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リスニングルームによせられたコメント
リスニングルームによせられたコメントをまとめたコーナーです。多くの方の熱いコメントを期待しています。(2008年3月10日記)
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次のページ- 2024-06-05:豊島行男
- 素晴らしい演奏だと思います。
ベートーベンの音楽も本来粋な音楽ではないかと思います。
ロンの演奏には我々の偏見を払拭する輝きを感じます。
- 2024-06-04:大串富史
- 今回は管理人様と、フルトヴェングラーと、この音源にわたしの注意を向けてくださった小林様(小林先輩?!)への感謝を込めて。
#この音源を聴いても、自分のベストはやっぱり第8番ではなく第9番だなというのは変わらないものの(まて)、第8番が管理人様(や他の皆様)が仰るところのブルックナーの最高傑作だということは、今回この音源を聴いてよりよく分かったような気がしています。やっぱり最高傑作だけあって、キテレツ度が違う(まて
残念ながらフルヴェン世代ではないので(カラヤン世代でしょうか)、フルヴェンをずっと猫またぎだったわたしに機会を与えてくださった管理人様と諸先輩方への感謝と共に。
#それで本論(違)なのですが、小林様曰く「緊張感と音楽を仕上げようとする根性」という部分には深く賛同するものの、「涙なしではこの演奏は聴けない」というのは、うーん、なんですごめんなさい… 特にこちらのサイトに足繁くお邪魔させていただいてからは、なおのこと、うーん… フルヴェンがキテレツである(これは誉め言葉です)ということ以外は、もうあまり深く考えなくていいのかなあ、みたいに思うようになっています。それはちょうど、自分がベートーベンの時代に生きていたなら、ベートーベンの音楽をキテレツとして鑑賞するものの、ベートーベンの友だちにはあまりなりたくないかも、みたいな。ブルックナーも同じで、第9番を愛する神に捧げるというのは分かるものの、当の神様は迷惑じゃなかったのかと(失礼!でもあの神様は原典に描かれている神様とは別物のように聴こえたりします)。神様云々とは全く無関係に、あなたもキテレツでしたね!でわたしとしてはすんなりだったりします。だからフルヴェンが当時のドイツで「緊張感と音楽を仕上げようとする根性」で音源を後世に残したという、まごうことのない事実をもってよしとすれば、それでいいんではないかと。もっと突っ込んで言ってしまえば、管理人様がモーツァルトの楽曲解説でも書いておられるように、ナチスな演奏家と音楽の出来栄えは別物、クラシック音楽自体もそれを楽しんでいたに違いないナチス党員とは別物、つまりクラシック音楽とて人類に何らかの啓発や感化を与えるような代物にはなり得ない、って、まあそれは二度の大戦で全く証明済みなんでしょうが(いわゆる、二人の証人、ですか)… うーん…
- 2024-06-04:yk
- ベートーヴェン「ロラン君、君が今聞いている協奏曲、私は初めて聴いたが誰の曲かね? 一寸スタイルは古いけど、そのスタイルでこれだけのストーリを曲に込めることが出来る作曲家はモーツアルトが亡くなって以来いなくなってしまったと思っていたんだがねぇ・・・・いったい誰だい?」
ロラン「コレ、あなたの曲ですよ・・・世間では「皇帝」と呼んでいるあなたの第五協奏曲ですよ・・・ロンと言う私と同国の女性ピアニストが弾いてます」
ベートーヴェン「あっ・・・そうなの?」・・・・・・・・^_^;;
- 2024-06-03:joshua
- 3.4番では物足りないので、5番ばかり聴いていると飽きてしまったところで、この6番は美味しいです。グリュミオーのモノラル盤にはない、別のあでやかさがあります。偽作であろうとも、これをフェラスで聴いている間は幸せな気分になれました。
- 2024-06-01:小林 正樹
- 別にセンチメンタルに浸ってるわけじゃあないけれど・・・。
44年のウィーン、おそらくナチが最後の咆哮をあげて「最後の一兵まで」などと(多分)鍵十字マーク付きのフォルクスラジオからがなり声をあげていたころの録音でしょう。明日をも知れぬ悲痛な環境の中で、この演奏です!緊張感と音楽を仕上げようとする根性が、やはり見えます。もちろんそんなことは僕の空想なんだけど・・。
涙なしではこの演奏は聴けない。フルヴェンの命日にでも一回聴くのみにしようか。
- 2024-05-30:白玉斎老人
- この演奏は私にとって、カラヤン=BPOによるスタジオ録音での三傑のうちの一つです。管理人さまがおっしゃるように、カラヤンアーチが隅々まで達成されて、その完璧さに舌を巻く思いです。私が購入したCDは、ここで掲載されたものとは異なりますが、フィンランドの白夜をイメージしたジャケットも、曲想にかなうものでした。うれしいとき、くるしいとき、つらいとき、どんなときでも聴くことができるのも、嬉しいです。
