処まで行っても「ナチスの指揮者」という影が、新しく船出をするウィーンの国立歌劇場には相応しくないと判断されたのでしょうか。

それにしても、彼の師匠に当たるリヒャルト・シュトラウスの演奏は、どれもこれもウィーンフィルの美質を惜しげもなく振りまいていて、昨今のハイテクオケが聞かせてくれる音楽と較べれば、待ったくもって別の作品のように聞こえるほどです。そして、その「全く別の作品のように聞こえ」てしまうあたりが彼の音楽の様式的な古さを顕わにしていることも事実なのです。

しかし、物事を単純な進化論で切って捨てることが出来ないことも事実です。より新しく、より精緻に、より美しくと頑張ってきた果ての世界が、過去と較べて麗しくなっているとは言い切れないのも事実です。
ヘーゲルが語ったように歴史は決して「阿呆の画廊」ではありません。この50年の成果は素直に認めながらも、その「進化」の中で失ったものはないのかを見直すためには、時にはこういう「過去」に目を向けることも大切なのではないでしょうか。

<追記>
とは言え、こう書いた後で64年にセル&クリーブランド管が録音した「家庭交響曲」を聞くと、この後の時代が、何故にこのクラウスの路線を捨てざるを得なかったのかもよく理解できます。
クラウスのシュトラウスは、誤解を恐れずに言えば、交響詩の「お話」の側面を重視した、面白くて分かりやすい音楽です。しかし、同じシュトラウスの弟子筋でも、セルの方は交響詩の「音楽」の方を重視した音楽です。つまりは、交響詩を「音楽によるお話」と解するならば、その重点の掛かり方が正反対なのです。そして、セル以後の世代では、交響詩といえども演奏会用のプログラムである以上は、まずは「音楽」としての佇まいをまずは重視することになっていくのです。
そして、そういうスタンスでシュトラウスの音楽を再創造すれば、聞くものは皆その織り目の見事さにあらためて驚かされることになり、その見事さに気づいた人は、クラウスのスタイルに古さを感じてしまうのです。

しかし、歴史は繰り返します。
ひたすらスコアの織り目の緻密さにばかり目を奪われ、交響詩が持っているお話としての面白さが蔑ろにされるようになると、今度はクラウスのような音楽がたまらなく魅力的にうつるのです。そして、セルの演奏を聴くと、その二つがきわめて高いレベルで共存していることをまざまざと見せつけられて、この強面おのおじさんの凄さを再認識させられるのです。
<追記終わり>

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