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ベートーベン:ピアノ・ソナタ第5番 ハ短調 Op.10-1

(P)マリア・ユーディナ:1950年録音



Beethoven: Piano Sonata No.5 In C Minor, Op.10 No.1 [1. Allegro molto e con brio]

Beethoven: Piano Sonata No.5 In C Minor, Op.10 No.1 [2. Adagio molto]

Beethoven: Piano Sonata No.5 In C Minor, Op.10 No.1 [3. Finale (Prestissimo)]


新しいスタイルを模索するベートーベン

"3つのピアノソナタ"としてまとめて発表されていますが、一つ一つがユニークさをもっていて、意欲満々で新しい形式を模索するベートーベンの姿を感じ取ることができます。
曲の配列は作品2の時と同じで、ここでもハ短調のソナタを1番に持ってきて、最も演奏効果の高いニ長調のソナタを最後に持ってきています。

そう言えば、チャールズ・ローゼンはこの3曲のことを「彼は情熱的な英雄気取りで1曲目をはじめ、より機知に富んだ2曲目へと続き、雄大な広がりを見せて3曲目を終えている」と述べています。

そして、この中で一番ユニークであり優れているのがピアノソナタ第7番の第2楽章です。
"ラルゴ・エ・メスト"と記されたこの楽章は、ベートーベン自身が「悲しんでいる人の心のありさまを、様々な光と影のニュアンスで描こうとした」ものだと語っています。
"メスト(悲しみ)"と記されているように、ベートーベンの初期作品の中では際だった深刻さを表出している作品です。

また、ラルゴというスタイルを独立した楽章に用いるのもこれが最後になるだけに意味深い作品だと言えます。

それ以外にも、例えば第5番のソナタの第1楽章の構築感は紛れもない「ベートーベンそのもの」を感じ取ることができますし、緩徐楽章が省かれた第6番のソナタのユニークさも際だっています。
初期のピアノソナタの傑作とも言うべき第8番「悲愴」の前に位置する作品で、見過ごされることの多い作品ですが、腰をすえてじっくりと聞いてみるとなかなかに魅力的な姿をしています。

ピアノソナタ第5番 ハ短調 作品10の1


  1. 第1楽章 Allegro molto e con brio
    冒頭は主和音のフォルテで始まり、すぐにピアノで優しい動機が続きます。
    この強く、弱くと言う周期的な繰り返しがこの楽章を成り立たせているのですが、当然のことながら同じ周期が単調に繰り返されるだけでは音楽も単調なものになってしまいます。
    当然のことながら、ベートーベンはその周期性を精緻に扱い微妙に変化させる中で音楽の緊張感を高めています。ピアニストには、その仕組みを読み取る知性と、読み取った仕組みを現実の音に変換するテクニックが求められます。

    演奏するものに高い傾注を要求するベートーベンの楽の特徴がここにもあらわれています。

  2. 第2楽章 Adagio molto
    オペラ的なアリア形式によるアダージョ楽章です。
    作品2のヘ短調ソナタのアダージョ楽章と同様に、この楽章もまた提示部と再現部だけでできていて、展開部といえるほどの部分は持たないカヴァティーナ形式です。そして、ベートーベンにとってこの形式でアダージョ楽章を書くのはこれが最後となります。

    再現部の前にフォルティッシモで属七の和音がアルペジオによって奏されるのが印象的です。

  3. 第3楽章 Finale. Prestissimo
    第1楽章と同様に非常に凝縮された楽章で、展開部はわずか11小節しかないそうです・・・が、聞けばすぐに分かるように実にベートーベンらしい激しさに溢れています。
    また、コーダに突入する部分ではritardando(だんだんゆっくりと)とcalando (遅くしながら弱く)と言う二つの指示が書き込まれています。これは、確かに、最後は音を弱めながら音楽を閉じるのですが、それをどのように終わらせるかを演奏家に要求しているのです。

    当然のことながら、ベートーベンはただ端に音を小さくしていくだけでなく、ある種の大きさをイメージできるように終わらせることを要求しています。
    こういうあたりも聞き比べるときのポイントになるはずです。




豪快さと深い瞑想性の融合

マリア・ユーディナほど深い謎と神秘につつまれたピアニストはいません。そして、その思いは、彼女が演奏したベートーベンのソナタをまとめて聞いてみてさらに強くなりました。
おそらく、これほどに主観性に満ちたベートーベンのピアノ・ソナタは滅多にないでしょう。確かに、例えばホロヴィッツのベートーベンもまたとんでもなく主観性に満ちた演奏なのですが、その主観性が指向する方向性が全く異なるのです。

ユーディナの「奇矯」と言っていいほどの言動はすでに紹介済みです。しかし、そんな事を過去のページから掘り返るのはめんどうだと言う人のために一つだけエピソードを紹介しておきます。

ユーディナを深く愛したのはスターリンでした。そして、スターリンは自分のためだけにモーツァルトのピアノ協奏曲の23番を録音させ、多額の謝礼金(2万ルーブルだったと伝えられています)を彼女に支払いました。ところが、その謝礼金をユーディナは全て教会に寄付をして、スターリンには次のようなメッセージを送ったのです。

「ヨシフ・ヴィッサリオノヴィッチ、あなたの支援に大変感謝いたします。私はこれから、国民や国に対するあなたの罪を神が許してくれるよう、昼も夜も神に祈りを捧げてまいる所存です。慈悲深い神はきっと許してくださることでしょう。いただいた2万ルーブルは、私が通っております教会の改修工事のために遣わせていただきます」


普通ならば間違いなくシベリアの収容所送りだと思うのですが、何故かスターリンはこのメッセージには一切ふれませんでした。それどころか、彼がユーディナに求めたイ長調コンチェルトのレコードはスターリンの死後に彼の執務室から見つかったと伝えられています。それこそ、贈り物などは掃いて捨てるほどあったであろうスターリンにとって、その一枚のレコードはこの上もなく貴重なものであったことだけは事実なのです。

おそらくユーディナほど物質的富よりも精神的なものに価値を求めた人はいないでしょう。
そして、その精神的なものというのは、イデオロギーなどと言う表面的で浮薄なものであるはずもなく、宗教的なものでもなく、さらに言えば何を大切にするかという本質的な価値観のようなものでもなかったように思われます。
それは、人間的な思念の表層にあるものではなくて、言ってみれば「人間という種」がその深層において引き継いできたきたようなものを突き詰めようとしているように思えるのです。もちろん、それがどの様なものかとさらに問われれば、それをこれ以上に語る言葉を持たないのですが、ユーディナの演奏からはその「何もの」かに手が届きそうな思いになる瞬間があるのです。

ユーディナは実演では随分とムラの多い人で、酷いときは本当に酷い演奏を行ったようなのですが、それもまた演奏という行為にそう言う突き詰めたものを求めたが故かもしれません。
ですから、その追求がその深層に手が届きそうになると、それは言語に絶するような音楽が立ちあらわれることになります。

ベートーベンを豪快に演奏するピアニストはいます。
また、ベートーベンの瞑想性を見事に描き出すピアニストもいます。
しかし、その二つを自由自在に行き来して、それを一つの精神世界として描き出して見せたのはユーディナだけでしょう。

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