中国の磁器や銅器を愛する私には、フルトヴェングラー=BPOを宋代の名窯に、カラヤン=BPOを清代のそれに、それぞれ喩えたい誘惑にかられます。前者は稀有な精神性に、後者はその超絶技巧において、空前で恐らく絶後の傑作を後世に残しました。若い頃はフルトヴェングラー一辺倒だった私ですが、年を重ねるごとに、カラヤンが残した音楽の大きさに、圧倒されるようになりました。
- 2024-05-30:大串富史
- 管理人様への深い感謝を、まずここに。
#今日はごめんなさい、この曲を初めて聴いて、管理人様の秀逸な楽曲解説を読んで、その上で個人的な感想と幾許かのよい知らせをシェアできればと思いました。いや、わたし自身も詳細は知らないのですが…
最初に前言なのですが、わたし自身が中国人学生の多人数レッスンのバックグラウンドミュージック(開始前・中休み5分・終了後)でクラシック音楽の威を借りているのと同様、あちらの皆さんがバッハの威を借り、バッハが福音書の威を借りていることには、別に異論はないです。わたしがこちらに足繁く通わせていただいているのも、まあそうした仕事絡みなので。そんな不敬虔なことを言う奴は出て行け!と思う方がおられるかもしれませんが、パイプオルガンなり合唱隊なりが中世において客寄せ的に用いられていたことは、別に専門家にあたらなくとも誰でも察しがつこうかと。
それで本論なのですが、バッハのキテレツなオルガン曲を聴き終わってからこちらを聴くと、まるで管弦楽組曲のような親しみやすさ!に溢れている中、ところどころ、おや?と思う部分があります。正直、バッハでさえ表現し切れていないように思える、原典でさらっと1,2行で書かれている出来事をそのままなぞっただけのような。これは原典にあたって前後を読まないと分からないでしょうし、前後を読んでわからなければ四福音書を読むしかなく、それでも分からなければ新約全体を読んで、結局旧約も全部読んで、ということになるんでしょう。ただわたし的には、それはバッハが意図したことでも、あちらの皆さんが意図したことでもないと思うのです。威を借りたこれをありがたがってくれればそれでいい、というのがやはり本音かと。
一方で一定数の需要、つまりおや?と思う部分に関心があって、聖書全巻も読んでみたいという副次的な需要でしょうか、それは正直、オラトリオや他の劇形式の音楽でも恐らく十分でなく、原典でさらっと1,2行で書かれている出来事を前後の文脈も併せて正確に映像化したものに音楽を控えめにつける(つまり映像化された福音書)しか方法はないように思いました。これはもはやクラシック音楽ではないし、需要も低そうではありますが。
#聞けばそういった福音書の映像化プロジェクトが進んでいるそうで、需要が低いマーケに対して結構な話だと思います。日本語レッスンの準備がてら、今このコメントを書かせていただきながらゲッセマネの祈りにまで来ているのですが、正直、ちょっとしんどくなってきました… もしそういう方がおられたなら、若かりし頃のわたしのように、図書館や本屋に原典を読みに行けばそれで済みます。
それであのその、わたしなりの結論なのですが、管理人様の仰る、人類の音楽史において燦然と輝く金字塔というのは、わたし的にはやはり中也のいうところのパッサカリアなんではないかと。キテレツの金字塔、でしょうか。ベートーベンでしたか、バッハは小川ではなく海、つまりはキテレツの海。だからクラシック音楽とは、バッハのキテレツで正式に幕を開け、バルトークのキテレツで(いちおう)幕を閉じた、という。わたしは当時の人間ではないので断言はしませんが、クラシック聴き巡りでやがて訪れることになるあのヴィヴァルディも、結局はキテレツに目覚めてしまってそっちが本業みたいになったものの、あちらの皆さんとしては客寄せパンダなら何でもいいわけで、兼業司祭全然OKですよーとなっていたのでは。
#一方で、こうした(キリスト教)宗教音楽を聴いて、おや?と思ってしまう少数派の人というのは、正直しんどいというか、大変でしょうね… 最近になってあのプリーストリーの福音書翻訳プロジェクトの話を知って、つくづくそう思います。原文を読みたい読ませたいというただそれだけで、言論封殺どころか焼き討ちに遭ってしまうというのは本当に怖いです…
- 2024-05-28:乾 巧
- 9点です。
録音当時はまだまだマイナーだったこの曲を「描き尽くす」意思が満ち満ちて、奇をてらわないストレートな解釈が曲想と合致しています。それが押し付けがましくなっていないのが、録音当時「上り坂」だったバーンスタインの素晴らしいところ。録音も古さを感じさせません。やはり終楽章が一番優れていて、聴き終えた満足感が大きいです。
- 2024-05-27:豊島行男
- 大変美しい演奏ですね!
