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ベートーベン:交響曲第3番 変ホ長調 作品55「英雄」

オーマンディ指揮 フィラデルフィア管弦楽団 1961年4月9日録音

Beethoven:Symphony No.3 in F flat major Op.55 "Eroica" [1.Allegro con brio]

Beethoven:Symphony No.3 in F flat major Op.55 "Eroica" [2.Marcia funebre. Adagio assai]

Beethoven:Symphony No.3 in F flat major Op.55 "Eroica" [3.Scherzo. Allegro vivace ? Trio]

Beethoven:Symphony No.3 in F flat major Op.55 "Eroica" [4.Finale. Allegro molto]


音楽史における最大の奇跡

今日のコンサートプログラムにおいて「交響曲」というジャンルはそのもっとも重要なポジションを占めています。しかし、この音楽形式が誕生のはじめからそのような地位を占めていたわけではありません。
浅学にして、その歴史を詳細につづる力はありませんが、ハイドンがその様式を確立し、モーツァルトがそれを受け継ぎ、ベートーベンが完成させたといって大きな間違いはないでしょう。

特に重要なのが、この「エロイカ」と呼ばれるベートーベンの第3交響曲です。
ハイリゲンシュタットの遺書とセットになって語られることが多い作品です。人生における危機的状況をくぐり抜けた一人の男が、そこで味わった人生の重みをすべて投げ込んだ音楽となっています。

ハイドンからモーツァルト、そしてベートーベンの1,2番の交響曲を概観してみると、そこには着実な連続性をみることができます。たとえば、ベートーベンの第1交響曲を聞けば、それは疑いもなくモーツァルトのジュピターの後継者であることを誰もが納得できます。
そして第2交響曲は1番をさらに発展させた立派な交響曲であることに異論はないでしょう。

ところが、このエロイカが第2交響曲を継承させ発展させたものかと問われれば躊躇せざるを得ません。それほどまでに、この二つの間には大きな溝が横たわっています。

エロイカにおいては、形式や様式というものは二次的な意味しか与えられていません。優先されているのは、そこで表現されるべき「人間的真実」であり、その目的のためにはいかなる表現方法も辞さないという確固たる姿勢が貫かれています。
たとえば、第2楽章の中間部で鳴り響くトランペットの音は、当時の聴衆には何かの間違いとしか思えなかったようです。第1、第2というすばらしい「傑作」を書き上げたベートーベンが、どうして急にこんな「へんてこりんな音楽」を書いたのかと訝ったという話も伝わっています。

それほどまでに、この作品は時代の常識を突き抜けていました。
しかし、この飛躍によってこそ、交響曲がクラシック音楽における最も重要な音楽形式の一つとなりました。いや、それどことろか、クラシック音楽という芸術そのものを新しい時代へと飛躍させました。
事物というものは着実な積み重ねと前進だけで壁を突破するのではなく、時にこのような劇的な飛躍によって新しい局面が切り開かれるものだという事を改めて確認させてくれます。

その事を思えば、エロイカこそが交響曲というジャンルにおける最高の作品であり、それどころか、クラシック音楽という芸術分野における最高の作品であることを確信しています。それも、「One of the Best」ではなく、「The Best」であると確信しています。


流麗でありながら締めるべきところは締める!!

おそらく、これが日本でのオーマンディの評価を下げる決定的要因となった録音でしょう。いささか記憶が曖昧なのですが、吉田秀和がこれをセルの「エロイカ」と比較して、セルを文化の「クリエーター」、オーマンディを「文化のキーパー」と切って捨てたのです。これもまた、「ベームは二度死んだ」と同じで、どこかで読んだ記憶はしっかりあるのですが、それが何処に書かれてあったのかをどうしても思い出せないのです。
開き直ってみれば、吉田はそれだけ膨大な量の評論を残したと言うことなのでしょう。

ただし、この言葉はオーマディ&フィラデルフィア管の心臓を打ち抜いて、その他の評論家も安心して彼らを貶すことができるようになってしまいました。おかげで、「精神性のない」「気楽で脳天気な」音楽という「定説」が確定してしまいました。

クラシック音楽を聞き始めた頃の私にとって、道先案内人は常に吉田秀和でした。
この国の一般家庭で普通に育った少年にとって、クラシック音楽などというものは身の回りの何処を探しても見あたらない代物でした。ですから、そんな少年がクラシック音などと言う世界に興味を持ってしまえば進むべき道を指し示してくれる案内人が不可欠でした。そして、数ある道先案内人の中から吉田秀和を選んだのは、今さらながら偉かったと思います。

