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バルトーク

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経歴


1881年3月25日、現在はルーマニア領となっているナジュセントミックロージュの町に生まれる。父は現地の農学校の校長であり、音楽的素養に恵まれた人だったと言われている。
 1888年、この父の死によって一家はハンガリーを転々とする生活をおくるが、1894年、母がポジョーニの町で教職に就くことができたためその地で定住する。この間に彼は母からピアノを習うとともに、作曲活動も行うようになる。また、ポジョーニに定住するようになって始めて本格的に音楽を学ぶようになり、ここで知り合ったドホナーニからその民族主義的な情熱から大きな影響を受ける。

 その後彼はウィーン音楽院に優れた成績で合格し、授業料の減免や奨学金を約束されていたにもかかわらず、ドホナーニへの影響から1899年にブダペスト音楽院に入学し、1903年まで同学院で学ぶ。音楽院では作曲よりもピアノの方が高く評価されたが、この時期もブラームスやワーグナー、そして後にはR.シュトラウスに影響された作品を書いていた。
 しかし、1906年からコダーイとともにハンガリーの民謡の採集に出かけたことが大きな転機となる。同年に産み出された「20のハンガリー民謡」は彼にとっては最初の編曲集だが、これら一連の仕事を通して、マジャール人特有の音楽への美をつかみ取り、その後これらの民謡に基づいた多くの作品を書くようになる。
 しかし、彼の民族的作品はなかなか理解されず、「土足でサロンを荒らす」ものとして心ない攻撃もされたが、1917年のバレー「かかし王子」の成功とオペラ「青ひげ公の城」、「弦楽四重奏曲第2番」の初演が好意的に迎えられ、少しずつ名声をはくするようになる。その後、第1時大戦後の動乱のなかで、政治的要注意人物として国内での演奏の機会を失ったりもするが、ヨーロッパ各地で彼の作品が演奏され、その国際的名声が高まるにつれて、ついにハンガリー政府も1925年にはバルトークに作品の委嘱を行うようになる。

 しかし、ナチスの台頭により社会的情勢が切迫してくると、1936年、ナチスが行った「堕落芸術展示会」に強烈な抗議文を送りつけ、さらに38年にはナチスのオーストリア侵入に抗議、39年第2次大戦の勃発によって、40年、パリを経由してアメリカへの亡命を余儀なくされる。
 アメリカでの亡命生活は、彼の音楽への無理解のために恵まれない生活をおくるが、クーセヴィツキーの依頼によって「管弦楽のための協奏曲」、メニューインの依頼によって「無伴奏ヴァイオリンソナタ」などの優れた作品をうみだす。
 そして、1945年、ハンガリーの解放によって臨時政府から帰国の招請状が届くも、長年の貧窮生活で健康を害していた彼は、「ピアノ協奏曲第3番」と未完の「ヴィオラ協奏曲」を残してニューヨークのウェストサイド病院でこの世を去る。1945年9月26日。

ユング君の一言


彼のピアノ協奏曲第3番は、20世紀が生みだした最高の音楽作品のひとつだとユング君は固く信じています。
 始めて耳にしたのはFM放送でした。何気なくエアチェックしていたときに冒頭のピアノの響きを耳にして釘付けになってしまいました。これほどまでに透明感に溢れた音は聞いたことがありませんでした。その時に始めてバルトークという名前が刻み込まれ、彼の作品を次々と聞いていくきっかけとなりました。
 20世紀に活躍した作曲家のなかでバルトークを凌駕するものは一人もいなかったと言い切れます。さらに言えば、バッハやモーツァルト、ベートーベンなどと肩を並べることのできる音楽家だったと言えます。
 これはユング君なりの結論ですが、おそらく同意していただける方は多いと思います。
 音楽と人格は基本的には別問題です。しかし、バルトークだけはその人間としての良心と作品の素晴らしさがピッタリと一致します。ナチスに対する彼の態度と、それ故に味あわなければならなかった苦難の後半生を思うと胸が痛みますが、そう言う生き方しかできなかった人であったことも事実です。
 願わくば亡命先のアメリカがもう少し彼の作品に耳を傾けるだけの度量があればよかったのですが、しかし、そう言う苦難のなかで産み出された一連の作品には、今までにない平明さと人の心の琴線に触れる暖かさを持ち出したことも事実です。
 死の床で、残された妻のために完成させた作品がピアノ協奏曲第3番でした。ピアニストでもあった妻が、その後の演奏家としての生活に少しでも役立てばとの思いで完成させた作品です。その宗教的とも言えるほどの静謐で透明感に溢れた響きを聞くと、戦争と革命に翻弄された20世紀という時代の中を、自らの人間的良心を貫いて生きた一人の男の到達した心境を垣間見るような気がします。


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