しかしながら、やはり「昭和的な暑さ」を感じてしまいます。
「決別」の意思です。
日本の文脈で云えば、戦前との決別または愛借と云いましょうか。
ハンガリーでもたぶん同様の事情があったのではないでしょうか?詳しくないので直感的な感想ですが、シャンドールのクールさには悔しさや哀しさをじっと抑圧してるような強烈な熱さを感じます。
- 2024-05-27:大串富史
- バッハと、ヴァルヒャと、管理人様への感謝を込めて。
この曲が大フーガという異名を持っていることを今日初めて知りました…
#大フーガというとベートーベンの、一度聴いたら忘れ難く、二度は聴きたくないかもなあれのことだとばかり(まて
このサイトがなければ知らなかったであろう(うろ覚えのままの)クラシック楽曲(およびその解説)がどれほどかを知ると共に、管理人様のクラシック音楽への造詣の深さをがどれほどかをも知り、ただただ感謝に堪えません…
#で本題なんですが(違)… やっぱりこの曲がバッハの楽曲の中でもキテレツ度がかなり高いような気が(それで他のキテレツな音楽家の面々のキテレツとも互いに打ち合ってしまうという)。もっとも、備課(中国語でレッスンの準備つまり予習のこと)をしつつこのコメントを書きながら同時にBWV538やBWV548を聴いて改めて思うに、バッハという人は音楽の父というよりは、キテレツの父だったんだなあと(まて)。わたしの中国人の妻も、当然と言えば当然ですが、あなた一体何を聴いてるの?といった感じです(イヤホンマイクから音が漏れてしまうため)… 一方で、落葉松ついでにジーツィンスキーのウィーン我が夢の街を聴いてやっぱり思うのです。大フーガ、自分も弾きたいし作曲したいし聴衆にも加わってもらいたいなあと。でもそれはかなわぬ夢だし、じゃアイドルコンサート?が答えなのかと言えばそれは違うし。バッハのこうした曲を皆が普通に聴いていたあの時代と聴衆が答えなのかと言われればそれも違うような気が。うーん、キテレツにキテレツが呼応してなんでしょうか、フラストレーションがちょっとたまり気味です…
- 2024-05-27:小林正樹
- いやはや素敵なおしゃれな(?)演奏ですねえ。
前掲のvolosさんがおっしゃっているように、伴奏オケのユーゴー・ウィンターハルター氏の雰囲気が誠に素敵です!特に演奏タイム9:00くらいからの演りかたはクラシック畑のオケからはあまり聴けない色気がむんむんですねぇ。60年代によくラジオや場末の映画館(洋画専門の)や純喫茶などでやや小さめの音量で鳴っていたやつ、マントヴァーニやパーシーフェイス、スタンリーブラックなんかと同列の響き。今一度こういった響きが街に溢れないかなぁ(無理無理!)すみません忘れていました。ジャニス氏のピアノはなんやかやいってもやはり超一流と思います。この類の演奏家がいつの世にもゴマンといるであろう欧米の音楽環境の凄さを思い知りますね!
- 2024-05-26:正敏
- (追記)
ここではカサドシュ盤について語るのがスジだとわかっているのですが、あえて自分の挙げたパレナン盤について。前投稿文は当盤を棚から出さずうろ覚えで書いたのでヴァイオリンが誰か思い出せなかったのですが、後に確認したところフェラスでした。ピアノがバルビゼですから、当然わかっているべきでしたね。録音が1968年で、この頃のフェラスはカラヤンに見出だされたあと、自分の演奏スタイルを変えようと試行錯誤して迷走していた時期で、それ以前からのパートナーだったバルビゼにとっては、彼の変遷がどのように感じられたのだろうかと当盤の録音年を確認しながらあらためて思った次第です。もっとも、個人主義のフランス人らしく、彼は彼、自分は自分とすっぱり割りきっていたかも知れないですね。
- 2024-05-26:豊島行男
- そもそも現代楽器、現代ピアノでの演奏が主流になった時点でどの演奏といえども主観的と云えるのではないでしょうか?
