ベイヌム&コンセルトヘボウ管によるブラームスの交響曲を聞くときの喜びは何かと聞かれれば、それはコンセルトヘボウがもっともコンセルトヘボウらしかった時代の響きを楽しめることだと答えるでしょう。
世間ではその響きを、「黄金のブラス、ビロードの弦」と評したりもするのですが、やはりそれだけでは不十分です。
確かに機能的で小回りのきくオケではありません。基本的には鈍重と言う言葉が相応しいような場面もあるのですが、それでも何とも言えないふくよかさと重量感を併せ持った響きはこの上もなく魅力的です。
この録音は評価が分かれますね。
正統派のブルックナーを良しとする人たちにとっては、これはもう「許しがたい演奏」とうつるようです。シャルクの改鼠版を使っているということで許せない。終楽章のコーダもただの大風呂敷にしか聞こえない。
しかし、私が初めてこの録音を聞いたときは、最後の最後で何が起こったのかと腰が抜けそうになったものです。
おかげで、その後は「正しい原典版」を聞くと物足りなさを感じて、「5番はやっぱり改訂版に限るなぁ!」などと恐れ多いことをほざいてしまうのです。
クナッパーツブッシュの音楽は嫌いだという人は少なくありません。
その論拠となるのは、楽譜に書かれているテンポ指示を無視し、自分の都合のいいように勝手に演奏してしまうからであり、それはすでに解釈の領域を超えた恣意的な改変だというものです。
しかし、この深々と沈潜していくようなクナッパーツブッシュの音楽は、ジョージ・ロンドンの歌唱に不満を感じながらも、それを必要とする人が多いのです。私もまた同様です。
この66年の録音にはモノラルの時代に感じたような厳しい緊張感はありません。60年代に入ってクリーブランド管が完成の域に達してくると、セルが完成したクリーブランド管にセル自身が包摂されてしまったとも言われることが多いのですが、それでもセルの意志は隅々にまで行き届いています。
おそらく、こういう演奏こそが「何度も聞き直される」事を前提とした「録音」と言う行為に対する一つの「解」なのでしょう。
いささか日本では評価の低いオーマンディなのですが、「精神性」などと言うものとは全く無縁の地点で、オーケストラの持つ機能性を極限まで発揮することが要求されるラヴェルのような作品とは極めて相性がいい様に見えます。
この「亡き王女のためのパヴァーヌでは、聞き手はその作品に相応しい官能性に身をゆだねることが出来ます。
クラシック音楽のコンサートというものは、「芸術」と「興行」という二律背反する要素を常にはらんでいます。しかしながら、「芸」を伴わない「芸術」を聞かされるくらいならば、こういう「興行」に徹した「芸」を聞かせてくれる方がはるかにましです。
この録音でクラリネットを吹いているレジナルド・ケルはその美音を武器として売り出し中の若手の演奏家でした。その後の彼の録音を聞けば分かることですが、彼の音楽の特徴はある種の「軽み」にこそ存在します。
そして、その「軽み」が、亡命を控えたブッシュ四重奏団の厳かとしか言いようのない堅固な響きとが不思議な調和を持って共存しています。
それにしてもわずか30歳を過ぎたばかりの若者が天下のブッシュ四重奏団を相手に臆することなく渡り合っているのは見上げたものです。
ピアニストのユージン・リストの方も、今となってはあまり話題にならないのですが、系統的にはアール・ワイルド等と同じような系列に入る人のようです。上手いことは上手いのですが、いわゆるベートーベンとかブラームスのような正統派の音楽ではなくて、こういうガーシュインのような作品で力が発揮されるようです。
このガーシュインの協奏曲とラプソディ・イン・ブルーでは、Mercuryの極めつけの優秀録音と言う後ろ盾を得て、素晴らしいまでにダイナミックで切れ味の鋭い演奏を堪能させてくれます。
ホロヴィッツという人は不思議な人で、どうしてこの作品を録音していないの?と言う事がよくあります。そして、そう言うホロヴィッツが録音しなかった作品をバイロン・ジャニスは積極的に録音しているのですが、それはもう、ラフマニノフの2番にしてもこのプロコフィエフの3番にしても、もしもホロヴィッツが録音していればこんな感じになっただろうなと思わせる「凄み」があります。
ハイフェッツという人の本質はもしかしたら「皮むき」なのかもしれません。
耳になじみやすい旋律や華やかな演奏効果などと言う外側の皮を剥いていって最後に残った芯の部分だけを誠実に表現しようとしている姿が見えてきます。
そして、そう言う姿勢が常に真摯であるが故に、ハイフェッツの演奏で最後の圧倒的な無窮動の迫力を聞くとき、「名人芸のどこが悪い!」と開き直れる勇気を私に与えてくれるのです。
マガロフのピアノは決然たるオケの響きと歩調を合わせて決然たる「楷書体」で押しきっています。そして、歌うべきところは実に潔癖な潔さでもって歌い上げています。
おそらく、オケとピアノと、その両方がここまで青春の影とか切なさなどと言うものから距離をおいたショパンは他に思い当たりません。
