1927年にガーシュインがピアノのソロを担当した録音があります。あまりのアクの強さに驚かされ、同時に作曲者がイメージした「ラプソディー・イン・ブルー」がこんなものなら、いわゆるクラシック音楽として演奏される大部分の「ラプソディー・イン・ブルー」はあまりにもお行儀がよすぎるのではないかという思いがしたものです。
そんな時に出会ったのがこの一枚でした。
最初の音が出たとたんに仰け反ってしまいます。
そして、こういう演奏を聞きたかったんだと叫びたくなります。ただし間違ってもスタンダードにはなりません。
これは、そう言うクラシック音楽としての枠の中におさまったガーシュインを散々聞いてみた人にとって、思わず拍手をしたくなる演奏なのです。
カラヤンが多くの人々から受け入れられた最大の魅力は、ベルリン・フィルというオーケストラを徹底的に鍛えて、未だ誰も耳にしたことがなかったような希有の響きを実現したことであり、その希有の響きによってきわめて「完成度」の高い「録音」を作りあげたことでしょう。
とりわけ、「録音」という行為に関して言えば、それがもっている「価値」をはじめて明らかにした指揮者でした。
冒頭の出だしから尋常ではなくて、かつて「肉体的限界に挑むような怒涛の迫力」と言われたアルゲリッチ&シャイー盤(82年ライブ録音)よりも凄まじいような気がするのです。
基本的には歌うよりはひたすら前に突き進んでいくような演奏なので、その辺りのバランスをもう少し欲する人は後年のドラティ&ロンドン響との録音をとる方がいいかもしれません。
しかしながら、ジャニスならではの強靱な打鍵から繰り出されるパワープレイの世界がもたらす爽快感は他では変えがたいものなので、個人的にはこのミュンシュ盤をおしたいなとは思います。
ハイフェッツによる有名な54年盤を久しぶりに聞いてみました。録音がモノラルであることなど何の問題もありません。唖然とするほど上手い・・・等という言葉にも何の意味もありません。そこにあるのは、上で述べたような「俺こそが正解だ!!」という不遜なまでの傲岸さです。ただし、その傲岸さの何と心地よいことか!!
こういう録音を聞くと、Mercuryレーベルの録音が凄かったのはモノラル録音の時代からだったのだと再認識させられます。
というか、この鮮烈にして高解像度の音がスピーカーから飛び出すと、これがモノラル録音であるという事実がにわかに信じがたくなるほどなのです。
レジナルド・ケルと言えばすでに過去の人となっていますが、そのほんわかとした響きは今もってなかなかに魅力的です。モーツァルトやブラームスのクラリネット作品だけでなく、いろいろなクラリネット小品も録音していて、そう言う小品を次々と聞いていると、「仕事に行くのが嫌になってしまうような魅力」を持っています。
そんなわけですから、このイタリアの映画音楽を思わせるようなサン=サーンスの作品もどこか飄々とした風情がただよう演奏に仕上がっていて実に魅力的です。
この録音にはモノラルの時代に感じたような厳しい緊張感はありません。
それを人によってはセルが完成したクリーブランド管に包摂されてしまったとも言うのですが、それでもセルの意志は隅々にまで行き届いています。
このブラームスの1番もボンヤリと聞いていると素っ気なく構築しているように見えます。しかし、細部では結構細かいニュアンスがちりばめられています。
ムラヴィンスキーという男はチャイコフスキーのシンフォニーをベートーベンの不滅の9曲にも匹敵する偉大な音楽だと心の底から信じた男でした。その事は、私の思いつきの言葉ではなくて、ムラヴィンスキーが至るところで、繰り返し、繰り返し語っていることです。
とりわけ6番「悲愴」については暇さえあればスコアを眺めて、時には涙していたそうです。
あわせて、演奏の精緻さ、強力な低声部に支えられた鋼のような響き、そしてその鋼鉄の響きが一糸乱れることなく驀進していく強力なエネルギー感などなど、このコンビが放射する圧倒的なパワーに西側世界は呆然としたのです。
アルヘンタは1956年に大病を患い(結核という話が伝わっています)長期の活動休止を強いられました。しかし、体調が回復して1957年から活動を再開してからその音楽は大きく変わったと言われます。
その言葉に大いに納得させてくれるのがこのシューベルトの「ザ・グレート」です。
何よりも堂々たる響きと構えの大きさ、そして悠然たるテンポで繰り広げられる世界は、まさに「ザ・グレート」というタイトルに相応しい音楽に仕上がっています。
実にあっさりと、そしてサラッとした感じで仕上げています。よく言えばラテン的な明晰さに溢れていると言えますが、悪く言えばいささか素っ気なくも聞こえます。
しかし、ここに、さらなる濃度と湿度を加えていけばよくなるのかと言えばそうとも思えませんから、若きビゼーの音楽にはこれくらいが丁度いいのかもしれません。
ポリーニが亡くなりました。彼が20世紀から21世紀にかけて、もっとも偉大なピアニストの一人、もしくはもっとも偉大なピアニストだったと言い切ることに異を唱える人はいないでしょう。
そんなポリーニの出発点ともいうべき演奏がこの録音です。後の彼から見ればあまりにも不満の多い演奏であり、それを名演奏として取り上げられることには大いに不満であろうことは容易に想像はつきます、しかし、最初の一歩は重要であり、ポリーニという偉大なピアニストのスタート地点を知ることは聞き手にとっては意味あることでしょう。
世界はまた大きな存在を失いました。
この演奏を名演奏といっていいのか、私自身もなんだか奥歯に物が挟まったような書き方もしているので躊躇いがないわけではないのですが、やはりここで取り上げておきましょう。