マルグリット・ロンの演奏はその初心を体現している、いわば現代的演奏への入り口と云えると思います。
- 2024-05-25:正敏
- 私がクラシックの沼にはまってまだ日の浅い頃、今はなきFM雑誌の記事の中でマゼールがこの曲をレコーディングしたことが書かれていました。まだ若かった自分は交響曲や管弦楽曲のオーケストラの大音響に夢中だったので、室内楽にはあまり関心が無く、「へぇ、マゼールってヴァイオリンも弾けるんだ」程度の感想しか持ちませんでした。
そんな自分が後にドビュッシーやラヴェルの四重奏の魅力にはまって、その周辺の作品を探したところ、このコンセールを見つけました。そして某国営FM放送のある番組のEDで流れていた哀愁をおびた旋律がこの曲の第2楽章シチリエンヌでした。
この曲の名盤と言えば、往年のティボー&コルトーまたはこのカサドシュ&フランチェスカッティと昔から決まっているらしいのですが、その他にも色々と録音されているみたいで、演奏者には人気があるようですね。自分は最初に購入したパレナンSQの演奏が(多分に思い入れ込みで)好みです。残念ながらパブリックドメインには間に合いませんでした。件のマゼール盤(TELARC)は現在入手困難のようで、ブックオフにも入荷のお知らせがなかなか来ません。
- 2024-05-24:yk
- フランスには”モーツアルトに真の情熱と人間性への信頼を発見する”・・・と言うスタンダール以来のフランス独自の誇り高き”モーツアルト評価”の伝統があります(…尤もパリはモーツアルトの生前には冷たい仕打ちをしましたが・・・・^_^;;)。その伝統を引いた二十世紀のモーツアルト評伝の一つにアンリ・ゲオンの「モーツアルトとの散歩」(高橋英郎訳、白水社)と言うのがあります(例の小林秀雄の”疾駆するモーツアルト”の元本)。この本でゲオンはこの協奏曲を特に詳しく挙げて”霊感の素晴らしさ、諸要素の配分・・・効果の地味な偉大さ”を指摘して”奇跡の詩苑”と呼んでいます。1932年に書かれたこの本は現代では余りにも非分析的・ロマン的で通用しないのでしょうが、1935年録音のこのロンの演奏は将にこういった評論が書かれた当時のフランスの”時代精神”と呼応しています。
”今のスタンダードな演奏”が何であれ、18世紀に生きたオーストリア人モーツアルトの時代を超えた国際人としての普遍性の一端・・・として聴けば、この演奏にもやはり聴くべきものは(十分に)ある様に思います。
- 2024-05-24:大串富史
- バッハとこのパッサカリアに一票、ヴァルヒャに一票、そして管理人様にも一票を入れさせてください。
#不勉強ながら、この曲は今日初めて聴きました。期待を裏切らないだけでなく、管理人様も仰られるように構成がすごいですね… ブクステフーデの曲は巨大な絵画だという形容を見たことがありますが、バッハのこの曲は巨大な構造物という管理人様の形容に全く賛成です。
実を言うと若い頃はパイプオルガンの音色が大好きだったものの、後になってそれがヨーロッパの歴史をさんざんかき回したあの団体の客寄せに使われていたということを知り、こちらのサイトがなければ(またクラシック音楽聴き巡りという大義でもないと)このパッサカリアもスキップのままだったことでしょう。管理人様には、返す返すも感謝です…
#それにしても、ラルゴと菩提樹ついでに、久しぶりに小林秀雄の落葉松を聴いて、巨大な構造物を眺めて(というかバッハにそれを見せてもらって?)一人悦に入るのもいいけれど、演奏者(この場合は独唱者とピアノ伴奏)および日本人の聴衆の皆さんと落葉松を一緒に「見て」ブラボーもいいなあ、と思う今日この頃です。往時のクラシック音楽というのはヨーロッパにおいて日本人にとっての落葉松と同じだったに違いないでしょうが、今となっては一人悦に入るとか、名人芸をありがとう!とか、うーん、やっぱり物足りないです… もっと言えば、落葉松でもまだ物足りない。自分的には、ポストクラシック音楽、ポスト落葉松な音楽また音楽鑑賞が待たれます…
- 2024-05-23:えふのふえ
- ショルティのロシア小品には確かロンドン響との物もあって、ややこしかったことを思い出します。17センチLPでいいずれかを聴いていました。いま聴き直してこれは間違いなくベルリンフィルの方であると膝(襟)を正して聴きなおしました。ベルリンフィルの凄いアンサンブルにはクリーブランドもシカゴもかないません(でした)ね。これが歪の少ない良い音で聴けたらと叶わぬことを考えました。
ところで私はいまマゼールのこの曲を探しています、クリーブランドではなくてイスラエルフィルの方です。昔ペトルーシカか何かの余白に入っていて素晴らしい音と演出だったように記憶しています。マゼールは大嫌いですが、もしお心当たりがございましたらお願いします。
