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リスニングルームによせられたコメント
リスニングルームによせられたコメントをまとめたコーナーです。多くの方の熱いコメントを期待しています。(2008年3月10日記)
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- 最初に申しておきますと、わたしはモーツァルトに比べますとサンサーンスは1/10もわかりません
費やしている時間はそれより遥かに少ないのだから当然ですが
一方サンサーンスに比べますと、わたしがヴォーン・ウィリアムスに費やしている時間はそのさらに1/10以下でしょう
少なくともわたしがヴォーン・ウィリアムスを語るというのはどこかおかしいところがあるのですが、そんな人間が車窓からちらっと見た風景をちょっとお話してみようと思います
わたしはイギリスの風景を直接知っているわけではありませんが、以前にシャーロック・ホームズのTVドラマを続けてみたときにその風景を色々見た経験はあります
日本は基本的に山国でその麓の僅かな平地に人が集まって住んでいるわけですが、イギリスには山も平地もございませんで、氷河に削られてできた日本にはないタイプの緩やかな大地がひたすら続いているようですね
当然そこはただの荒れ地でして、イギリスってなんて凄まじいとこなんだと驚いた記憶があります
日本で似たような風景があるのはあえていうなら高山地帯でしょうか
高山植物が生えているあたりは土地が極めて痩せておりますので、ちょっと似たような荒涼とした風景の中に、僅かな背の低い植物が必死にしがみついて生きております
イギリス人にとっての原風景というものはどうやらそんな風景であるようでして、ヴォーン・ウィリアムスに限らずイギリスの作曲家の音楽にはどこかそのようなところがあり、イギリス人が強く惹かれる世界というものはそういった風景なのかもしれませんね
ボールトの演奏はまさにそういった原風景にぴったりの気分が感じられるものでして、イギリス人は間違いなくこちらの方に郷愁を感じるのだろうと思います
そういったものをイギリス人にとっての原風景といたしますと、オーマンディの演奏は明らかに異質ですよね
響きが艶やかすぎてまるで別世界です
ところで、日本の高山地帯でも夏の極めて短い期間だけそこが別世界になる時があるのです
山では夏は極めて短いのですが、その極めて短期間にあらゆる草が一斉にお花を咲かせまして、一面がお花畑へと変わるのです
これはこれで感動的なのですが、オーマンディの演奏はそれとはいくらか違うような気もいたします
例えて申しますなら、高山のとっても高いところにその場にまるで不似合いな高級ホテルが建っておりまして、その一室で優雅にお茶をしながら景色を眺めているかのような風景なのです
その窓ガラスの外には咲き乱れる高山植物のお花畑が広がっているのですけどね
高山にそんなホテルなどは普通はありませんし、お花の時期が終わってしまえばそれは荒涼とした世界へと戻ります
これはどれが正しいというのではございませんで、どの場所からどの時期にどのように見るのもやはりその山の景色なのでしょうね
わたしはこの音楽には経験が薄いので、そのようなことを漠然と感じながら聞いておりました
たまにはそういう聞き方をするのも楽しいものですね
- 2021-07-17:コタロー
- 「ピーターと狼」はこのサイトでは初めてのアップですね。バーンスタインの演奏もいかしてるけど、この演奏は、バーンスタインがナレーターを兼ねているので、著作隣接権(?)の面からNGですかね。
アンチェルがこの曲を録音しているとは意外ですが、音楽が引き締まっている上にこの曲にふさわしいユーモアを忘れていないので、とても立派だと思います。
アンチェルの「ロメオとジュリエット」もいいですよ。アップを期待しましょう。
- 2021-07-17:ふっちゃん
- 若きドビュッシーのロマンチックな管弦楽曲はとても新鮮でした
- 2021-07-17:浅野修
- yung様の解説に「私の手持ちの音源にはナレーターがクレジットされていません。」とありますが、ジャケット画像には、Speaker: Eric Shillingと記載されてます。
録音、演奏、ナレーター共に生き生きとして良かったです。
- 2021-07-16:りんごちゃん
- ミュンシュの演奏はとてもよいですね
特に条件を出されずに、ここに上がっている演奏6つの中からどれか一つをおすすめせよと言われた場合、これを選ぶのが順当だとわたしは感じます
他と比べた特徴をあえていうなら、ここに上がっている演奏の中では一番はっちゃけた演奏でしょうか
実際のところは、「はっちゃけた」シーンでもオーケストラは常に冷静にコントロールの効いた響きを作っているので、正確に言うとはっちゃけたとこを演出しているのですけどね
ミュンシュというひとは、頭はクールに心は熱くということをよく理解していて、それを形にできる人なのでしょう
一方オーケストラの方は、それはよく理解しているけどまだサン=サーンスへの共感を形にしたいというところまではいっていない、というところがもしかしたら少しあるのかもしれませんね
パレーは頑張ってもはっちゃけるなどという事はできない人だったかもしれませんし、オーマンディはそのようなものは明らかに慎重に回避しています
少なくともパレーのような見通しの良さとかオーマンディのような中庸で耳あたりの良い演奏といったものはこのひとあまり考えてませんよね
オーケストラの方は、クリュイタンスのもののように俺はサン=サーンスの使徒だなどと思っているところはかけらもないように聞こえますが、指揮者の方はサン=サーンスここがいいだろって色んな所で繰り返し語りかけているかのようです
パレーが馬鹿になりきれていないところできっちり馬鹿をやってくれているので、パレーのちょっと物足りないところで満足できる上に、クリュイタンスのようなオーケストラと作曲者との一体感のようなものはないかもしれませんが、サン=サーンスってこういうもんだというものを形にして見せてくれる素晴らしい演奏ですよね
それでいて録音も大変よいように思われるのです
音空間の塗りの美しさでも響きのみずみずしさでも文句ないですよね
オーケストラの音色は実際のところよくわからないのですが、弦は線が細いものの軽快で美しく優美なシーンにも華やかなシーンにもよく合うサン=サーンス向きの音色であるように感じる一方で、左右の分離が良すぎて時折中央がちょっとスカスカに聞こえたりもしますが、そんなことは気にせずいい湯だなして聞いたとき大変快い響きであるように思います
第三楽章終了1分前辺りの弦のみのシーンはこの録音の弦の美点がとくに際立って感じられるように思うのですが、わたしは頭の中にシャワーを浴びているかのような心地よさを感じますね
金管はもうちょっと自分の出してる音聞いたらと思うのですが
これを聞きますと、オーマンディの金管が耳をつんざかないようにどれだけ心を配って演奏しているかがよくわかりますね
要はそういったことを色々感じる程度には品質の高い録音であることは間違いないでしょう
この人のレパートリーにはモーツァルトはないようですのでわたしの認識の外にいる人でしたが、もう忘れることはないでしょう
それにしても、なんでフランス人ばかりがサン=サーンスを巧みに演奏できるのか、本当に不思議ですね
単に、フランス人以外はサン=サーンスの価値がわからないので、そもそも手出ししないだけなのかもしれませんが
もしそうであるなら、わたしのようにサン=サーンスは「映画音楽」だと思ってる人は、まず何をおいてもフランス人の演奏を聞くべきだってことになりそうですね
音楽ってのは結局考えるものではなく勝手にわかるものなので、サン=サーンスここがいいだろって色んな所で繰り返し語りかけてくれるような演奏を選んで、素直に音の流れに身を任せるのが本当は正しいと思うのです
追記:
Flacには2つ録音が上がっていますが、この2つは演奏は同じなんでしょうかね
結論だけ申しますと、わたしはリスニングルームに選ばれていない上の方(ファイル名が_Box.flac)の録音を断然好ましく感じます
こういったものを聴き比べるのも面白いのですが、この違いにこだわるのは間違いなくオーディオファンの方々ですので、ここから先はおまかせすることにいたしましょう
よろしければパレーのところもご覧くださいませ
