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ジョルジュ・ジョルジェスク(George Georgescu) |ベートーベン:交響曲第5番 ハ短調 「運命」 作品67(Beethoven:Symphony No.5 in C minor, Op.67)
ベートーベン:交響曲第5番 ハ短調 「運命」 作品67(Beethoven:Symphony No.5 in C minor, Op.67)
ジョルジュ・ジョルジェスク指揮 ブカレスト・ジョルジェ・エネスク・フィルハーモニー管弦楽団 1961年8月録音(George Georgescu:Bucharest George Enescu Philharmonic Orchestra Recorded on August, 1961) Beethoven:Symphony No.5 in C minor, Op.67 [1.Allegro Con Brio]
Beethoven:Symphony No.5 in C minor, Op.67 [2.Andante Con Moto]
Beethoven:Symphony No.5 in C minor, Op.67 [3.Allegro]
Beethoven:Symphony No.5 in C minor, Op.67 [4.Allegro]
極限まで無駄をそぎ落とした音楽
今更何も言う必要がないほどの有名な作品です。
クラシック音楽に何の興味がない人でも、この作品の冒頭を知らない人はないでしょう。
交響曲と言えば「運命」、クラシック音楽と言えば「運命」です。
この作品は第3番の交響曲「エロイカ」が完成したすぐあとに着手されています。スケッチにまでさかのぼるとエロイカの創作時期とも重なると言われます。(1803年にこの作品のスケッチと思われる物があるそうです。ちなみにエロイカは1803~4年にかけて創作されています。)
しかし、ベートーベンはこの作品の創作を一時的に中断をして第4番の交響曲を作曲しています。これには、とある伯爵未亡人との恋愛が関係していると言われています。
そして幸か不幸か、この恋愛が破局に向かう中でベートーベンはこの運命の創作活動に舞い戻ってきます。
そういう意味では、本格的に創作活動に着手されたのは1807年で、完成はその翌年ですが、全体を見渡してみると完成までにかなりの年月を要した作品だと言えます。そして、ベートーベンは決して筆の早い人ではなかったのですが、これほどまでに時間を要した作品は数えるほどです。
その理由は、この作品の特徴となっている緊密きわまる構成とその無駄のなさにあります。
エロイカと比べてみるとその違いは歴然としています。もっとも、その整理しきれない部分が渾然として存在しているところにエロイカの魅力があるのですが、運命の魅力は極限にまで整理され尽くしたところにあると言えます。
それだけに、創作には多大な苦労と時間を要したのでしょう。
それ以後の時代を眺めてみても、これほどまでに無駄の少ない作品は新ウィーン楽派と言われたベルクやウェーベルンが登場するまではちょっと思い当たりません。(多少方向性は異なるでしょうが、・・・だいぶ違うかな?)
それから、それまでの交響曲と比べると楽器が増やされている点も重要です。
その増やされた楽器は第4楽章で一気に登場して、音色においても音量においても今までにない幅の広がりをもたらして、絶大な効果をあげています。
これもまたこの作品が広く愛される一因ともなっています。
聞けば聞くほど味わいが深くなるベートーベンです
「ジョルジュ・ジョルジェスク」と言われて知っている人ってどれほどいるのでしょうか。私も、このベートーベンの録音で初めて出会いました。
そして、驚いたのは、めぼしい録音はこのベートーベンの交響曲全集くらいしかないということです。
これは考えてみれば不思議な話です。この業界でベートーベンの交響曲を録音できるというのは一つのステータスです。あまり触れたくないのですが、日本人の指揮者で世界的に名が通っていても、ベートーベンの交響曲の録音がオファーされるということは滅多にありません。ですから、残っているめぼしい録音がベートーベンの交響曲全集くらいしかないというのは普通はあり得ないのです。
調べてみればルーマニアの指揮者がルーマニアのオーケストラと録音したということなので、岩城宏之がN響とベートーヴェンの交響曲を全曲録音したようなものなのかとも思ったのですが、どうやらそういう類のものでもないようです。