しかしながら、その案内で、取りあえずこの世界の概観がつかめるようになれば、何時までも彼について歩く必要はなくなっていきます。彼が、「そこはつまらないよ」と声をかけてくれる場所にも足を運ぶようになります。そうなってみれば、彼がいかにすぐれた道作案内人であったとしても万能ではないことが少しずつ分かってきます。
しかし、彼が万能でないからと言って、一つ二つの言葉をあげつらって「音楽のことなど何も分からない糞評論」などと言うつもりは全くありませんでした。

今でも、彼は私にとっては貴重な相談相手です。
ただ、昔と違うのは、「なるほど貴方はそう考えるのですね。でも、私としては・・・。」というスタンスが取れるようになったことです。

そして、今回、始めてオーマンディ&フィラデルフィア管の「エロイカ」を聴いてみました。それは、呪縛が長かったと言うよりは、肝心の音源がなかなか入手できなかったからです。言葉をかえれば、それほどまでにオーマンディのベートーベンというのは貶められてきたのです。

しかしながら、聞いてみて感じたのは、吉田秀和が否定するほどには「悪くない!」の一言に尽きます。
そりゃぁ、セルの「エロイカ」と較べれば引き締まり方は全く違いますし、なんというかベートーベンが本質的に持っている「攻撃性」みたいなものは希薄です。ただし、年を重ねれば、そう言うセル流のアプローチだけが絶対的なものでないことはよく分かってきます。

セルと較べればはるかに流麗でありながらも締めるべきべきところはしっかりとエッジを効かせています。そんなオーマンディのベートーベンは十分に存在価値のあるベートーベンです。

オーマンディを聞き直してみるときに、取りあえずはドイツ・オーストリア系の本流ではなくて、その周辺の傍流から聞いてみようと考えたのは結果として大きな間違いでした。
確かに彼のシベリウスはよい演奏です。
しかし、例えばチャイコフスキーやサン=サーンスやリムスキー=コルサコフや、その他様々な録音を聞き進んでいくうちに複雑な感情がわき上がってくるのを否定しすることができませんでした。簡単に言ってしまえば、悪くないけれども、それがオーーマンディ&フィラデルフィア管である必要は全く感じなかったからです。
これに変わりうる演奏と録音を私たちは既に数多く持っているのです。

しかし、この「エロイカ」はいいです。
そして、これに変わりうる演奏と録音はすぐには思い当たらず、そのオンリーワンの魅力に気づかされます。
70年代のカラヤン盤は流麗さではこれを上回るかもしれませんが、あそこでは締まるべきところが全く締まっていません。また、音と音がノッペリと繋がっていて、ベートーベンらしい引き締まった姿は何処を探しても見つかりません。もしも、ベートーベンに流麗な響きを求める人ならば、このオーマンディ盤こそはファーストチョイスになりうるでしょう。

やはり、吉田秀和という人の根っこには「教養主義」と言うDNAが存在しているのかもしれません。

クラシックであれポップスであれ、音楽なんてものは聞いて楽しければいいじゃないかという人がいます。一見すれば酸いも甘いも噛みしめた達人のような物言いのように聞こえるのですが、その中味を覗いてみれば驚くほどに内容空疎な空っぽであったりします。
ですから、吉田のように多様な西洋の歴史と文化の中に音楽を位置づけて、その位置づけの中から個々の演奏に対する彼なりの「意味」と「価値」を明らかにしていく事は、そう言うものの分かったような空っぽの論議を黙らせるためには必要不可欠なものでした。しかしながら、そのくどさが時には鼻につく人もいて、そこに教養主義の匂いをかぎつける人もいたことでしょう。

確かに、そう言う歴史や伝統、文化的な積み重なりばかりに目をやりすぎると、クラシック音楽というものがもっているもう一つの側面を見落としてしまうことになります。そのもう一つの側面とは、言うまでもなく、「クラシック音楽もまた一夜の劇場的興奮を求める人のために供され音楽」であると言う事実です。
その意味では、クラシック音楽もまたポップスなどと同じ土台に立つ音楽なのです。
そして、この国におけるクラシック音楽受容の歴史を振り返ってみれば、クラシック音楽もまたその様な側面を持っていることに日本人が気づくためには、バブル期以降に多くの普通の日本人が彼の地を訪れて、実際の劇場に足を運ぶという経験が必要だったのです。

おそらく、吉田にしてみればそんな事は分かり切ったことではあったのでしょう。しかしながら、そう言う側面を60年代の日本で強調することは、そう言う時代的制約の中にいるクラシック音楽ファンをミスリードすることになる判断したのかもしれません。その判断が、時には「勇み足」になってしまう場面もあったと言うことなのでしょうか。

ですから、この録音を聞きながら心の中で吉田氏に対して、「その日の仕事に疲れた勤め人が劇場に足を運ぶときに、聞いてみたいと思えるベートーベンはこのような姿をしているとは思いません」と語りかけてみるのです。

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