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バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第1番


(Vn)ヨハンナ・マルツィ 1954年6月~1955年3月録音


無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータの概要

バッハの時代にはこのような無伴奏のヴァイオリン曲というのは人気があったようで、とうていアマチュアの手で演奏できるとは思えないようなこの作品の写譜稿がずいぶんと残されています。ところが、古典派以降になるとこの形式はパッタリと流行らなくなり、20世紀に入ってからのイザイやバルトークを待たなければなりません。

バッハがこれらの作品をいつ頃、何のために作曲したのかはよく分かっていません。一部には1720年に作曲されたと書いているサイトもありますが、それはバッハが(おそらくは)自分の演奏用のために浄書した楽譜に記されているだけであって、必ずしもその年に作曲されたわけではありません。さらに言えば、これらの6つの作品がはたして同じ目的の下にまとめて作曲されたのかどうかも不確かです。
しかし、その様な音楽学的な細かいことは脇に置くとしても、これらの作品を通して聞いてみると一つの完結した世界が見えてくるのはユング君だけではないでしょう。それは、どちらかと言えば形式がきちんと決まったソナタと自由に振る舞えるパルティータをセットととらえることで、明確な対比の世界が築かれていることに気づかされるからです。そして、そのパルティータにおいても、「アルマンド」−「クーラント」−「サラバンド」−「ジーグ」という定型様式から少しずつ外れていくことで、その自由度をよりいっそう際だたせています。そして、パルティータにおいて最も自由に振る舞っている第3番では、この上もなく厳格で堂々としたフーガがソナタの中で屹立しています。

この作品は演奏する側にとってはとんでもなく難しい作品だと言われています。しかし、その難しさは「技巧」をひけらかすための難しさではありません。
パルティータ2番の有名な「シャコンヌ」やソナタ3番の「フーガ」では4声の重音奏法が求められますが、それは決して「名人芸」を披露するためのものではありません。その意味では、後世のパガニーニの「難しさ」とは次元が異なります。
バッハの難しさは、あくまでも彼がヴァイオリン一挺で描き尽くそうとした世界を構築するために必要とした「技巧」に由来しています。ですから、パガニーニの作品ならば指だけはよく回るヴァイオリニストでも演奏できますが、バッハの場合にはよく回る指だけではどうしようもありません。それ以上に必要なのは、それらの技巧を駆使して描ききろうとしたバッハの世界を理解する「知性」だからです。
その意味では、ヴァイオリニストにとって、幼い頃からひたすら演奏テクニックを鍛え上げてきた「演奏マシーン」から、真に人の心の琴線に触れる音楽が演奏できる「演奏家」へとステップアップしていくために、一度はこえなければいけない関門だといえます。

ソナタ第1番ト短調 BWV1001

第3楽章の「シチリアーノ」以外は全てト短調という珍しい調性を持っています。この異例ともいえる調整の関係についてはいろいろと説明している本もあるのですが(ドリア旋法がどうたら、リディア旋法がかんたら・・・)、そう言う楽典的な事には弱いユング君にはよくわからんのです。(^^;しかし、この偉大な6曲の冒頭を飾るに相応しい作品であることは間違いありません。

1. Adagio
2. Fuga. Allegro
3. Siciliano
4. Presto

パルティータ第1番ロ短調 BWV1002

4つの全ての舞曲の後半にそれぞれ、ドゥーブルと呼ばれる変奏が置かれているために、一見すると8楽章構成のように見えますが、本質的に以下の4楽章構成です。そのために、パルティータの最後は一般的には「ブーレ」ではなくて「ジーグ」なのですが、それではその後にドゥーブルをおくとすわりが悪いので変更したのだろうと推測されています。

1. Allemande - Double
2. Courante - Double. Presto
3. Sarabande - Double
4. Tempo di Bourree - Double

ソナタ第2番イ短調 BWV1003

第2楽章の「フーガ」は289小節にも及ぶ長大なものですが、至る所にあらわれるオクターブの跳躍は音楽に躍動感と起伏感を与えています。また第3楽章の「アンダンテ」では、1本のヴァイオリンで、旋律と通奏低音の二声を弾くというものですが、音量を調節してメロディラインを際だたせるという高度な制御が要求されるようです。

1. Grave
2. Fuga
3. Andante
4. Allegro

パルティータ第2番ニ短調 BWV1004

 シャコンヌとは、「上声は変わっていくのに、バスだけは同じ楽句に固執し執拗に反復するものである」と説明されています。上声部がどんなに変奏を展開しても、低声部で執拗に繰り返される主題が音楽全体の雰囲気を規定します。
 しかし、その低声部での主題を聞き手が意識することはほとんどありません。冒頭にその主題が提示されますが、その後は展開される変奏の和声の最低音として姿をくらましてしまうからです。
 ところが、姿をくらましても、それが和声進行のパターンを根底で支配するのですから作品全体に与える影響力は絶大であり絶対的です。
 聞き手には移り変わっていく上声部のメロディラインしか意識には残らないでしょうが、執拗に繰り返される低声部の主題が音楽の支配権を握っています。

 ですから、聞き手にはこの低声部の主題がそれとは明確に意識できない代物であっても、演奏する側はそのことを明確に意識して演奏する必要があります。
 つまりは、スコアに書いてある音符をそれなりに音にするだけでは音楽にはならないのです。
 そのことは、何もこの作品に限ったことではありませんが、シャコンヌはとりわけ演奏者サイドにその手の難しさを要求するようです。

1. Allemande
2. Courante
3. Sarabende
4. Gigue
5. Chaconne

ソナタ第3番ハ長調 BWV1005

ソナタ全3曲中で最も壮大な音楽がこれです。とくに第2楽章のフーガは354小節からなる長大なものであり、それはバッハが書いたフーガの中で最大のものだと言われています。フーガの主題は古いコラール「来たれ、聖霊よ、主なる神よ」によるものだそうです。