実際にその録音を聞いてみれば、なかなかすっきりとしたベートーベンなので気持ちよく聞くことができました。もちろん、岩城宏之とN響が駄目だと言っているわけではないのでお間違いのないように。
ジョルジェスクはリヒャルト・シュトラウスに見いだされ、アルトゥール・ニキシュに学び、トスカニーニとの親交によってその名を世界に知られるようになった指揮者です。そういう経歴からおおむね想像がつくのですが、図式的に割り切れば原典に忠実な新即物主義の演奏ということになります。なかなかすっきりとしたベートーベンだと言ったのはそういう一面を表したものです。しかし、それは楽譜を忠実になぞっただけのつまらない演奏ではありません。
何よりも魅力的なのは何とも言えない間のとり方や歌わせ方です。
彼の歌わせ方は細部に至るまで入念なのですが「あざとさ」は一切ありません。
それ故に、その歌や間のとり方が多くの人にすっきりと受け入れられるのだと思われます。その背景には彼の音楽家としてのキャリアがチェリストとして始まっていることが大きく寄与しているのでしょう。
そして、全体の造形はどこまでも端正で、重くもなく鈍くもなく、引き締まったたたずまいが崩れることはありません。
一見すれば思わず身を乗り出すような特徴のある表現はないのですが、聞けば聞くほどにその歌にはまっていきます。
それから、もう一つ面白いのは最後の第9です。
ソリストも合唱もすべて変なのです。なんじゃこれ…と思ったのですが、どうやら全員がルーマニア語で歌っているのです。
「なんじゃこれ!!」という第9なのですが、「第9なんて聞きあきた!」という向きにはいささか面白く聞けるのではないでしょうか。
ということで、ジョルジュ・ジョルジェスクという指揮者についてもう少し知りたいと思ったのですが、日本語の情報はほとんどありません。それはもう、知る人ぞ知るともも言えないほどの無名ぶりです。
しかし、英語版のウィキペディアなどではかなり詳しく記述されているので、それなりに彼の人生とキャリアについて知ることができました。
そして、彼の人生を知ってみると、月並みな言い方ですが、人生には三つの坂があるという言葉がぴったりなのです。
三つの坂とは、今更なのですが、「上り坂と下り坂」、そしてもう一つは「まさか」という坂です。
ということで、掻い摘んでジョルジェスクの生涯をふりかえってみます。
ここから下はは興味のある方だけお読みください。
ジョルジェスクは1887年9月12日、ルーマニアのトゥルチャ県で生まれました。
彼の音楽家としてのキャリアはチェロ奏者として始まるのですが、そのきっかけは、父親がくじ引きで当てたバイオリンをチェロのように脚の間に挟んで弾き始めた事だというので、笑ってしまいます。
最初はバイオリンのレッスンを始めるのですが、最初からバイオリンを脚の間に挟んで弾き始めたくらいですから、当然のようにチェロに興味を持つようになっていきました。
そして、18歳でブカレスト音楽院に入学します。
父親は彼が音楽を学ぶことに否定的だったために経済的な支援を得られず、教会の聖歌隊で歌ったり、オペレッタのオーケストラで演奏や指揮をしたりして生計を立てたようです。この多様な経験が後年に役立ったのかもしれません。
ブカレスト音楽院を卒業すると、ベルリンで学ぶための奨学金を得てベルリン音楽大学で著名なチェリスト、フーゴ・ベッカーに師事します。
そして、1910年には師であったベッカーにかわってマルトー四重奏団のチェロ奏者に就任しプロとしてのキャリをスタートさせることになりました。
しかし、転機は突然やってきます。一つめの「まさか」です。
第一次世界大戦末期に彼は敵国人としてベルリンで一時抑留され、さらには1916年の演奏旅行の途中に列車のドアに当たってしまい、その怪我によってチェロの演奏ができなくなってしまったのです。
ただし、転機というのですから、それで彼のキャリアが終わったのではなく、新たな幕が開くことになります。これもまた「まさか」でしょうか。
なんと、彼の才能を惜しんだリヒャルト・シュトラウスが指揮者への転身を勧めたのです。そして、勧めるだけでなくアルトゥール・ニキシュと引き合わせ、指揮法を学ぶことになったのです。
そして、1918年2月15日にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮して、指揮者としてキャリアをスタートさせたのですから驚いてしまいます。
その後、故国ルーマニアに戻りブカレスト・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者に就任します。ブカレスト・フィルとの関係は、その後いろいろなことがありながらも生涯続くことになります。
