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ザンデルリング(Kurt Sanderling)|モーツァルト:交響曲第35番 ニ長調 "ハフナー" K.385
モーツァルト:交響曲第35番 ニ長調 "ハフナー" K.385
クルト・ザンデルリング指揮 レニングラード・フィルハーモニー交響楽団 1952年&1953年録音
Mozart:Symphony No.35 in D major, K.385 "Haffner" [1.Allegro con spirito]
Mozart:Symphony No.35 in D major, K.385 "Haffner" [2.Andante]
Mozart:Symphony No.35 in D major, K.385 "Haffner" [3.Menuetto]
Mozart:Symphony No.35 in D major, K.385 "Haffner" [4.Presto]
悩ましい問題の多い作品です。
一般的に後期六大交響曲と言われる作品の中で、一番問題が多いのがこの35番「ハフナー」です。
よく知られているように、この作品はザルツブルグの元市長の息子であり、モーツァルト自身にとっても幼なじみであったジークムント・ハフナーが貴族に列せられるに際して注文を受けたことが作曲のきっかけとなっています。
ただし、ウィーンにおいて「後宮からの誘拐」の改訂作業に没頭していた時期であり、また爵位授与式までの日数もあまりなかったこともあり、モーツァルトといえどもかなり厳しい仕事ではあったようです。そして、モーツァルトは一つの楽章が完成する度に馬車でザルツブルグに送ったようですが、かんじんの授与式にはどうやら間に合わなかったようです。(授与式は7月29日だが、最後の発送は8月6日となっている)
それでも、最終楽章が到着するとザルツブルグにおいて初演が行われたようで、作品は好評を持って迎えられました。
さて問題はここからです。
よく知られているように、ハフナー家に納品(?)した作品は純粋な交響曲ではなく7楽章+行進曲からなる祝典音楽でした。その事を持って、この作品を「ハフナーセレナード」と呼ぶこともあります。しかし、モーツァルト自身はこの作品を「シンフォニー」と呼んでいますから、祝典用の特殊な交響曲ととらえた方が実態に近いのかもしれません。実際、初演後日をおかずして、この中から3楽章を選んで交響曲として演奏された形跡があります。
そして、このあとウィーンでの演奏会において交響曲を用意する必要が生じ、そのためにこの作品を再利用したことが問題をややこしくしました。
馬車でザルツブルグに送り届けた楽譜を、今度は馬車でウィーンに送り返してもらうことになります。しかし、楽譜は既にハフナー家に納められているので、レオポルドはそれを取り戻してくるのにかなりの苦労をしたようです。さらに、7楽章の中から交響曲に必要な4楽章を選択したのはどうやら父であるレオポルドのようです。
こうしてレオポルドのチョイスによる4楽章で交響曲として仕立て直しを行ってウィーンでのコンサートで演奏されました。ところが、後になって楽器編成にフルートとクラリネットを追加された形での注文が入ったようで、時期は不明ですがさらなる改訂が行われ、これが現在のハフナー交響曲の最終の形となっています。
つまりこの作品は一つの素材を元にして4通りの形(7楽章+行進曲・3楽章の交響曲・4楽章の交響曲・フルート・クラリネットが追加された4楽章の交響曲)を持っているわけす。
一昔前なら、最後の形式で演奏することに何の躊躇もなかったでしょうが、古楽器ムーブメントの中で、このような問題はきわめてデリケートな問題となってきています。とりわけ、フルートとクラリネットを含まない方に「この曲にぼくは全く興奮させられました。それでぼくは、これについてなんら言う言葉も知りません。」と言うコメントをモーツァルト自身が残しているのに対して、フルートとクラリネットありの方には何のコメントも残っていないことがこの問題をさらにデリケートにしています。
やはり今後はフルートとクラリネットを入れることにはためらいが出てくるかもしれません。
「前例」や「伝統」などにとらわれることなく己の信念を貫き通すことの大切さ
ザンデルリンクという人は、レコード会社が時代を代表する「カリスマ指揮者」へと祀りあげようとする事を、意識してか、もしくは意識せずにかは分かりませんが拒否した指揮者でした。
頂点に立ちたいと多くの人は願うのですが、頂点というのは実際に立ってみればそれほど居心地のいい場所ではないようです。多少は見晴らしはいいのでしょうが、何といっても風当たりが強いのです。
その風の強さは、その天辺に30年以上の立ち続けていたカラヤンを見ればよくわかります。
そんなカラヤンがこの世を去って天辺があくと、今度はそこにバーンスタインが押し上げられました。しかし、彼はそんな風の強さを味わう前にあっけなく、それこそカラヤンの後を追うようにこの世を去ってしまいました。
さて、困ったのはレコード会社です。どの世界でも象徴として天辺で頑張り続ける存在というのは不可欠なのであって、この予想もしない「空白」は非常事態だったのです。そこで、急遽その天辺に押し上げられたのがギュンター・ヴァントでした。その少し前までは、日本では「ギュンター・ワント」と表記されていたのですから、大変な抜擢でした。
ただし、この強面の指揮者は天辺の風の強さによく耐え抜きました。そして、その天辺の効用として「若い頃は何度主張しても実現しなかったことが年を重ねると(つまりは天辺に立つと)簡単に実現できるようになった」みたいな事を宣っていました。