やはり少なくない人にとってバルトークというのはとっつきやすい作曲家ではないようです。
そんなバルトークの作品を最もエンターテイメント的に提示したのがバーンスタインでした。とっつきにくい面もあるバルトークへの入り口ということでは、やはり注目すべき一枚です。
演奏全体の主導権はバリリがをにぎっています。ウィーン、フィルのコンサート・マスターでもあったバリリですから当然といえば当然のことです。オーケストラのメンバーは気心の知れた相手なのですから、実に息のあった、そしてバリリの持つ魅力が存分に発揮されています。
そして、もう一人のソリスト、パウル・ドクトールの魅力も存分に発揮され、二人の掛け合いは息が合ったというレベルを超えたこの上もない親密感にあふれています。
そして、フェリックス・プロハスカという指揮者の控えめなスタンスもここでは大きな役割を果たしています。
指揮者が強力に統率力を発揮した演奏はいくつでも思い浮かべることはできますが、このような絶妙なバランスで成り立った演奏はほかには思い当たりません。
このアルバムを貫く基本なイメージがはっきりと表れているのが「カレリア序曲」の第2曲「バラード」でしょう。イングリッシュ・ホルンによって延々と歌い継がれていく歌は、宇野功芳的に表現すれば「寂しさの限り」です。
そして、この寂しさはこのアルバムに収められている作品の至るところに顔を出すのです。その意味では、これはバルビローリという人の目に映った徹底的に主観的なシベリウスです。そして、その目に映ったシベリウスというのは「寂しい男」なのです。
このセルの手になる「シンフォニエッタ」は実はかなりの異形の演奏なのです。ヤナーチェクはこれを軍楽として構想したようです。ですから、交響曲が持っているソナタ形式などは最初から放棄されています。例えば冒頭の金管によるファンファーレなんかは、軍楽隊がイメージされています。
しかし、セルの強固な形式感と凄まじいまでの意志によって、そう言う「軍楽」的ハチャメチャ感とは対極にあるとしか思えない、不思議な透明感に満ちた「小交響曲」の世界が広がるがこの録音です。
ですから、村上がセルの録音を主人公に聞かせたのは慧眼でした。彼が描き出す「1Q84」という世界に相応しいシンフォニエッタの録音は、「普通」ではないセルの演奏以外には考えられないのです。
1952年の録音ですからトスカニーニが引退をする2年前の録音であり、御年85歳だったのですから、この凄まじいまでの緊張感と集中力の維持は半端ではありません。おそらく、脂ののりきった年齢の指揮者でも、ここまでの集中力を持続して壮大な造形物を作りあげられる人は殆どいないでしょう。
そして、こういう壮大にしてメリハリのきいた造形感覚こそがトスカニーニの持ち味であり、それが85歳にしても全く衰えなかったというのですから、これはもう化け物と言うしかありません。
今でこそこの作品はそれなりの知名度を持つようになっているのですが、1960年代の初頭と言えばおそらくハターリッヒによる録音くらいしかなかったのではないでしょうか。それだけに、このイッセルシュテットの録音はこの作品が持つ美しさを多くの人に知らしめたという意味では大きな価値を凝っています。そして、その後多くの指揮者がこの作品をよりあげよう要になっていくのですが、それでもこの録音の価値が失われることはなかったようです。
彼の音楽には「オレがオレが」という灰汁の強い自己主張は全くありません。しかし、そこにはきちんと整理された過不足のない表現が実現されていて、まさに、「これでいいのだ!」と言いきれる演奏なのです。
スコットランドの録音としてはクレンペラー盤と並ぶ双璧、もしくはそれをも凌ぐ名盤と断言する人もいることでしょう。
この演奏の最大の魅力は、「スコットランド」と呼ばれることの多いこの交響曲が内包している感情の起伏を見事に表現しきっていることでしょう。メンデルスゾーンという作曲家は音楽史的に言えば「ロマン派」という範疇にはいるのですから、そのロマン主義的な感情のうねりを指揮者が表現するのは当然なのですが、これほど鮮やかに、そして濃厚に表現しつくした演奏は他には思い当たりません。
第1楽章はこのコンビならこうなるだろうという予想を外して、速めのテンポで直線的にグイグイと造形していくので少し驚かされます。そして、続く第2楽章では「期待」にこたえてしみじみとした情緒にあふれた歌心を聞かせてくれます。
しかし、第3楽章、第4楽章では再び速めのテンポに戻って、これまた直線的にくっきりとした造形で音楽を仕上げています。
つまり、「バルビローリ=情緒纏綿」と言う図式に当てはめるといささか期待を裏切られる演奏なのですが、そういう「先入観」を捨てて聞けば実に立派で堂々たる演奏であることに誰も異論はないでしょう。
そして、鳴らすところはとことん鳴らしきるというスタンスを貫いているので、生理的な爽快感にも不足しません。
モリーニが残した録音の数は本当に少ないのですが、驚くほどの粒ぞろいです。そして、その音楽はどれもがモリーニに相応しく、背筋がしっかりと伸びた清潔な佇まいを崩すことはありません。そして、それはヴァイオリンという楽器がもっているある種の官能性とは遠いところにあるものなので、彼女以外では聞くことのできない佇まいを持っています。
フランクのソナタと言えばどうしても「匂い立つような貴婦人が風に吹かれて浜辺に立っている姿」がイメージされるのですが、此処に聞ける貴婦人の姿はこの上もなく高貴です。
それはまた、モリーニ自身の姿であったのかもしれない、等と思ってしまいます。