- 2021-07-16:コタロー
- ヨハンナ・マルツィ、この女性ヴァイオリニストを覚えている人は希少でしょう。私もこのサイトで、シューベルトの幻想曲の素晴らしい演奏で初めて知りました。このモーツァルトの作品でも流麗な演奏で聴くものを魅了してくれます。このような優れた演奏家を紹介してくださったユング様の多大なる感謝の意を表したいと思います。
- 2021-07-15:りんごちゃん
- オーマンディからまず感じられるのは響きの心地よさです
響きは常に中庸から外れることがなく、聞いていて引っかかるような棘のようなものは全て排除され、物語の気分が聞き手の心に素直に落とし込まれるよう巧みに演出されています
テンポ設定なども変なことは一切致しませんで、主旋律が聞き取りやすく、物語の流れを演出するのに最適化したテンポを確実に選んでいますよね
ストコフスキーは、響きの心地よさを獲得するための理知的作業を音作りの方で極めて独創的に行ったのですが、オーマンディから感じられるのはそのような種類のものではありません
彼はむしろ職人なのだと思います
ハリウッド映画や時代劇のような娯楽作品は全て、既存の定石を様々に変奏することによって成立しているのでして、どこかで見たようなものだけど観客を確実に満足させる技術の洗練された結晶でもあるのです
オーマンディの演奏からはそういったものに近いものが感じられるのでして、そういった技術を洗練させ習得した職人だからこそ、極めて広いレパートリーを極めて高品質に外れなくこなすことができるのでしょう
こういった技術は主に娯楽作品の中で洗練される類のものなので、作品の魂と言えるような部分をどこか拾い出して尖らせることで個性を演出するタイプのつまりはほとんどの大家と言われるような人々の演奏を聞き慣れた人は、この演奏を娯楽作品のようだと感じてしまうことでしょう
曲が曲なので尚更ですね
わたしにとってのオーマンディはバルトークのピアノ協奏曲第三番を初演した人だったのですが、実はこんな人だったのですね
悲劇を演じる役者がたとえ心のなかで涙を流していなかったとしても、見るものに満足を与えることができるならそれでよいのではないでしょうか
これ別に批判してるのではなくて、わたしとしては絶賛してるつもりなのですが
こういった演奏に敬意を感じるというのはやはり天の邪鬼なんでしょうかね
クラシックの名演奏はみな「大家」のものばかりなので、こういった種類の名演奏のほうがむしろ貴重なのかもしれませんね
わたしはオーマンディがこの曲を録音してくれていてよかったと思います
ふと思ったのですが、こういった文章を書くにしましても、自分の感じたものにひたすら素直になって棘丸出しで書きなぐってしまいますと、読んだ人の気持ちを逆なでするだけで、自分の意図は伝わらずただ喧嘩して終わりになってしまい、全てを台無しにしてしまいがちですよね
慎重に棘を抜き聞き手の心に素直に気持ちを落とし込む努力というものは本当はとても大切なのでして、それができる人を大人と呼ぶのです
オーマンディはまちがいなく大人ですよね
よろしければパレーのところもご覧くださいませ
- 2021-07-15:藤原正樹
- 犬養道子が子供のときに聴いて、感動したと『花々と星々と』で書いています。
鋭いなあ。戦前は白樺派のインテリくらいしか聴けなかったのが、いま、万人に開放されている!
- 2021-07-15:コタロー
- こんなに格調の高い「スペイン交響曲」は滅多に聴けないでしょう。私自身、この曲にはどうもどぎつい印象があって敬遠していたのですが、この演奏は心安らかに聴くことができました。ヴァイオリンの演奏はもちろん良いのですが、伴奏指揮のアンチェル指揮チェコ・フィルのいぶし銀のような味わいが、この曲に微妙な陰影を与えていてとても魅力的なのです。
- 2021-07-15:joshua
- ムラヴィンスキーも、やってくれるじゃねえか!と喝破しそな演奏。
- 2021-07-14:りんごちゃん
- トスカニーニの演奏は管理人さんの仰るようにたいへん緊張感の高いものであって、最初から最後までビシッと張り詰めたかのような演奏です
第2楽章(第1楽章の2部のこと)などは、安らかであるとか穏やかであるとか言ったふうに聞こえそうな音楽のはずなのに、この人だと全然別物に聞こえますよね
この緊張感がずっと維持されているところは驚くべきことであって、本当に大した爺さんですね
その一方で、トスカニーニはモーツァルトであろうがサン=サーンスであろうが、なんでもベートーヴェンのように演奏し過ぎなのではないかという気がしないでもありません
なにも彼らの中にベートーヴェンを見出し、ベートーヴェンを盛り込まなければ価値がないなどということはないと思うのですが
ベートーヴェンというのが正しくなければトスカニーニと置き換えてもいいかもしれません
わたしたちが聞いているのはトスカノーノーによってビシッと張り詰めたオーケストラの緊張感の方なのでして、それを入れる容器はベートーヴェンであろうがモーツァルトであろうがサン=サーンスであろうが構わないのです
クリュイタンスの演奏では、オーケストラの集中力は彼らの信じるサン=サーンスだけに向けられていたかもしれませんが、トスカニーニの演奏ではそれはトスカノーノーあるいは彼の指揮棒に向けられているのです
トスカノーノーというものは彼の演奏に不可欠なのでして、彼にとってはそれすら才能なのではないかという気がしますね
大変立派な借り物の服を着ているかのような印象の演奏で、一番見るべきところはその借り物の服の彫琢の水準の驚くべき高さなのではないかと思います
服の下に隠されたサン=サーンスももしかしたら立派なものなのかもしれませんが、衣装が立派すぎて全く目立つことがないので、観客の目がそちらに向かうことは多分ないでしょう
ベートーヴェンあるいはトスカニーニを堪能したい人にはおすすめの演奏であると言えるでしょうが、サン=サーンスを堪能したい人におすすめできるかどうかはたいへん疑わしいですね
この演奏に向かって、素晴らしいベートーヴェンだ!などと叫んだら、怒られるんでしょうか
…などと言いながら、こんな事ができるのはトスカニーニくらいなのではないかと思っていたりするのですけどね
こういった先入観のたぐいを全部保留して聞いてみると、いろいろ変だけど面白い演奏であることは間違いありませんよね
冒頭から最後まで終始感じられるビリビリとした緊張感、まるで抜き身を振り回すかのような暴力的で切れ味鋭い響き、作曲者への共感などといったものを感じる余地のない指揮棒あるいは軍隊的統率へ全てが向かったオーケストラの集中力などといったものの全てが、いい湯だなを徹頭徹尾拒否しているわけでして、この人の演奏は、練り上げられ磨き上げられたトスカノーノーにすべての視線を集中することを要求してくるのです
わたしの印象を一言にまとめるなら、こんな時代があったんだなぁ、でしょうか
よろしければパレーのところもご覧くださいませ
- 2021-07-14:浅野修
- 理人ブログのコメント欄からの再掲です。
youtubeにセルの大阪LIVEのプライベート録音と思われる音源が追加アップされています。
「売られた花嫁」序曲 & 「英雄」第1楽章と第2楽章です。
ジョージ・セル 1970年5月16日 大阪LIVE
スメタナ「売られた花嫁」 序曲
ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」第1楽章、第2楽章
セル没後、51年記念。2021.7.30 期間限定
https://www.youtube.com/watch?v=BlQvG3KIgxQ
追加情報です。
youtubeにセルの大阪LIVEのリハーサル風景がアップされています。
ジョージ・セル&クリーヴランド管弦楽団 1970 日本公演
ベートーヴェン交響曲第3番「英雄」とモーツァルト交響曲第40番
1970年5月15日、大阪フェスティバルホールでのリハーサル風景。
サムネイル画像、コメント欄は、誤り
NHK収録。
https://www.youtube.com/watch?v=OxB7ZbesJ4Y&t=29s
- 2021-07-14:toshi
- クーセヴィツキー論、面白いですね。確かに「オレ流」を貫いた音楽は個性的で魅力的ですが、何時の時代でも作れる音楽ではないというのも実感です。ムラヴィンスキーやチェリビダッケのような
音楽は今後は出ないかな?
