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マルケヴィッチ(Igor Markevitch)|リャードフ:「キキモラ」
リャードフ:「キキモラ」
イーゴリ・マルケヴィチ指揮:フィルハーモニア管弦楽団 1952年9月12日録音(ディアギレフへのオマージュ)
Anatoly Liadov:Kikimora
不甲斐ない男

リャードフという作曲家は実に不思議な存在です。ピアニストとしても素晴らしい才能を持ち、それ以上に作曲の才能はあのムソルグスキーから絶賛されるほどのものを持っていました。
そして、その縁もあって「ロシア5人組」との関係を深め、やがてリムスキー=コルサコフの作曲科に籍を置くようになります。ところが、このリャードフという人はとんでもない「怠け者」で、なんと頻繁に無断欠席を繰り返したために除籍されるという信じがたいことをしでかしてしまいます。
そして、その背景には自分に対する自信のなさが根を張っており、その根っこをさらに辿っていくと驚くほどに強い「自己批判能力」に辿り着くのです。
ですから、彼が残した作品は「小品」ばかりです。それは、最初から「小品」を作曲しようとしたためではなく、あまりにも強い自己批判力のために作品が完成されることがなく、結果としてその計画された「大作」の断片だけが「小品」として残ったものでした。
しかし、驚くべきは、その残された「小品」のクオリティの高さです。
リャードフと言えば真っ先に思い浮かぶのが「魔法にかけられた湖」です。しかし、彼は最初からその様な交響詩を目指したのではなく、大作オペラ「シンデレラ」を計画したものの結局はそのオペラは完成せず、その残されたスケッチを題材に完成させたのが交響詩「魔法にかけられた湖」だったのです。
そしてこの「キキモラ」も、同じようにそのオペラのスケッチをもとに作られた交響詩でした。
リャードフという男の「優柔不断」さは、それはもう筋金入りででした。
ディアギレフからバレエ音楽「火の鳥」を依頼されたときにも、いつまでも作曲に取りかかることが出来ず、契約料の前払い分を受け取ったときは白紙の五線譜を買いに行くところだったという驚異の「怠け者伝説」が残っているほどです。その様子を見たディアギレフも「こりゃ、駄目だ!」と思ったのか、リャードフの変わりに話を持ちかけたのがストラヴィンスキーだったのです。そして、当然の事ながらリャードフは依頼された作品を完成させることは出来ませんでした。
ですから、考えようによっては、このリャードフの不甲斐なさは20世紀を代表する作曲家を世に出す切っ掛けを作ったともいえるのです。
そして、そこまでの不甲斐ない存在でありながら多くの人が彼に作曲を依頼したのは、彼の中に時代を突き抜けた響きをつくり出せる能力だけは認めざるを得なかったからです。それは、ドビュッシーの先駆者とも言うべき新しい響きを生み出した人だったのです。
ドビュッシーがリャードフからどの程度の影響を受けたのかは分かりませんが、ドビュッシーがゼロから「印象派」と呼ばれるようになる音楽世界を切り開いたわけではないことだけは認めざるを得ないでしょう。
リャードフはこの「キキモラ」のスコアに以下のような説明を付け加えています。
キキーモラは、岩山に住む魔法使いの許で育っている。おしゃべりな雄猫が、朝から晩までキキーモラのために子守歌を歌い、異国の物語を語っている。夕方から夜明けまで、キキーモラは水晶の揺り籠の中であやされる。
7年経って、キキーモラは大人になる。彼女はとても痩せていて真っ黒で、頭は指先程の大きさで、体は藁よりも細い。昼の間は足を鳴らし、大声をあげ、夕方になると口笛を吹き、舌を鳴らする。真夜中になると夜明けまで大麻を紡ぐ。全ての人間に対し悪意を抱いている。
なお、この「キキモラ」の姿についてはロシア民話のなかにおいても諸説があるようで、一般的には働き者の味方とされる謎の多い幻獣とされているようです。
しかし、火事、病などの災いをもたらす老婆とされたり、顔は狼、白鳥のようなくちばしがあり、胴体は熊、足が鶏。尾はボルゾイという不思議な姿をイメージされることもあるようです。
また、不幸な子供の死霊がキキモラになるという伝説もあるようです。
つまりは、何とも得体の知れない存在が「キキモラ」なのです。
そして、この切れ端のような断片ながら、1916年にスペインで初演されています。そして、翌年の5月にはそこに幾つかのエピソードを付け加えた「ロシア物語」としてパリで公演も行われたようです。
それは、バレエ・リュスにとっては第1次大戦下における唯一のパリ公演でした。
ディアギレフへのオマージュ
マルケヴィッチを見いだしたのは世界的な興行師だったディアギレフでした。二人の出会いは1928年の事で、その年の夏にたまたまディアギレフの秘書がマルケヴィッチの母と知合いになり、彼女の息子が若い頃のレオニード・マシーン(ロシア・バレエ団中期のダンサー兼振付師)とそっくりなことに驚いたのがきっかけでした。
それを聞いたディアギレフはパリでこの少年と出会い、その音楽的天分にすっかり惚れ込んでしまい、さらには「同性愛者」でもあったディアギレフはマルケヴィッチその人にも惚れ込んでしまうのです。
マルケヴィッチ自身は「同性愛者」ではなかったようですが、後に「彼は私に世界全体をくれようとした。彼の寛大さは限度を知らなかった。ディアギレフは倒錯者ではなかった。むしろ感情を重んじる人物だった。たしかに彼の愛情には肉欲的な側面があったけれども、たぶんそれは彼にとって必要悪だったのだろう。」と言っているように、父性愛的な感情を持ってディアギレフと接していたようです。
そして、マルケヴィッチは彼の支援を得て作曲家として才能を伸ばし、その後は指揮者として世界的な名声を獲得していく礎を築いてくれたのでした。
ですから、1954年にディアギレフの没後25年を記念して「ディアギレフへのオマージュ」というアルバムをEMIが制作しようとしたときに、指揮者としてマルケヴィッチが起用されたのは当然のことでした。
このアルバムの制作を提案したのは、当時米EMI社長だったダリオ・