- 2024-05-21:迷える野暮天
- ユング氏はじめ皆さんから絶賛されている録音ですので、なかなか共感できない自分がおかしいのかとここにアップされて以来何度も聴いているのですが、いつも途中でやめたくなります。
セルの特徴の一つである音価を短めに切り詰めたまるで突き放すかのような奏法、場違いのように突出したトランペットなど上手い(美しい)とは言い難い管楽器群、いつもは追いかけることが楽しくなるモーツァルトの複雑かつ精緻な各声部の進行もばらばらに聞こえてしまう等々。聴力の衰えか、感性の劣化か、それともシステムがショボいのか。
因みに私が好きなのはモーツァルトの面白さを教えてくれた60年代のベーム&BPO盤、知性と気品を感じさせる80年代のクーベリック盤です。
- 2024-05-20:小林 正樹
- フランチェスカッティの響きを美しいと感じるのは、私の場合そのフランス人特有の「鼻母音」の持つ「美魔力」にやられてるんだろうと思う。中学生のころにステレオ盤のワルター指揮でモーツァルト第3協奏曲やブラームス二重協奏曲(この場合チェリストまでがこの響き!)を聴いたときのショックが忘れられず未だに尾を引いている。ドイツ系は子音(的)な響きを大切にしてるかもしれないですね。英語はその中間か?イタリアやスペインは母音そのもののダイレクトな「迫力?」が・・・。いずれにせよ音楽、特にクラシック系の作品はその響きの中にも感動を誘う要因が大きいと思います。で、日本の奏者、団体の響きにはそれらの特徴が、どちらか言うと「無い乃至薄い」ように感じます。特に和音を発する時のトロンボーンやチェロそれに最高音を奏でる時のヴァイオリン奏者などに顕著かなと・・。閑話休題、フランス系の奏者たちの鼻母音は美母音ですなぁ。フルートのランパル、モイーズ、アンセルメのロマンド管のバッソン(ファゴットと言わない)やヴィブラートのかかったフレンチホルンなんかもそれらの類だと思います。(でも近年はこれらの特徴の傾向が少ないかな、これってインターナショナルなの?)。
- 2024-05-18:Die Zauberfl
- このオペラを一言で表現すると18世紀のヒーローショー。あらすじだけ見れば昭和の特撮のテンプレート。その意味では今の少年漫画の原型がそこにある。特撮取ってた人が演出するのも納得。
- 2024-05-18:あろりきゃ
- 青柳いづみこ著の「グレン・グールド 未来のピアニスト」によると、デビュー当初グールドはリパッティの後継者として期待されていたようです。(師弟関係という意味ではなく、同じ音楽性を持つと踏んだ音楽市場から)
コンサート・ドロップする前のグールドはリパッティと同じく清廉な演奏で、コンサートでのモーツァルトの演奏も正統派路線で素晴らしいとのことでした。
それ故、普通に弾いたら上手いのだから普通に弾いたら良いのに…とソナタ全集の件でリリー・クラウスやニコラーエワから言われていたようです。
- 2024-05-18:アドラー
- 私の場合、リストのピアノ曲というと、演奏家はベルマンとかホロヴィッツ、シフラとか思い出し、作品は激しい曲を、あるいは、たとえ初めは穏やかでも途中から派手になる激しい曲をすぐに想像してしまいます。で、この演奏も、そうかな? と思いながら聞き始めたのですが、穏やかなままで、ピアノも落ち着いた美しい音色で、あれっ? もう終わり? という感想です。曲のことも知らないし、演奏家の比較もできないので、こんな単純な感想しか言えないのですが、落ち着いた、いい気分で聞けます。こういうのもリストにはあるんですね。
- 2024-05-17:大串富史
- ヘンデルと、演奏者の面々に、そして管理人様への感謝と共に。
これは… ちょうど5分ではないですか。次の中国人向け日本語多人数レッスンの5分間休憩バックグラウンドミュージックで、絶対に流す(長
#友人がコンサートでこれやシューベルトの菩提樹を歌っていたのを思い出しました。
こんな懐かしい出会いも、こちらのサイトならではですね。重ねて感謝です…