クーセヴィツキーはビーチャムのように自費でオケ作っても面白かったかも、と勝手に考えてしまいます。
- 2021-07-14:コタロー
- モシュコフスキはポーランド人だけに、「スペイン舞曲」といってもスラヴ的な情緒が見え隠れするのが魅力となっています。オーケストラ版は他人の手が入っているのがちょっと残念です。でもそれは、音楽の素晴らしさで十分補っていると思います。
こうなると、このアルバムの最後の一曲、グラナドスの「アンダルーサ」も聴きたくなります。そういえば、この曲も原曲はピアノ曲でしたね。
- 2021-07-13:りんごちゃん
- オッテルローの演奏は、他と比べると明らかに124楽章のテンポが早いです
形の上ではほんとはこの曲は2楽章構成であるらしく、その前半後半を別物とみなすと古典的交響曲の典型的四楽章構成と同じというだけなのですが、便宜的に4楽章物という形で呼んでおきます
第1楽章などはテンポが早すぎて、よく破綻しないなぁなどと思って聞いていましたが、そのようなことは意に介せず、そのテンポを維持して演奏することを第一に考えているようです
多分彼の頭の中には、この曲のイメージというものがすでにあり、そのイメージを形にするために演奏が行われているのであって、オーケストラはそのための道具に過ぎないのでしょう
そのイメージの魅力の方にこの演奏の魅力はあるのでして、実際に形となった演奏の方はむしろ、サン=サーンスへの共感というものがさほど感じられてこないのであっさり流しているように聞こえるのだろうと思います
わたしは彼の提示した作り物自体は魅力的だと思うのですけどね
このとっても早いテンポ設定自体に注目して聞くと結構説得力ありますよね
第4楽章などは、あのたったかのリズムが全体を支配しているのが妙にしっくり行く気がしますし、ラストスパートへのつながりが大変自然です
ただ、オーケストラはこれについていくだけで限界なのかもしれませんし、もしかしたらそういう状況を作り出したことが一番の問題なのかもしれません
頭の中のイメージを形にするというのはただの出発点なのですから
極論すると、この演奏はその出発点から踏み出すべき一歩をまだ踏み出していないのです
オーケストラとオルガンの調律が肝心な第4楽章で全然あってないのはご愛嬌ですね
これでOKを出せるというのがわたしには不思議なのですが、オルガンとオーケストラが一緒に演奏するということには、これで妥協せざるを得ないなにかがきっとあるのでしょうね
他の演奏ではちゃんとあってるはずですが…
演奏開始前に調律して3楽章弾いて、4楽章にたどり着いた頃にはオルガンとオーケストラの間でこれだけ調律が狂ってしまうのが避けられないのだとしたら、この曲を生演奏するのは実際のところ非常に困難なのかもしれませんね
よろしければパレーのところもご覧くださいませ
- 2021-07-12:りんごちゃん
- クリュイタンスの演奏でまず驚くのは、あのまるで合わせる気が感じられないフランスのオーケストラが、何故かビシッとあっているところでしょうか
まるで奇跡です
違う言い方をいたしますと、あのやる気なさげなフランスのオーケストラが、俺達がサン=サーンスを弾かないで誰が弾くんだ!とばかりに、超やる気になってサン=サーンスの使徒になりきっているかのように聞こえるのです
やっぱり奇跡ですかね
次に感じるのはオーケストラ操縦のうまさなのですが、彼の演奏は整った構築物のバランスを常にきっちり維持しながら、一つ一つのパートがことごとくそのメロディーを歌いきっているように見えます
オーケストラは最初から最後までずっと、一つ一つのフレーズを慈しみを持って演奏しているように聞こえませんか
この演奏には、サン=サーンスへの深い共感が感じられるような気がいたします
オーケストラは彼のもとで、サン=サーンスと心を一つにして歌っているかのように聞こえるのです
どこかの凄い人はオーケストラに「この音符を愛してください。」と常々語っていたという話らしいですが、それはこういう意味なのでしょうね
第1楽章(1楽章前半)などはぱっと見には悲劇的とでもいうような調子の音楽のはずなのに、この演奏からは、この場でみんなとサン=サーンスを弾く喜びのようなものが溢れて止まらないようにわたしには聞こえます
クリュイタンスがオーケストラに求めたのは、もしかしたらこれただ一つだけだったのかもしれません
こういったものは多分指揮棒からも、リハーサルからも生まれることはないのでしょう
少なくとも指揮棒やリハーサルの中身などに意識を向けているうちは、そのようなものが姿を現すはずはありませんよね
終楽章(2楽章後半)などはゆっくり目のテンポですが、この一見「輝かしく華やか」以上でも以下でもない映画音楽の極致のような音楽を、ここまで心を込めて共感を持って演奏しているものはないでしょう
一箇所だけあげますと、オルガンのじゃ~んのあとピアノが分散和音で主旋律を重ねるところがありますが、他の演奏ではこれが響きのパーツを超えることがないように思うのですが、この演奏だけは完全にそれを歌いきっていますよね
このテンポ設定は、単にこのピアノパートをはっきり聞かせたいというだけでなく、どの部分も弾き飛ばすことなく大切にしたいという気持ちの現われであるように思えるのです
他の演奏では、作曲者の意図を再現するであるとか、見栄え良く聞かせるためにはどのような演出をすべきであるとか、あるいは自分の持ったイメージを再現するとかいった形で作品に向かっているように思えますが、この演奏だけはその音楽への共感が根底にありまして、それをただ伝えたくてこれを演奏しているかのように思えるのです
こういう演奏を素晴らしいと言わずして、何を素晴らしいといえばよいのでしょう
…などと言ったら褒め過ぎかもしれませんので、2,3割ほど割り引いてお読みいただけばちょうどよいかもしれません
少なくともわたしはこの演奏が大好きです
よろしければパレーのところもご覧くださいませ
- 2021-07-11:コタロー
- シューベルトのこの世のものとは思われないロマンティックな世界が展開していきます。
30分近くかかる曲なのですが、音楽に陶酔してしまって長さを感じません。晩年の移ろいやすいシューベルトの心情をマルツィはこの上なく美しく表現しています。
それにしても、シューベルトにこんな隠れた名曲があったのですね。ご紹介していただき、大いに感謝したいと思います。
- 2021-07-11:りんごちゃん
- 今回は管理人さんのまねをいたしまして、この曲に対する印象を共通項として用意し、個別演奏の印象はそれとは別に書いてみました
すべての感想に同じ文章を連ねるのもなんですので、わたしにとっての基準であるパレーのところに曲への印象+個別感想を書き込み、他の演奏すなわちクリュイタンス・オッテルロー・トスカニーニ・オーマンディ・ミュンシュのところでは個別演奏の感想のみを述べさせていただこうと思います
管理人さん、いいですよね?