しかし、ヴァントはよく強風に耐えたものの、カラヤンやバーンスタインと較べれば「カリスマ性」という点では一歩譲らざるを得ませんでした。
そこで、そのヴァントを補足するためにもう一人の「カリスマ」を引っ張り出そうとして白羽の矢を立てたのがザンデルリンクだったのです。ところが、このザンデルリンクという人は、そう言うレコード会社からのオファーに対してクビを縦に振らなかったのです。
レコード会社がどれほど魅力的な録音計画を提示しても、彼は相変わらずごく限られたレパートリーだけしか受諾しませんでした。そして、ヴァントがこの世を去ると、かれもまた歩調を合わせるように現役引退を表明してしまうのです。
指揮者というのは「死ぬまで現役」どころか、「指揮しながら死んでしまう」という人がいるほどですから、結果として10年近くも時間を残して引退するというのは希有のことでした。
おそらく、ザンデルリンクという人は、レニングラード・フィルの指揮者をやっていた時期に、天辺に立ち続けるムラヴィンスキーの姿を間近に見続けることで、そのポジションの大変さを身にしみて感じていたのかもしれません。
ムラヴィンスキーという人への風当たりは、純粋に音楽的な問題として吹き付ける以外に、政治的な面からも暴風が吹き荒れたのでした。そんな暴風に抗していくには、それをねじ伏せるだけの圧倒的なクオリティが求められたのです。そして、その様なクオリティは想像を絶するほどの苛烈な自己批判によって実現されると言うことをザンデルリンクは間近に見続けたはずです。
ムラヴィンスキーという人は、コンサートが終わって控え室に戻ると、あそこも駄目だった、ここも駄目だったと真剣に、そして深刻に落ち込んでしまうのが常だったのです。ムラヴィンスキーの指揮者としての人生というのは、その様な身を削るような自己批判の連続だったのであり、それが天辺に立ち続けるものの責務だったのです。
話は横道にそれますが、願掛けをするときにはそれがかなったときの「覚悟」が必要だと言った人がいました。宝くじで1等が当たった人の中には、それで人生を誤ってしまう人が少なくないと言います。それは、宝くじを買うときに1等が当たったときの「覚悟」がないからそんなことになると言うのです。
まさに至言です。
何かを願うときにボンヤリとしていると、万が一にもその願いが叶ったときに何をやったらいいか分からず、結果として醜態をさらしてしまうのです。そして、多くの人がその様な醜態をさらさずにすんでいるのは、その様な願いが叶うことがないという「幸せ」によってもたらされていることを知るべきなのです。
おそらく、ザンデルリンクという人はムラヴィンスキーのような天辺に立つと言うことは願わなかったはずです。彼の願いは別の所にあったはずです。
このモーツァルトのハフナー・シンフォニーは驚くような演奏に仕上がっています。
冒頭の部分だけを聞けば、それはまさにムラヴィンスキーのごとしです。そして、その事は、この時代にザンデルリンクがどれほどムラヴィンスキーから多くのものを学んだかが知れるのです。
しかし、続くアンダンテ楽章になると彼は明らかにムラヴィンスキー的な世界からは離れていきます。おそらく、ムラヴィンスキーならばこの歌う楽章においてもそれを純粋器楽として処理したでしょう。
しかし、ザンデルリンクの出自は歌劇場でした。
そんな彼にとって、このアンダンテ楽章はムラヴィンスキーのような割り切りは出来なかったのです。
そして、その事は何処まで行ってもオペラ的要素とは切り離すことのできないモーツァルトの音楽には相応しいスタンスだったのです。
もちろん、だからといってムラヴィンスキーのやり方が間違っていると言いたいわけではありません。あれは何処まで行っても「主観的解釈による客観的な表現」なのですから、私ごときがあれこれ言えるような筋合いのものでもありません。
そして、続くメヌエット楽章になると、さすがに言うべき言葉が見あたりません(^^;。
通常は「異形」という言葉を奉るべきなのでしょうが、「異形のメヌエット楽章」というのは何とも凄い解釈です。
率直に言って、これをどのように評していいのか言葉が見あたりません。しかし、ザンデルリンクの主観的解釈を客観的に表現したものだと思えば、なるほど、これもムラヴィンスキーから学んだ手法と覚悟なのかもしれません。それは「前例」や「伝統」などにとらわれることなく己の信念を貫き通すことの大切さと、それを成し遂げていく覚悟です。
ザンデルリンクの願掛けはそこにこそあったのかもしれません。
(ただし、録音クレジットが1952年から1953年にわたっています。全体として分裂的な印象を与えるのは時を開けて録音されたことも影響しているのかも知れません)
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よせられたコメント
2019-01-13:joshua
- この指揮者譚は、意外に知られていない世界ではないでしょうか?
そもそも、クラシックを聴きながら、偉大か凡庸かは聴く人間次第なのに、何の指針も無しに聴けない人が多い証拠かな、と。かく言う私も、音評界の片言隻句に操られて聴いてきたんです( ??? )
無名指揮者の演奏を生で沢山聴く。これが、ヨーロッパではやりやすいから、尚さら、カリスマ醸成が必要なんでしょう。
さて、時代は息子トーマスの時代になっていますが、父クルト、結構好きでした。
ドレスデンのブラームス全集。ラフマニノフ2番ピアノ協奏曲の伴奏。ベルリン放送を振ったチャイコの456番、我が道を行く、ビングクロスビーですかね