#それにしても一気にヘンデルまで来て、ふー、一抹の寂しさ侘しさのようなものを感じています… 名器の響き 鍵盤楽器の歴史的名器と題するCDがあるのですが、自分的にはなんでこちらがメジャーにならずラルゴがメジャーになってしまうのかという、まあ不満というか葛藤めいたものがあり、それは北ドイツオルガン学派の楽曲にしても、フレスコバルディらのイタリアンなギター曲(元は鍵盤楽器曲)にしても同じだったりします… 好みと言われてしまえば、まあそれまでなんですが。それでH(ヘンデル)の直後にJ(ヤナーチェク)のシンフォニエッタが流れると、やっぱりそうなのかなー、と。ご紹介いただいているモンティヴェルディ、コレッリ、テレマン、コレット、アルビノーニ、ヘンリー・パーセルらは、ちょっと無理があるものの、まあラルゴと同類、なんでしょうか。でもわたしなんかはやっぱり、スウェーリンクの半音階的幻想曲あたりをシンフォニエッタを経てバルトークにまで結び付けたいです… いつか機会があったなら、申し訳ないバッハ-ハイドン間の耳に優しいこれら楽曲を華麗にスルーした裏クラッシック楽曲(!?)を必ず紹介する(違
- 2024-05-13:大串富史
- バルトークへの惜しみない賛辞、またジェルジ・シャーンドルへの深い謝意、そして管理人様への尽きない感謝と共に。
この曲とバルトークのヴァイオリン協奏曲は、わたし的にはクラシック音楽の中で一番自分好みですー フランクをさえしのいでしまうのは、わたしがやっぱり21世紀の人間だからなんだろうなー、といつも実感です…
#だからハイドンやモーツァルトも、もしバルトークの時代に生き返って作曲を続けたなら、さらに現代人向けなキテレツ楽曲を作ってくれたに違いなく(違
管理人様の秀逸な楽曲解説にも、いつも感謝ですー 脈絡なく、ラヴェルのクープランの墓を思い出しました。人は不思議なもので、死(自分の死の予感も含む)というものに接すると、なぜか人類共通の感作のようなものがお互いに働きますね… この演奏はそういう意味でも聴く価値がありました。重ね重ね、感謝です。
#そんなわけでやっぱり二度の世界大戦とその記憶は(第三次世界大戦への恐れを含む)、現代人をしてキテレツにならせているというのがわたしの持論だったりします… もっともクラシック音楽という芸術そのものが、まあ言ってみればキテレツなんでしょうが(まて
- 2024-05-10:大串富史
- ハイドンへの惜しみない賛辞と、ナヴァラへの惜しみない賛辞、そして管理人様への賛辞と感謝も添えて。
うーん、どうしてなんでしょうか… ベートーベンのチェロ云々を聴いても、ふーん、で終わってしまったのに(重ね重ね申し訳ないですー)、このハイドンのチェロ協奏曲は… そしてナヴァラの演奏は… 出だしのチリチリさえなければ(これはわたしではなく、チリチリ音源を流した際の日本語学習者である中国人の某学生からのクレームでした… なので流すと学校側にクレームが直撃してしまう恐れがあります…)バックグラウンドミュージックとして絶対に流すのに(時間も5分休憩にジャストだし)、ただただ残念でなりません…
#そんなわけでわたしの中での三大チェロ協奏曲は、ドヴォルザーク、ハイドン、そしてディーリアスですか。えっと、シューマンも、うーん、今度機会を見つけて聴き直してみます…
それもこれも、こちらのサイトがあってのことですので、管理人様への賛辞と感謝は尽きません… ただただ、ありがとうございます…
#今回はアフィリエイトのお声掛けがあって、比較的気楽な作業(宣伝すればいいだけ)をしながらのコメントです。まあ貧乏暇なし、なんですが。いや仕事があるだけ、まあ感謝です。今回はこちらのサイト運営のみならず、サイト維持管理のご苦労ご足労への感謝も添えて。
- 2024-05-09:小林 正樹
- 音楽家と音楽愛好家にとって耳の疾患はほんとに耳の痛い話ですなぁ。ベートーヴェンしかりまた我が親友も(シベリウスお宅なんですがね、強度の耳鳴りに・・)、そしてこのスメタナさんも、実に可哀そうとしか言いようがない。こんなに素晴らしい音楽なのにねえ・・ホンマ世の中うまいこといきまへんな。
それはそうと文中のバーンスタイン氏の人が好いお話は、ああそうかもねえと思い出しましたわ。ウィーン在住のころ楽友会ホールでウィーンフィルの練習がありました。指揮はレニー曲はシベ2でした。レニーの棒がいまいち(我が道を行くが過ぎて)ぐちゃぐちゃになり見ている方もあぁ~!となってるとオケの管楽セクション(多分ホルンか?)から文句をまくしたてられ、もう一緒にやりたくないって感じの罵詈雑言。見てるこっちも冷汗ものでしたが、件のスーパーレニーは、よっしゃわかったとばかり指揮台に棒を置き「OKOK皆さん今日はここまで、本番はうまくいく!」と明るい声で指揮台を降りました。本番は残念ながら仕事で聴けませんでしたが友人が素晴らしかったよーと言ってました。CDになっている第2交響曲のことです。
- 2024-05-06:大串富史
- ショーソンへの賛辞、弦楽四重奏団の面々への賛辞、そして管理人様への賛辞をここに。
ショーソンにこんな作品がまだあったとは。でも、期待を裏切らないですねー