サン=サーンスは歴史上最初の映画音楽を作った人らしいですが、このエピソードが象徴的と感じる人は多いと思います
現代のわたしたちの多くが共有している感覚から見たとき、彼の音楽を一言で言うなら「映画音楽」でしょう
わたしは、オルガン付きの第四楽章冒頭(じゃないのですがそう呼んでおきます)を初めて聴いたとき、驚くというよりは大笑いしてしまったくらいです
彼は「この曲には私が注ぎ込める全てを注ぎ込んだ」と述べているらしいですが、なまじいっぱい持ってる人が持てるものを片っ端から盛り込みすぎているところが、かえって際物のように見えてしまうところはどうやらあるようです
管理人さんが書かれていることから少し引用いたしますが
「「クラシック音楽の王道としての交響曲」という「観点」から眺められると、どこか物足りなさと「気恥ずかしさ」みたいなものを感じてしまうのです。」
というのがなかなか絶妙なところをついていると思うのです
サン=サーンスの音楽を聞きますと、徹頭徹尾「深遠さ」などというものを求めた形跡は感じられないのですが、それ故に、「深遠な」音楽こそ価値があるという価値観がその基準として幅を利かせている時代には、彼の音楽には価値ある音楽となるために必要不可欠なものが欠けているように見えてしまい、価値が薄いものとみなされてしまうのは当然なのでして、そのような状況で彼の音楽が素晴らしいというのは裸の王様に裸だというのと同じくらいの勇気が必要となるのです
彼の音楽に感じる物足りなさは「深遠な」音楽こそ価値があるという価値観を共有しているからこそ生まれるものであり、その「驚きとヨロコビ」を認めた自分がその価値観からは音楽をわかっていないも同然と判定されることになってしまうので、裸の王様に裸だという勇気を持てないつまりは音楽を「わかっていない」と自認する勇気を持てないわたしたちは、その自分の感じた「驚きとヨロコビ」を「気恥ずかしさ」をもってそっとしまい込むことになってしまうのです
人間は自分の目に映っているものよりも、自分の価値観を擁護することを優先してしまう生き物なんですね
わたしが仮に使用した「深遠な」という表現が適切でないとお感じの方は適宜差し替えて読んでいただければと思います
ロマン・ロランがサン=サーンスを「古典的フランス精神のただ一人の代表者」と評したらしきところからもわかるように、フランス人の間ではサン=サーンスの求めた音楽はその価値観の中に一応共有されているのでして、だからこそフランス人の演奏家はサン=サーンスをこれだけ見事に演奏できるのでしょう
逆にいいますと、フランス人以外でサン=サーンスの魅力を引き出せる演奏家はあまりいないのではないかと思うのですが、それは単にフランス以外の地域ではこの音楽の価値に当たるものがほぼ共有されていないということを意味するのでしょうね
サン=サーンスは明るく美しく晴れやかで華やかな音楽を作る人で、その特徴は多分生涯かわっていないのでしょう
明るく美しく晴れやかで華やかに演奏するというだけでしたら、別にフランス人じゃなくてもできるんですけどね
わたしの贔屓を述べる必要はあまりないように思うのですが、わたしがサン=サーンスを手に取る回数は少なくとも同時代の他の作曲家よりは多いことは間違いありません
またわたしがサン=サーンスのオルガン付きをベートーヴェンの第九より好ましく感じていることはどうやら間違いないようです
わたしもサン=サーンスを「映画音楽」だと思っているのですから、わたしはきっと相当な天の邪鬼なのでしょう
そういえば近頃こちらにオーマンディのヨハン・シュトラウスがいくつか上がっておりましたが、ヨハン・シュトラウスなどは現在では「ポピュラー音楽」に分類されるのでしょう
その一方で、誰もが一度聞いただけでこの音楽の魅力を理解できるのですから、明らかにこの人は天才でしょう
これなども「深遠な」音楽こそ価値があるという価値観がその基準として幅を利かせているからこそそのような評価になるだけなのでして、サン=サーンスも実は「映画音楽」のままで十分偉大だったりするのかもしれないですね
パレーの演奏はわたしにとって一つの基準であるといってよいでしょう
最初にこれを聞いてから、他の演奏を落とす必要を全く感じないくらい、これに何かを付け加える必要を感じません
あえていうなら、弾けてほしいところで力をセーブしてしまっているところがあり、馬鹿になれていないところが物足りないくらいでしょうか
これで、調和の取れたコントロールされた馬鹿が弾けた演奏になっていれば、奇跡的名演になっていたかもしれないと思うのですが、そのようなものはただの妄想ですね
録音の品質も含め、わたしにとってはこれが第一選択肢であることは変わらなさそうです
言葉を変えれば、こういうのがわたしの趣味なのかもしれませんね
残響少なめの室内楽のような録音なので細部への見通しは大変良く、たぶん理知的な聞き方をする人向きで、官能的な聞き方を好む人はオーマンディやミュンシュなんかのほうが楽しいと感じるかもしれません
説明不要だと思いますが、理知的ってのはここではこんなことしてるんだってのに注意を向けるような聞き方で、官能的ってのは音の流れに身を委ねていい湯だなする聞き方のことですね
残響少なめでもみずみずしさに欠けるということがないので、むしろ音空間の隅々に至るまで鮮明に塗り分けられた細密画を楽しめるという意味で、わたしはこの録音は官能的にもとても魅力的に感じるのですよね
この説明自体がすでに理知的な聞き方だと言われそうですが
音空間の塗りの美しさという点だけで申しますと、絵の具の鮮やかさだけはミュンシュに全く及びませんが、それ以外のすべての点でこの録音に並ぶものはないように思います
そういえばこの演奏について何も説明しなかったような気がするのですが気のせいでしょう
一音たりともゆるがせにせずそれでいて造形が崩れることがなく、全体を眺めるのも細部に注目するのも自由自在なので、素晴らしい彫刻を近づいたり離れたりしていろんな向きから眺めて楽しんでいるかのような気分になれる演奏だと思います
- 2021-07-10:エラム
- 吉田秀和氏のオーマンディ評を直に読んだことがないので吉田氏の真意を図りかねる部分はあるのですが、文化の「保守者(キーパー)」で一体何が悪いというのでしょうか。
創造者>保守者という序列は理解できますが、本当にクラシック音楽文化を保守できていたなら大したものです。
そもそも、他人が作った曲を演奏する以上、指揮者もピアニストも弦楽器奏者も基本的には文化の創造者ではありません。文化の保守者や継承者でしかありません。
カルロス・クライバーやムラヴィンスキーやセルがいかに半永久的に後世に残る名演を残したとしても彼らは文化を活かしているのであり生み出しているとはいえないと思います。フルトヴェングラーは(彼主観ではライバルはトスカニーニではなくR.シュトラウスだった)文化の創造者を目指しましたが叶いませんでした。
死後も忘れ去られずに聞き続けられるかどうかも結果論に過ぎないと思います。演奏家の第一の使命は会場(ないしライブ配信)を訪れたお客さんを満足されることであり、最初から後々まで残る演奏を志してしまえば無理筋を個性とはき違えた楽譜から大きく逸脱した演奏になるでしょう。