1. Adagio
2. Fuga alla breve
3. Largo
4. Allegro assai

パルティータ第3番ホ長調 BWV1006

組曲の一般的な配列からは大きく逸脱して最も自由に振る舞っています。そのために、全6曲の中では最も明るく、最も華麗な音楽になっています。また、全6曲の中では唯一アマチュアでも演奏できそうな作品であるために昔から高い人気を持っていました。特に、第3楽章の「ガヴォット」は、「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」などという厄介な名前など知らない人でもどこかで一度は耳にしたことがある有名な旋律です。

1. Preludio
2. Loure
3. Gavotte en Rondeau
4. Menuet I/II
5. Bourree
6. Gigue

闇の彼方からあらわれた流麗なバッハ演奏


「Johanna Martzy」は「ヨハンナ・マルティ」と読むようです。知る人ぞ知るヴァイオリニスト、と、言いたいところですが、よほどの好事家でもない限り彼女の名前を知る人はいないでしょう。もちろん、私もこの録音に接するまではマルティなどと言うヴァイオリニストは全く知りませんでした。
それにしても、なんという流麗なバッハでしょう。横への流れを至るところでぶつ切りにして、この上もなく厳しく、ゴツゴツしたバッハを造形したシゲティとは180度対極にあるバッハ演奏です。
ところが、このバッハが全く受け入れられなかったのです。
当時、マルティとEMIの辣腕プロデューサー、レッグとの関係は険悪だったようです。全くの想像(妄想?)ですが、レッグは「もっと精神性を前面に出さないと売れない。こんなムード音楽みたいな弾き方は変えろ。」みたいな事を言ったのではないでしょうか?
事実、時代が支持したのはシゲティのバッハであり、こういう「美しいバッハ」は誰も支持せず、LPは全く売れなかったようです。やがて、マルティはレッグと大喧嘩して音楽界から姿を消します。その後消息すら分からなくなり、1978年にわずか54歳でスイスにおいて亡くなったことが最近になって知られるようになりました。

作品に対する絶対的な解釈というのは存在しません。たとえ、作曲家本人が「このように演奏して欲しい」といったとしても、それもまた一つの解釈にしか過ぎないと私は考えます。
真に偉大な音楽というものは、それを作り出した作曲家の思惑さえも超えて発展していく力を内包しているものです。逆に言えば、様々な解釈を許す多様性があるからこそ、その作品に偉大な価値があると言えるのではないでしょうか?
それが、バッハの無伴奏ほどの作品ならば、その高峰の頂を目指して演奏家は様々なルートを探るのは当然のことです。

ただし、時代はルートを選り好みするように見えます。そして、50年代という時代はリヒターのマタイ受難曲やシゲティの無伴奏に代表されるように、いかめしく厳格なバッハを求めていたことは疑いがありません。しかし、その様なバッハ解釈こそが絶対的に正しいものであり、それをスタンダードとしてその他の演奏を評価するのは間違っています。

話は少しばかりそれますが、いわゆる「名盤論議」の問題点もここにあります。「○○こそが絶対!」と言う表現をよく見受けますが、正確には「私にとって、○○こそが絶対!」と言うべきでしょう。ただし、そう言う個々の思いが小さな流れとして寄り集まって最終的に「時代精神」という大河が形作られるのだと思います。そして、私の思いが時とともに変わっていくように、やがて人々も変化していき、最終的には「時代精神」も変容していきます。
こういう書き方をすると、お前は価値の相対化をはかっているという批判をよく受けます。しかし、これは決して価値を相対化しているわけではありません。
おそらく、古典とは、そう言う度重なる時代精神の変容という「試練」をくぐり抜けてきたものに与えられる「称号」だと思います。その意味では、時代を経て残ってきたものには作品についても演奏についても「敬意」を評します。ただし、演奏に関しては、それが後世に残るようになってたかだか100年です。その意味では、「絶対」という表現を使うのは憚る方がいいのではないかと思います。

そして、そう言う変化の中で一部の人しか省みなかった演奏や作品が突如表舞台にあらわれることがあります。おそらく、このマルティの演奏もまた、厳格でいかめしいバッハに飽き飽きしてきた時代の中で、ふと気づくと、こんなにも流麗で美しいバッハ演奏が存在したことに気づいた人々が再び表舞台に引き上げたのでしょう。
その原動力は「パブリックドメイン」です。個々で、著作権の延長論議についてあれこれ述べる気はありませんが、もしも保護期間が現行の50年から70年に延長されていれば、おそらくマルティの存在は永遠に闇の中に消えていたかもしれないことだけは指摘しておきましょう。

マルティのバッハは流麗なバッハ演奏の代表みたいに言われてきたメニューヒン(おっ、これもパブリックドメインになっているではないか!!)の演奏と比べても、はるかに流麗です。最近では、一部で評価の高い、ルミニッツァ・ペトレと比べても、さらに流麗な演奏です。個人的には、ペトレほど伸びやかなフレージングでバッハを表現したヴァイオリニストはいないと思っていただけに、これはちょっとした衝撃でした。そして、ヨーロッパにおける女性のヴァイオリニストの底流にこのような演奏スタイルがあったのかもしれないなぁ、等と思った次第です。
でも、シゲティのようなバッハがいいという人には絶対に受け入れられない演奏です。逆説になりますが、だからこそ、価値のある演奏だとも言えます。(立ち位置がはっきりしている!!)

闇の彼方から、このような宝物を拾い出すことができた時は、こういうサイトの管理人として一番嬉しいときです。

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