#第1楽章の終わりあたりを聴いて、自分はもうフランキストなんだなーと実感です…
実はこちらのサイトのクラシック音楽聴き巡りでついにハイドンまで行き着き、これまで聴きそびれていた(というか猫またぎしていた)ハイドンが、管理人様が仰られるように、まっすぐベートーベンへとつながっていくということをこの年になってようやく知ったわけですが、ロンドンを聴いて、あのその、これを流してジュピターの二の舞(ひとり聴衆つまり自分以外誰もいなくなってしまう)は困るし(まて)と悩み中であったのを、こちらをさらに第2楽章、第3楽章と聴いて、これは(はにアクセントが移った強調読み)中国人の学生さん相手の日本語多人数レッスンのバックグラウンドミュージックとして絶対流すと決めました。ふふふ…
そして第4楽章を聴きつつ、こうしてショーソンももれなく取り上げてくださった管理人様への賛辞と感謝は尽きません… ただただ、ありがとうございます。
#それにしても、リアルでレコード鑑賞会にご尽力されつつ、こうしてネットでバーチャル鑑賞会をも主催しておられるご苦労ご足労にはただただ頭が下がるばかりです… どうぞご自愛しつつ、この良いお仕事も是非お続けくださいますよう。
- 2024-05-06:豊島行男
- カザドシュとフランチェスカッティとの室内楽は素晴らしいですよね。
カザドシュって、「そんなにすごいピアニスト」です!
セルとの共演において、伴奏しているのはカザドシュだと思います。
だから、あのような白磁のようなオケ演奏ができるのだと思いますよ。
唯我独尊に徹したライブでのカザドシュは凄まじいです。
カンテルリ&ニューヨークフィルとのベートーベン皇帝では、多々ミスタッチもモノともせず豪快に引き切ってますね。
- 2024-05-03:yk
- 近頓にAIの発達振りが話題になり、その効用と共に害悪が論じられるようになりましたが、”知性”と言う観点からは(AIが有用であれ有害であれ)まだまだ未熟・・・と言うより幼稚と言ってよいレベルにあると言わざるを得ません・・・尤も”知性”の実態が何であるかの知見さえ未だにハッキリとした定義がないので、AIが幼稚なのも郁子なるかな・・・という処ですが・・・・。
何れにしても今回のランドフスカ評価のような問題では、その矛盾と言うか、インチキというか、欺瞞と言うか、おんぶにだっこの無責任とでも言うか、とにかく受け取り側の人間の適正な評価無しにはAIの回答は意味のないものになりかねないので要注意です。、
何といっても、現在のAI技術レベルから言って、例えば”演奏解釈における真正性を重視しました”と言った記述は明らかにランドフスカの演奏を”AIが聴いて”下した評価ではなく、どこかで誰かが”ソウいっている”と言う伝聞評価でしかない。そこには”AIの主体性”に基づく判断・主張が無く、単に世間ではソウいう説もあるよ・・・と言うある意味で極めて無責任な発言・・・とも言えるところがある(人間にもソウいう発言をする人はいますが・・・)。聴く方は慎重に”なるほど世間ではソウ言っている人もいる(らしい)”と言う程度に受け取っておく必要はあるでしょう(従って”ソウは言えない”・・・と言う反論も当然あってしかるべきででしょうね)。
勿論、将来AIも人間の曖昧な(いい加減な??・・・^_^;;)”知性”なるものを獲得して、”ランドフスカの真正性”について、「君も19xx年のランドフスカのバッハを聞けばきっと僕が感じた事を実感できるよ・・・」などと実例を挙げながら人間と丁々発止のやり取りをするようになるかもしれない可能性はありますが、まあ今のところAIにはランドフスカの演奏の真の意味は全く理解できていないと言うことは確かで、”多様性に富んだ芸術家の姿を理解するにはAIはまだまだ情報不足だ”と断定して良いとは思います。
・・・・勿論現AIでも、人間の”適正”な評価・判断のもとで使用すれば、人間の創造性啓発の為の(既存の)知識検索型の便利なツールとして極めて有用な側面がある・・・と言うのは明らかですが・・・。
- 2024-05-03:豊島行男
- すいません、今回は演奏への評価ではなくユングさんのコメントへの賞賛でございます。全く同意です。ランドフスカへの評価への評価、素晴らしい。
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[2025-04-30]

ショパン:ノクターン Op.37&Op.48(Chopin:Nocturnes for piano, Op.37&Op.48)
(P)ギオマール・ノヴァエス:1956年発行(Guiomar Novaes:Published in 1956)