録音は殆どないものの、オーマンディはウィーンフィルからも敬愛を集めて幾度も招かれたそうです。そして独墺系の大曲を幾度も任されたそうです。当時のウィーンフィルからそのような扱いを受けたという事実は吉田秀和による論評よりも高い公信力があると感じます。
- 2021-07-09:コタロー
- アンチェルはドヴォルザークの交響曲では「新世界より」のほかにこの「第6番」を録音しており、そのCDを所有しています(どちらもチェコ・フィル)。アンチェルの「第6番」の演奏は、地方色豊かなオーケストラの特色を生かして魅力的なものです。それに比べてケルテスの演奏はインターナショナルな響きを持っています。ただし、第1楽章の提示部を反復するのは、いくぶん冗長度を感じさせてちょっと残念です。しかし、お目当てのスケルツォ(フリアント)はお互いに引かない互角の勝負を繰り広げます。このように違う演奏の聴き比べをするのは、クラシック音楽の醍醐味ですね。
- 2021-07-06:コタロー
- 再度投稿します。この演奏、かのジョージ・セルの名演奏に似ていると思いませんか?
1958年の時点で、これだけ水準の高い演奏を繰り広げているのは驚異的ですね。セルの演奏はしばらくパブリックドメインにならないので、その渇を癒やすのにもってこいですね。
- 2021-07-06:ほんのむし
- 先日投稿したうち、不正確な部分がありました。ハスキルが、モーツアルトに本格的に取り組んだのは、40代でなく30代からであり、若い頃は、リスト、ショパン、シューマンなどロマン派や、バッハやスカルラッティなどバロックにも興味をもち、モーツアルトの演奏を頼まれても、断ったことすらあったようです。(もっとも、リパッティとの間では、互いのモーツアルトを聴いてから、自分の演奏を躊躇う、断るなんてことも、双方にあったようですが。)
また、モーツアルトの協奏曲では、10番(2台のための)も、幾度も演奏しています。アンダとの共演です。こうして見ると、彼女の遺した録音の曲目(一つの曲に複数の録音があったりする)とすっかり一致していています。
- 2021-07-05:りんごちゃん
- こちらのFlacに上がっているベイヌム・セル・ストコフスキー・カラヤンとリスニングルームのスタインバーグの水上の音楽を聞きましてそれを比較したメモを書いてみましたところ、少々分量が大きくなりすぎましたので全体をご紹介するのは諦めまして、ストコフスキーと関わる部分のみ抜き出してこちらに書くことにいたします
ストコフスキーの演奏はセルなどとは真逆でして、非常にのっぺりとしたぬるま湯のような音の心地よい流れが身を包んでくれるように音楽を作っており、セルの演奏の暴力的なアタックの刺々しさに当たるような類のものは一切排除されています
響きもセルとは真逆でみずみずしい代わりに細部の見通しなどはまるで眼中にない響きを追求しています
むしろのっぺりとしたぬるま湯を実現するためにはそのような見通しなどというものは不要というよりむしろ障害ともいえるでしょう
そのようなものに注目されてしまってはリラックスして入浴など出来ませんから
セルの演奏を極めて理知的な演奏と呼ぶならこちらは極めて官能的な演奏であると言えるでしょうね
やっていることはそれを得るための極めて理知的な作業なのですが
このようなものを彼は発明しただけでなく、その録音の中ではそれがここまで徹底され現実のものとなっているのです
正直に申しますと、この演奏一つ聞いただけでもストコフスキーという人には感服しないではいられません
セル・ストコフスキー・カラヤンの三人はいずれもその演奏のどこかを非常に鋭角的に尖らせているわけでして、その狙いあるいは目標とするところがはっきりしており、それを達成する代わりに他の演奏では得られていた魅力にはいささか欠ける、という取引を明確に行っている演奏であると言えるでしょう
わたしがスタインバーグの演奏に驚いたのはそのようなたぐいのものが全く感じられないところです
・・・と続くのですがその話は省略いたします
話がいきなり飛びますが、ヘンデルの最大の美点は、華やかで輝かしく美しいがそれでいて気品のある音楽を達成しているところだと思うのです
わたしは、華やかで輝かしく美しいがそれでいて気品のある音楽というものは大変貴重で素晴らしいものだと思うのですが、こういった種類の音楽こそ、モーツァルトのいう、耳に快く響くけれども空虚なものに堕すことのない音楽というものでして、「深遠な」音楽こそ価値があるという、とある時代に流行した価値判断のもとでは低く評価されがちですが、モーツァルトもベートーヴェンもヘンデルを非常に高く評価していたのはこのあたりなのではないかと今の所わたしは勝手に思っております
ヘンデルはこの種の音楽の第一人者なのでして、下手な小細工をしなくても素直に高水準の演奏をすれば、それは華やかで輝かしく美しいがそれでいて気品のある音楽を達成できるはずでして、別にセル・ストコフスキー・カラヤンなどが尖らせたようなところをあえて尖らせずともそれは達成できるのです
一見これと言って特別なことをしているように見えず、響き自体は他の三者より貧弱なベイヌムの演奏が、むしろヘンデル自体に内在する輝かしさを体現できているようにわたしには見えるのです
非常に乱暴に申しますと、セル・ストコフスキー・カラヤンの演奏は、もともと美人なヘンデルに厚化粧を施してしまっている演奏なのでして、その化粧が美人を様々な方向に巧みに引き立てることに成功しているとは思いますが、ヘンデル本人とはあまり関係のないところで作られた美しさであるような気もしますよね
無論それも音楽の楽しみのうちなのでして、これをまるまる否定しようなどというのは、化粧そのものを全否定するようなものですね
ベイヌムの演奏はすっぴんかせいぜい薄化粧でして、ヘンデル自身の口を通して思う存分語ってもらうことに徹しそのための準備を用意周到に行っているかのようなものであって、ヘンデル自体に内在する尖らせていない美しさだけにその魅力を依存しているぶん地味な代わりに、厚化粧の持つくどさというものを逃れており、それに辟易する人はこちらを好むのではないかという気がいたします
スタインバーグの演奏は、どうやらハーティ版由来らしき物量作戦の響きの範囲内に収まるのは当然のことですが、それ以上の厚化粧を施していない通常オーケストラでの演奏としてはすっぴんに近い魅力を持つように思います
で果たしてわたしは一体この中のどれを選んだのでしょうね
わたしの申し上げたようなことは、いわば後付けの言葉の遊びのようなものに過ぎないのでして、こういったものは好きなのを選べばそれでいいんですよね
追記:
ストコフスキーの王宮の花火の音楽のラストの花火の音を聞きますと、思い浮かぶのはバラエティ番組などでよく耳にするサクラの笑い声です
あのようなものは無論やらせなのでしょうが、あれがあることで視聴者は他の人達と一緒にそれを見ているかのような気分になれるわけですよね
あの手の番組は一人寂しく大真面目にそれを鑑賞するためにあるのではないのでして、その場に設えてあるパイプ席の一つに自分も一緒に座って周囲と雑談しつつ笑いながらぼーっと見るためにあるわけです
