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ラフマニノフ

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経歴


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ノヴゴロド近隣のオネーグの裕福な家庭に生まれ、5歳の時に母から最初のピアノのレッスンを受けた。オネーグは自然に恵まれた地方で、多感な少年時代をおくった。母は厳格で内向的な人柄、父は陽気であった。9歳の時に一家は没落し、オネーグの所領は競売にかけられ、ペテルブルクに移った。ペテルブルグ音楽院では、教科書の間にスケート靴を隠して出かけるような不良学生であったが、12歳の時、ピアニストの従兄アレクサンドル・ジロティに見いだされ、モスクワ音楽院のニコライ・ズヴェーレフの家に寄宿しながらピアノを学ぶことになった。

モスクワ音楽院では、ズヴェーレフに厳しい教えを受け、アントン・アレンスキーに和声を、セルゲイ・タネーエフに対位法を学んだ。後には、ジロティにもピアノを学んだ。ズヴェーレフとは作曲をやりたいという意向で対立し、親戚のサーチン家に身を寄せることになり、将来の妻と出会った。 アレクサンドル・スクリャービンとは同級であった。

18歳(1891年)にモスクワ音楽院ピアノ科を大金メダルを得て卒業した。ゴールドメダルは、通例、首席卒業生に与えられたが、当時双璧をなしていたラフマニノフとスクリャービンは、どちらも飛びぬけて優秀であったことから、金メダルをそれぞれ首席、次席として分け合った(スクリャービンは、小金メダル)。

同年ピアノ協奏曲第1番を完成。 1892年には同院作曲科を卒業。17日間で歌劇『アレコ』を書き上げ、金メダルを受領。歌劇『アレコ』はチャイコフスキーの目にとまり、翌年(1892年)ボリショイ劇場で上演されたが、チャイコフスキーは同年に死去。この影響で、ピアノ三重奏曲「悲しみの三重奏曲」を作曲した。ちなみに、チャイコフスキーも友人の死を悼んで同名の曲を作曲している。

ラフマニノフの最初の交響曲第1番は1897年に初演されたが、ツェーザリ・キュイをはじめとする批評家に酷評された。 その理由はアレクサンドル・グラズノフの指揮が放漫でオーケストラをまとめ切れていなかったこと、ロシア聖歌の旋律を執拗に用いた長大な作品が当時の聴衆に受け入れらなかったことなどが考えられる。この失敗は、ラフマニノフに神経衰弱ならびに完全な自信喪失を引き起こした。

その後、マモントフ・オペラの第二指揮者の地位に就き、シャリアピンとの交遊を持つ。シャリアピンの結婚式では、介添人の一人として立ち会った。この間、交響曲第1番の失敗の後、ごくわずかの曲しか作曲されていない。

作曲家としてのラフマニノフに決定的な影響を与えたのは、精神科医ニコライ・ダーリとの出会いであり、彼に心理療法を受けることによって徐々に自信を取り戻していった。 ダーリは、ラフマニノフに「あなたは素晴らしいピアノ協奏曲を作る」という暗示療法を行い、その顕著な成果はピアノ協奏曲第2番(1901年)として実を結んだ。ラフマニノフはこの曲をダーリに捧げた。この曲は作曲者自身の独奏により初演され、非常に好意的に受け取られ、現在でも最も人気がある作品である。そして、映画「逢びき」で用いられたことにより、さらに評判が高まった。ピアノ協奏曲第2番は作曲家としての名声を確立し、ラフマニノフは有名な尊敬されるピアニストとなった。ダーリはアマチュアのヴィオラ奏者でもあり、この作品の演奏を受け持つこともあったが、演奏終了後は彼個人への拍手が止まなかったとも言われる。

1902年には従妹のナターシャ・サーチナと結婚し、半生を共にする。当時、従姉妹との結婚には皇帝の許可証が必要であった。

1904年にボリショイ劇場の指揮者となり、約1年間務める。神経を集中して指揮に取り組んでいたため、楽員には気難しくやかましい指揮者と恐れられた。

1909年にはピアノ協奏曲第3番を完成。秋にはアメリカ合衆国への演奏旅行を行い、その際はピアニストを務めた。 この旅行はアメリカでの人気を高め、1917年のロシア革命を逃れて、1918年に合衆国に移住した。

移住先では自活するために演奏活動に多くの時間を費やす必要があったので、新しい作品は少なくなっていった。アメリカでは、ピアノ制作者のスタインウェイと親交を深め、幾度かピアノを贈呈されている。

1931年にスイスのルツェルン湖畔に別荘(セナール)を建て、ヨーロッパとアメリカ合衆国を行き来しながら演奏活動を続ける。「セナール」は、セルゲイ、ナターシャ・ラフマニノフの頭文字を取ったものである。

その中でも『パガニーニの主題による狂詩曲』は1934年に書かれ、没後数十年の流れの中で幾人もの手により編曲されたものも含め、日本はもとより世界的に度々TVコマーシャルやドラマ等で流されることからも、衆人によく知られる有名な作品の1つである。この後、交響曲第3番、交響的舞曲(最後の完成された作品)などが作曲された。左手小指の関節痛に悩まされながらも、演奏活動は死の直前まで続けられた。

ビバリーヒルズ(カリフォルニア州)で1943年に癌のため死去し、ニューヨーク市近郊のヴァルハラのロシア人墓地に埋葬された。

ピアニストとしての業績


ラフマニノフは、ピアニストのなかでも巨大な手の持ち主で、12度の音程を左手で押さえることができたと言われている。言い換えると、左の小指でドの音を押しながら、親指で1オクターブ半上のソの音を鳴らすことができた。このような演奏が可能だったのは、マルファン症候群という疾患のためといわれている。

ラフマニノフは、自演による多くのレコードを残している。1910年代に、エジソンレコード社の「ダイヤモンド・ディスク」レコードに最初に録音を残している。

ラフマニノフは、自分自身を偉大なピアニストとは見なさず、自分の演奏の質が変化すると考えていた。そのため、自分が承認した演奏の録音だけが販売されることを頼んだ。ところが、おそらく単純な不注意のため、エジソンレコードは、未承認の録音を販売してしまった。(当時は複数のマスターからレコードを大量生産することが容易だった。)

怒ったラフマニノフはエジソンを去り、ビクタートーキングマシン社(後にRCAビクター社)のために、多数の録音を残した。

また、ピアノロール用にも演奏の記録を残している。最初は1本の穿孔された紙で正確な演奏を再現できることが信じられなかったが、1919年にアムピコ社の最初の録音のマスターロールを聞いて、こう言ったと伝えられる。「みなさま、私(セルゲイ・ラフマニノフ)は、たった今、私自身が演奏するのを聞きました!」。1929年頃までアムピコのために録音は続いた。

室内楽曲の録音はフリッツ・クライスラーとグリーグのヴァイオリンとピアノのためのソナタ3番を含む。そして、RCAならびに多くの他のレーベルの上で復刻されている。

ロシア人ならびにロマン派の伝統の中の長い歴史上で、ラフマニノフはピアノ・レパートリーの非常に優れた解釈者であった。残された演奏は多くはないが、全てに価値がある。最も重要で興味深い作品は彼自身の4曲の協奏曲である。これは RCA によって録音されており、近年 Naxosで復刻されている。

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