霊界にいるモーツァルトと交信してるとまで言われたワルターのモーツァルトがスタンダードとするならば、このライナーのモーツァルトは随分と遠い位置にあることになります。
しかし、時が流れ、いわゆるピリオド演奏という荒波をくぐり抜けてみれば、十分に中身のつまった充実した響きでありながら、リズムが明晰なモーツァルトには強い説得力があることに誰もが気づくはずです。
そして、フィナーレにおけるたたみ込むような迫力に目を奪われる向きもあるのですが、それよりも歌い上げる部分では決して甘い情感に流されることなくクールに歌いきるところこそが凄いのです。
そのクールな歌い回しの中から、モーツァルト特有の透明で静謐な悲しみが浮かび上がってきます。
ワーグナーにとって、この牧歌は彼の人生においてたまさか差しこんだつかの間の日の光だったのかも知れません。
ならば、それがつかの間の幸せだと分かっていても、その手の中にある幸福を愛おしまなければ罰が当たります。もちろん、ワーグナーはその幸福を仇や疎かにすることはなく、この上もなく美しい音楽に昇華させることで、その幸福を万人に分かち与えました。
そして、ワルターもまたその幸福感をしっかりとワーグナーから受け取り、その幸福をこれ以上はないと言うほどの優しさと美しさを持って愛しんでみせました。
情念は雰囲気ではなくて、精度です。
シューマンの底深い情念を形づくっている「音」というパーツの精度を極限まで高め、その精緻なパーツをさらに寸分の誤差もなく組み立てることで再現して見せているのです。
ですから、ここに雰囲気に甘えて曖昧に弾きとばしてるようなパーツはただの一つもありません。
バルビローリという人は決して人の目を引きつけるような尖った表現を求める指揮者ではありませんでした。
彼こそは真の意味での職人指揮者でした。
彼の音楽には常に人肌の温もりと人間的な暖かみに満ちたパッションがあふれていました。
ですから、シベリスと言えばどこか北国のひんやりした空気感で彩られることが多いのですが、バルビローリの指揮棒にかかれば人間的な暖かみとパッションに満ちたシベリウスが立ちあらわれるのでした。
この演奏と録音には、とんでもなく効率の悪い「手間」がかけられているはずです。全てのメンバーが寝食をともにし、その中でヴァルガの理想とする音楽の形を全てのメンバーが学び取ることを通して実現した音楽です。
ですから、そこ
には上手下手などと言うレベルをはるかに超えたところで成り立っている音楽が存在しているのです。
強めのアタックで鋭角的に造形していくのにも驚かされるのですが、大規模なオケをフルに鳴らし切る豪快さにはアメリカの黄金時代が待っていた底なしのパワーが感じられます。そして、バーンスタイン&ニューヨークフィルというコンビは、まさにその様なアメリカの象徴だったのだと気づかされる録音です。
まあ、それくらい、ビゼーというフランスの音楽をアメリカナイズした演奏です。
バルトークの弦楽四重奏曲の世界と向き合うには「物語性」などに取っかかりを求めてもどうしようもありません。とりわけ3番から5番あたりの作品に関してははっきりとそう言いきれるでしょう。
バルトークは民族音楽から学びとった語法から始まって、バロックに遡るようなポリフォニックな音楽語法まで、それこそありとあらゆるノウハウをつぎ込んでいるのです。
もちろん、聞き手はそんな小難しいことは一切考えなくても、流れ来ては流れ去っていく響きに耳を傾けていれば、そこで展開される響きの多様さに心奪われることになるのです。
ですから、聞き手として、そう言う「響きの多様さに焦点を当てる」という腹をくくれば、一切の物語性を排除して、まさに純粋な音響の構築物として構築しているジュリアードの演奏は最適なのです。
これらはすべて、リパッティがこの世を去る数ヶ月前の録音で、まさに遺作とも言うべき演奏です。
EMIのレッグは録音機材をスイスに運び、リパッティの体調がよくて演奏が可能なときにはいつでも録音が可能なようにスタンバイしていました。レッグという男は毀誉褒貶の激しい存在なのですが、リパッティの録音がある程度まとまった形で残ったのは疑いもなく彼の功績なのですから、それだけでも「良し」とすべきでしょう。
ベートーベンを豪快に演奏するピアニストはいます。
また、ベートーベンの瞑想性を見事に描き出すピアニストもいます。
しかし、その二つを自由自在に行き来して、それを一つの精神世界として描き出して見せたのはユーディナだけでしょう。とりわけ、彼女が演奏したベートーベン最後のソナタの演奏には、もはや語る言葉すら見つかりません。
ビーチャムが最晩年にまとめてステレオ録音した一連のディーリアス演奏について、何らかの評価を下すことは不可能ですし、おそらく誤りであろうと言うべきでしょう。
それはカヤヌスがシベリウスのオリジンであった以上に、この演奏こそがあらゆるディーリアス演奏の基準点になっているからです。そして、その事をディーリアスもまた決して否定しないでしょう。