お茶の間にいながらにしてそれを実現するためにサクラの笑い声があるのと同様に、ああいった花火のたぐいのものは本当は重要な役割を果たすのでして、わたしはもう少し派手にやってもよかったかとも思います
そういえば魔笛の1幕の方の夜の女王のアリアの導入で雷がなるわけですが、あれもショルティの録音のようにリアルな雷を使用している録音もありますよね
あれに文句を言う人はあまりいないと思うのですが
そもそもハーティ版自体がある意味ストコフスキー同様の特定の部分を尖らせる意図を持った改変の行われたスコアなのでしょうし、そういった演奏を好まない人はベイヌムのものなどを聞くという選択肢も現在はあるわけですからね
- 2021-07-05:Griddlebone
- すみません…
私には「ファンファーレ」まったくハチャメチャに聞こえませんでした。
確かにセルの演奏とはかなり違います。
テンポが速めなので確かに騒然とした雰囲気にはなったいますね。
トランペットの音色、トロンボーンのバランスもかなり異なっています。
セルの演奏は意図的にトロンボーンを抑えているように聞こえます。
ちなみに私も刷り込みはセルの演奏です。
- 2021-07-03:コタロー
- グールドはピアニストの鬼才ですね。好き嫌いはともかくとして、とりわけバッハの音楽に対しては、無類の実力を見せつけてくれます。グールドのピアノ演奏の特徴として、左手の雄弁さが挙げられます。もしかして、グールドは左利きだったのではないでしょうか。
これを武器として、バッハの音楽における「対位法」の妙味を明瞭に描き出していきます。
そして、グールドは聴く人の「知的好奇心」を盛んにくすぐってきます。グールド嫌いの人は、まさにそこに拒否反応を示すのではないかと推察します。一方、グールド・フリークの人たちはそこがたまらない魅力なのでしょう。
- 2021-07-03:りんごちゃん
- わたしはモーツァルト贔屓ですので、グールドを初めて聞いたときにもちろんこの演奏も聞いたわけですが、その時点ではあまりに普通すぎて印象もなく、そのままお蔵入りしていました
今回久々に聞き直してみたのですが、ちょっと面白いと思ったところがありますので、そこだけ書いておくことにいたします
演奏自体は至極まっとうな演奏に聞こえるわけですが、つまりはグールドという名前から想像されるエキセントリックな演奏でないという意味でして、わたしが一度聞いてお蔵入りしたのもそのあたりが原因ではあったようです
そのようなものにした理由は無論わかりませんが、ベートーヴェンの晩年のピアノソナタのような演奏にも、またベートーヴェンのピアノ協奏曲第一番のような演奏にもするアイデアがなかったのか、あるいはこの共演者にそういった演奏を理解してもらえる見込みを感じられず、はじめから自分の方からすり寄ってこのコンビでできる演奏をしようと観念したのかもしれません
あるいは、エキセントリックな演奏の方ははじめからピアノソロ音楽の方で行う予定だったので、こちらでは普通の演奏を見せておこうという考えなのかもしれませんが、古い方のk330やk394などの演奏を聞きますと、はじめからあそこまでエキセントリックに弾いていたわけではなかったようですし、お馬鹿な演奏というものはネタを思いつかなければなかなかできるものではないということなのでしょう
話をk491に戻しますと、他の人の演奏と幾分異なって聞こえる部分もあります
普通の演奏ではメロディーの方つまり多くは右手の方を大きく左手の和音の方を小さく鳴らすわけですが、あえてそれを逆に弾いている部分が結構多いですよね
またよく聞きますと楽譜にない音を弾いている部分が結構ありまして、グルダほど派手にやらかしてはおりませんが、当時の習慣に基づいて独奏者が即興で入れている装飾が散見されます
このいずれも「普通の」演奏が頭に入っていることを前提に聞いてもらう演奏であることは間違いなさそうですよね
前者の場合、「普通の」演奏で大きく鳴っている部分が記憶で再生され、グールドの演奏で強調される部分がそこで重ねられることによって、あたかもポリフォニー音楽のようにというと少々おかしいのですが、イメージが二重写しに頭の中では鳴るのです
言い方を変えると、グールドはこの共演者だけでなく、過去全てのピアニストと共演しているのかもしれません
そういった場合、グールド本人の演奏がエキセントリック過ぎますとかえって障害となりますので、あえて全体としては普通っぽく弾いているのかもしれませんね
即興で差し込んでいる部分についてはあまり派手なことをしておりませんので、エキセントリックな意図はまったくないのでしょうが、グールドのいつもどおりトリルをスローで弾いたりするところなども含めまして、いつもと違う音を鳴らすことによって聞き慣れた先入観から外れたものにしようということは少なくとも意図しているのでしょう
先入観を外すというのはあらゆる作曲あらゆる演奏の基本なので、あえて挙げるまでもないことではありますが
24番を選んだのは単に例えば23番などと比べますとそういったことがやりやすいというだけのことだったのかもしれませんね
ただ全体としましては、やはり普通の演奏の延長上にあるものであって、グールドでなければ出来ない独自の魅力を持つ演奏というものには程遠い気もいたします
グールドの弾くピアノソナタが、賛否はともかくといたしまして人々の記憶に残るものであった一方、こちらがそうならなかったのは残念なことですが、やはりグールドが協奏曲を演奏するというのは現実問題として障害が多すぎるのでしょうね
わたしは音楽に費やす時間の半分はモーツァルトに費やしているくらいですが、この演奏は別になくても困らないなと思う一方で、ピアノソナタの方は大変面白いと思うのですけどね
ああいうスタイリッシュかつお馬鹿な演奏ができるのはグールド位のものですし、あれを面白いと思えるなら素直にそれを楽しめばよいと思うのです
その一方で、モーツァルトにはモーツァルトだけが与えてくれるなんともいえない味わいのようなものがありまして、それがあるからこそモーツァルトはかけがえのないものとなっているのですが、グールドの演奏からはそういったものが伝わってくることは残念ながらありません
まぁ天の邪鬼なグールドにそれを求めるのははじめから間違っているのですけどね
モーツァルトを聞くときはモーツァルトの与えてくれるものを楽しめばよいのと同じように、グールドを聞くときはグールドの与えてくれるものを楽しめばよいのであり、音楽ははじめからそういうものであるらしいですね
モーツァルトを楽しみたいのでしたら、グールドおすすめのシュナーベルでも聞いたほうがずっと楽しめるのは間違いなさそうです
- 2021-07-02:コタロー
- 私が10代後半の頃、CBSソニーから「ベストクラシック100」というレコードが出ていました。ジョージ・セルに関心を持ち始めた私は、すかさず彼のモーツァルト交響曲39番・40番のLPを購入しました。40番の方は、素晴らしい演奏と思いつつ、当時家にあった家庭用ステレオでは音がきつく聞こえたので、もっぱら39番の方を聴いていました。ここで驚嘆したのは、クリーヴランド管弦楽団の弦の響きのクールな美しさでした。