そして、このブカレスト・フィルを拠点としながら活動を世界へと広げていきました。
手の怪我がなく、チェリストとして活動していたならばこういう飛躍はなかったでしょうから、人の運というか運命というか、不思議なものです。
この海外での活動で特に重要だったのはフランスとアメリカだったようです。
フランスへは1921年に初めて演奏会を行って高いな評価を受け、1926年と1929年にも演奏会を行っています。
特に、1926年のパリ訪問では「フランス6人組」との交流を深め、フランス近代音楽への功績を称えてフランス政府からレジオンドヌール勲章を授与されています。
アメリカでの活動ではトスカニーニと親交を深めまし。そして、1926年にトスカニーニが健康上の理由でニューヨーク・フィルとの契約をキャンセルせざるを得なくなったときに、ジョルジェスクは数か月にわたってその指揮台に立つ事になったのです。全く無名の若い指揮者がトスカニーニの代役として指揮台にたち、その責任を十分に果たしたのですから、話題にならないほうが不思議です。
この成功によって世界的にはいまだ無名だったジョルジェスクはその名を多くの人々に知られることになり、その後20年にわたってヨーロッパ各地での演奏会を行う土台となったのです。
しかし、これもまた第2次世界大戦によって大きな転機を迎えます。ルーマニアがナチス・ドイツの同盟国として第二次世界大戦に参戦したのです。しかし、ジョルジェスクの国内外での活動を今まで通り行なわれ、ブカレスト・フィルを率いてナチス占領下の国々をも巡業して回ったのです。
しかし、「まさか」はいつも突然やってきます。
1944年にルーマニアが突如連合国側に寝返ったのです。
彼の運命は一気に暗転します。
彼のそれまでの音楽活動がナチスの文化・宣伝機関への協力だとしてルーマニアでの指揮活動を「終身」禁止されてしまい、ブカレスト・フィルからも追放されてしまいます。
ナチスとの関りによって運命を大きく変えられてしまった音楽家は数多くいるのですが、ジョルジェスクもまたそのような一人だったわけです。
そんなジョルジェスクが戦後のキャリアを再スタートさせたのは1947年のことでした。
友人であるジョルジェ・エネスクの仲介でルーマニア国立放送管弦楽団の指揮者に任命されたのです。さらに、モルドヴァ・フィルの指揮者も務め、プラハやキエフへでの指揮の依頼を受けるなど、国際的なキャリアも再スタートさせます。
そして、1953年にジルヴェストリがブカレスト・フィルの指揮者を辞任すると、ジョルジェスクが再びその指揮台に立つことになりました。
おそらくは政治的無知、無関心ゆえにナチスとかかわりを持っただけだったのでしょう。それに加えて指揮者としての能力もキャリアも十分だったのですから、誰もそういう復帰への道を怪しまなかったのかもしれません。
もっとも、本当のことはわかりませんが…。
しかし、友人であるエネスクがルーマニアが共産圏の支配下に入ったためにフランスに亡命し、1955年にパリで亡くなると、ブカレスト・フィルの名称をジョルジュ・エネスク・フィルハーモニー変更することを提案し、実現させています。
そういえば、録音嫌いとして知られていたジョルジェスクが珍しくも1942年に磁気テープという新しい媒体で録音をしているのですが、その時の曲目がエネスコの交響曲第1番と2曲のルーマニア狂詩曲でした。
ジョルジェスクとエネスクの深いつながりがうかがえます。そして、そういう人間的なつながりを大切にした人間であったことは間違いなかったようです。
ブカレスト・フィルに復帰してからは順調に活躍の場を広げていき、真偽のほどで定かではありませんが、プラハで彼の演奏を聴いたエフゲニー・ムラヴィンスキーが「ベートーヴェンとチャイコフスキーの第一人者」と絶賛した、という話も伝わっています。
そして、そういう順調な活動の頂点として、1961年から1962年にかけて手兵のブカレスト・ジョルジェ・エネスク・フィルハーモニー管弦楽団とベートーヴェンの交響曲を全曲録音したのでした。
ジョルジェスク最後のコンサートはジョルジュ・エネスク・フィルハーモニー管弦楽団を指揮し、ヴァイオリニストのクリスティアン・フェラスをゲストに迎えたプログラムでした。
そして、心臓発作の後遺症に悩まされていたジョルジェスクは1964年9月1日にブカレストの病院で亡くなりました。
心臓の持病も抱えていたので、いささか早すぎる死ではあったのですが本人とっては「まさか」ではなかったでしょう。
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