[2025-04-27]

ロッシーニ:管楽四重奏曲第6番 ヘ長調(Rossini;Quatuor No.6 in F major)
(fl)ジャン- ピエール・ランパル (cl)ジャック・ランスロ (hrn)ジルベール・クルシエ (basson)ポール・オンニュ 1963年初出((fl)Jean-Pierre Rampal (cl)Jacques Lancelotelot (basson)Paul Hongne (hrn)Gilbert Coursier Release on 1963)
[2025-04-25]

ブラームス:交響曲第2番 ニ長調, 作品73(Brahms:Symphony No.2 in D major, Op.73)
ヨーゼフ・カイルベルト指揮 ベルリン・フィルハーモニ管弦楽団 1962年録音(Joseph Keilberth:Berlin Philharmonic Orchestra Recorded on 1962)
[2025-04-22]

ロッシーニ:管楽四重奏曲第5番 ニ長調(Rossini;Quatuor No.5 in D major )
(fl)ジャン- ピエール・ランパル (cl)ジャック・ランスロ (hrn)ジルベール・クルシエ (basson)ポール・オンニュ 1963年初出((fl)Jean-Pierre Rampal (cl)Jacques Lancelotelot (basson)Paul Hongne (hrn)Gilbert Coursier Release on 1963)
[2025-04-19]

ブラームス:交響曲 第1番 ハ短調, Op.68(Brahms:Symphony No.1 in C Minor, Op.68)
ヨーゼフ・カイルベルト指揮 ベルリン・フィルハーモニ管弦楽団 1951年録音(Joseph Keilberth:Berlin Philharmonic Orchestra Recorded on 1951)
[2025-04-16]

モーツァルト:弦楽四重奏曲第23番 ヘ長調 K.590(プロシャ王第3番)(Mozart:String Quartet No.23 in F major, K.590 "Prussian No.3")
パスカル弦楽四重奏団:1952年録音(Pascal String Quartet:Recorded on 1952)
[2025-04-12]

ロッシーニ:管楽四重奏曲第4番 変ロ長調(Rossini;Quatuor No.4 in B flat major)
(fl)ジャン- ピエール・ランパル (cl)ジャック・ランスロ (hrn)ジルベール・クルシエ (basson)ポール・オンニュ 1963年初出((fl)Jean-Pierre Rampal (cl)Jacques Lancelotelot (basson)Paul Hongne (hrn)Gilbert Coursier Release on 1963)
[2025-04-09]

ラフマニノフ:交響曲第2番ホ短調 作品27(Rachmaninoff:Symphony No.2 in E minor, Op.27)
アルトゥール・ロジンスキ指揮:ニューヨーク・フィルハーモニック 1945年1月15日録音(Artur Rodzinski:New York Philharmonic Recorded on January 15, 1945)
[2025-04-06]

ロッシーニ:管楽四重奏曲第1番 ヘ長調(Rossini;Quatuor No.1 in F major)
(fl)ジャン- ピエール・ランパル (cl)ジャック・ランスロ (hrn)ジルベール・クルシエ (basson)ポール・オンニュ 1963年初出((fl)Jean-Pierre Rampal (cl)Jacques Lancelotelot (basson)Paul Hongne (hrn)Gilbert Coursier Release on 1963)
[2025-04-02]

モーツァルト:セレナーデ第13番ト長調, K.575 「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」(Mozart:Serenade in G Major, K.525 "Eine kleine Nachtmusik")
ヨーゼフ・カイルベルト指揮 バンベルク交響楽団 1959年録音(Joseph Keilberth:Bamberg Symphony Recorded on 1959)