実はこの演奏、小林利之氏の著書『ステレオ名曲に聴く』には、「娯楽性はまったくありませんが、やはり忘れられない演奏です。」と書かれていて、「この曲には娯楽性なんて必要ない!」なんて息巻いていたのも懐かしい思い出です。
- 2021-07-02:はい、どーん
- バルトークのカルテットを初めて聞いたとき、「これはベートーヴェンだ!」と思いました。専門的なことはなーんもわからんただの音楽好きですが、直感でそう思ったのです。
以来バルトークの音楽にとても親しみを寄せています。伝記も読みました。「父・バルトーク」というの読んだことありますか。すてきな本です。題名通り、息子さんが父親の思い出を語るというものですが、ほんとうに父のことを愛情を込めて書いているのが感じられて感動的です。
天才作曲家の特徴というのは、古今東西の音楽に通じているマニアであるということと、さらに新しい楽器の扱いに精通していることだと思います。バルトークはベートーヴェンやモーツァルトをほんとうに敬愛していた。伝統の否定から新表現が生まれたのではない。
その知識に基づいて自由に「交配」を行います。最新のものと最古のものとをかけ合わせる。西のものと東のものを混ぜ合わせる。…たとえばピカソは、当時パリで最新のアートと、アフリカの原始美術を合体させました。すると知識のない素人には、何もないところから飛んでもない変異種が生まれてきたというふうに見えます。
自作の初演をフルトヴェングラーに依頼したこともあるそうだから、合奏の完璧にこだわる人ではなかったのでしょう。残された自作自演の録音を聞いても、けっこう恣意的にテンポを動かして情感を出しています。
取り留めのない文章を送ってすいません。私が言いたいのは、バルトークの音楽はすてきだ! ということです。音楽愛と、知的好奇心にあふれているからです。
- 2021-07-01:りんごちゃん
- いつも大変お世話になっております
わたしは「グールド信奉者」というわけではないのですが、管理人さんがここで書かれていることを読みますと、最後のところでかゆいところに手が届いていないなという印象を持たざるを得ませんので、ちょっとだけ補足してみるのもよいかと思います
Mr.Sのシューベルトの未完成のページなどに管理人さんが書かれていることをまず引用させていただきますと
「最初から求めもしなければ追求もしていないものがないからと言って文句を言うのは筋違いで、もしもそう言うものが欲しいのならば、そう言うものを「売っている」お店に行けばいいのです。」
もっともな話ですよね
ゼルキンの演奏する第五番に管理人さんの言われるような魅力があることは承認してよいと思うのです
一方グールドははじめからそのようなものは眼中にないので、管理人さんの仰るようなことをいわれても多分痛くも痒くもないでしょう
グールドに対しては、例えばピアノソナタ32番で達成されているような、めちゃうまでファンタスティックな詩情あふれる音楽を作り上げることに失敗しているとだけ言ってあげればよいのです
でグールドがベートーヴェンのピアノ協奏曲でファンタスティックな詩情あふれる音楽の実現におおむね失敗しているのは間違いないと思うのですが、ピアノソナタ32番のような演奏に周囲から合わせるのはまず無理そうですよね
そのようなことができるのは多分グールド位のものでしょう
結局第五番の演奏のように、出だしは「おっ、これは面白いかな!」と思うものであっても、共演者がグールドの意図についていくことができず、「破綻をきたさないようにおつきあい」をする以外のことが出来ないので、グールドの方から共演者にすり寄っていく以外に選択がなく、ピアノソナタ32番のようなグールド的魅力にあふれる演奏にも、またゼルキン的魅力にも欠ける中途半端なものにとどまらざるを得なかったのでしょう
こちらには第一番の演奏だけが上がっていませんが、グールド作のカデンツァの著作権が切れていないということなのでしょうか
このカデンツァの中に、グールドがベートーヴェンの協奏曲をどのように演奏したかったのかが凝縮されているようにちょっと思えるのです
第一番の演奏では、異様に速いテンポでクールに暴走している中になんとも言えない滑稽さが感じられる所が良いと思うのです
第1楽章のカデンツァは何故かフーガになっており、その場違い感がなんとも言えず滑稽で実にシュールな演奏に仕上がっています
実際のところ、このカデンツァで使われているテーマはもともとコミカルに聞こえるところのあるものでして、ベートーヴェンはそれを大真面目に使っているのですが、グールドのように弾くとそれが滑稽に聞こえるところが面白いので、作曲者が大真面目に振る舞っているところとの落差が大きくそれが実に効果的に聞こえるという点で、この曲はこのような演奏に大変向いている曲なのかもしれません
笑いというものは真面目に説明するだけ余計なお世話ですので説明はこのくらいにしておきましょう
そういえば、グールドはモーツァルトのピアノソナタでもこういう変な演奏を繰り広げているのですが、モーツァルト本人はそういう阿呆が大好きな人間だったので、きっと墓の中で大喜びしていることでしょうね
グールドは多分モーツァルトと同じようにDifficile lectu mihi marsなどと真面目な顔をして歌っているだけなのです
グールドはこういう演奏を大笑いして楽しみたいだけなのでしょうが、そういうものを理解できないタイプの人にとっては、グールドの演奏ははじめから理解不能な部分がかなり大きいのではないかと思いますし、それはやむを得ないことでしょう
グールド本人も誰もがこれを評価するなどとは思っていないでしょう
多分バーンスタインの頭の中にはこういったものはかけらもなかったのでしょうね
グールドが協奏曲を演奏できない最大の原因はそんなあたりにきっとあったのではないかという気がいたします
この5曲の中では第一番の演奏が一番出来が良いと思うのですが、伴奏者はこれだけがゴルシュマンでして、ゴルシュマンとはバッハでも息のあった演奏を達成していますから、彼だけがグールドの意図を理解しそれに合わせることができる指揮者だったようです
グールドは他の曲でもこのくらい変な演奏にしたかったのではないかと思うのですが、流石にそれには障害があまりに多すぎたようですね
管理人さんによると、グールドは「ベートーベンは独りよがりな作曲家の究極の歴史的例証」などと言っていたらしいですね
わたしはこの言葉は概ね正しいのではないかと思うのですが、同じように「グールドは独りよがりなピアニストの究極の歴史的例証」ということもできるかもしれませんね
こう言ってしまいますと、ベートーヴェンに対してもグールドに対しても最大級の賛辞となってしまいますが
協奏曲というスタイルはそれに絶望的に向いていないのは確かなようでして、5曲ともゴルシュマンと組んでおけばよかったのにと思わずにはいられません
- 2021-07-01:ほんのむし
- 畠山陸雄さんによるハスキルの伝記を読んでいます。4歳のとき、ブカレスト音楽院の教授のところへ連れて行かれて、モーツァルトのソナチネを聴かされて、初めて聞いたその曲をただちに再現した、しかも転調して、とか、8歳のときにウィーンで初の協奏曲公演としてモーツアルトの23番を弾いて高い評価を受けたとか出ています。が、本格的にモーツアルトに取り組んだのは40代になってから、といった表現も出ています。また、キャリアの中でも、ステージ恐怖症をかかえながら、協奏曲には多く取り組んでいますが、ベートーヴェンの3番と4番、シューマンのもの、ショパンの2番、モーツアルトの9番、13番、19番、20番、23番、24番、27番ばかりが繰り返し、取り上げられています。22番は2回、15番、25番は1回きりか。バッハの幾つかの協奏曲、そしてラフマニノフの2番もわずか。他方、ベートーベンの5番は一度も出ず、ショパンの1番も2回ほど、ブラームスの2番も1回きり。パリで学んだことから、サンサーンスの4番、5番とかファリャとかもありますが、今のようにメディアも少なく、録音が盛んでなかった時代の特徴なのか、彼女が圧倒的評価を受けたのが遅れたせいもあるもしれません。シューベルトの2曲のソナタがレパートリーに入ったのも、50代になってからのようです。
テクニックとかミスタッチとか問題となると、現代の演奏家のほうが決まっていると思いますが、ピアノを聴きたいとなると、とりあえずハスキル、となってしまいます。刷り込みのせいもあるんでしょう。何十年の前の録音を30数年にわたって、百回以上聞いてきましたが、たとえミスがあっても、彼女の思いが万全に表現できますように、と思ったり、うまく行った、すばらしいと思いながら聞くなんて、まあ、好きなんでしょうね。
その伝記を読むことで、病気がちで、貧しい生活を強いられながら、それを何も感じさせないピアノへの献身、支援者の輪、リパッティとの尊敬や愛情に基づく交友、共演した指導者、演奏家、指揮者たち、コルトー、カザルス、マガロフ、バックハウス、グリュミュオー、アンセルメ、フリッチャイ、マルケヴィッチ、シェルヘン、モントゥー、カラヤン、クーベリックなどの横顔なども垣間見られて、演奏家の人生というものについて、いろいろ考えさせられました。(クララより2歳下で同門で小学校も同じだったセルの腕白ぶりというも、わずかですが、出ていました)
あと、もしよろしければ、モーツアルトのヘ長調のソナタもアップしていただければ幸いです。タッチの柔らかさ、しなやかさと深さが、よく聞き取れる演奏です。
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[2026-03-12]

フォーレ:夜想曲第13番 ロ短調 作品119(Faure:Nocturne No.13 in B minor, Op.119)
(P)エリック・ハイドシェック:1960年10月21~22日録音(Eric Heidsieck:Recorded 0n October 21-22, 1960)
[2026-03-11]

バッハ:前奏曲とフーガ ホ長調 BWV.566(J.S.Bach:Toccata and Fugue in E major, BWV 566)
(Organ)マリー=クレール・アラン:1961年12月10日~12日録音(Marie-Claire Alain:Recorded December 10-12, 1961)
[2026-03-08]

ベルワルド:交響曲第4番 変ホ長調 「素朴な交響曲」(Berwald:Symphony No.4 in E-flat major "Naive" )
イーゴリ・マルケヴィチ指揮:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 1955年12月録音(Igor Markevitch:Berlin Philharmonic Orchestra Recorded on December, 1955)
[2026-03-05]

ヨーゼフ・マルクス:ヴァイオリンソナタ「春のソナタ」(Joseph Marx:Sonata for Violin and Piano in A major "Spring")
(Vn)ヴァーシャ・プシホダ:(P)オットー・アルフォンス・グレーフ 1954年録音(Vasa Prihoda:(P)Otto Alphonse Greif Recorded on 1954)
[2026-03-03]

ハイドン:弦楽四重奏曲 ニ長調, Hob.III:63(Op.64-5) 「雲雀」(Haydn:String Quartet in D major, Hob.III:63(Op.64-5) "Lark")
ウィーン・コンツェルトハウス四重奏団:1954年5月録音(Vienna Concert House Quartet:Recorded on May, 1954)
[2026-02-28]

グラズノフ:ヴァイオリン協奏曲イ短調 作品82(Glazunov:Violin Concerto in A minor, Op.82)
(Vn)マイケル・レビン:ロヴロ・フォン・マタチッチ指揮 フィルハーモニア管弦楽団 1954年12月17日録音(Michael Rabin:(Con)Lovro von Matacic The Philharmonia Orchestra Recorded on December 17. 1954)
[2026-02-25]

ハイドン:弦楽四重奏曲第60番 イ長調 Op.55, No.1, Hob.3:60(Haydn:String Quartet No.60 in A Major, Op.55, No.1, Hob.3:60)
プロ・アルテ弦楽四重奏団:1936年11月19日録音(Pro Arte String Quartet]Recorded on November 19, 1936)
[2026-02-22]

ベートーヴェン:弦楽三重奏曲 第1番 変ホ長調, Op.3(Beethoven:String Trio in E-flat major, Op.3)
パスキエ・トリオ:1950年代録音(Pasquier Trio:Recorded on 1950s)
[2026-02-18]

ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第16番へ長調, Op.135(Beethoven:String Quartet No.16 in F major Op.135)
ハリウッド弦楽四重奏団:1957年4月22日,5月11日&6月1日,3日,12日,20日録音(The Hollywood String Quartet:Recorded on April 22, May 11 & June 1, 3, 12, 1957)
[2026-02-16]

スメタナ:わが故郷より(Smetana:from my hometown)
(Vn)ヴァーシャ・プシホダ:(P)リディア・ベフトルト 1949年録音(Vasa Prihoda:(P)Lydia Beftot Recorded on 1949)