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ワーグナー:「ニュルンベルグのマイスタージンガー」前奏曲


ジョージ・セル指揮 クリーブランド管弦楽団 1962年1月26日録音

Wagner:The Master Singers of Nuremberg Act1 Prelude


苦みのきいた喜劇

マイスタージンガーはワーグナーが作曲した唯一の喜劇と言うことになっています。ですから、ベックメッサー役に演技力が必要になるようで、私がウィーンで見たときもこのベックメッサー役に評判が集まっていました。
しかし、面白味というものはその国と民族の文化に深く根ざしているようで、評判だというベックメッサーの演技も私には単なるオーバーアクションのように感じられて目障りでさえありました。ですから、日本人にとってこの作品を本当に「喜劇」として楽しむのは難しいだろうなと思った次第です。

それよりも、最終幕でマイスタージンガーたちが入場してくる場面のゾクゾクするような高揚感と、その後の圧倒的な盛り上がりに身も心も翻弄される凄さにただただ感心する方がこの作品は受容しやすいのかもしれません。

何しろ長い作品ですから、5時開演で終わったのが10時半ごろでした。ただただ長くて、おまけに「喜劇的なやりとり」は暗い場面で延々と続くので正直言ってそう言う場面は退屈してしまいます。
少しは耳になじんでいる有名なアリアなんかだと遠のきかけた意識も戻るのですが、そうでない場面だとどうしてもうとうとと居眠りをしてしまいます。そして、再び意識が戻ってみても、居眠りをする前と何も変わることなく舞台の上で二人の男がやりとりしているので、これは大変なものだと心底恐れ入ったものです。

正直申し上げて、オペラという形式に慣れていない人にとって、この作品を最後まで聞き通すのはかなり敷居が高いと思います。
その事は、マイスタージンガーだけでなく、トリスタンにしてもパルジファルにしてもワーグナーの楽劇では事情は全て同じようなものです。

しかし、そんな中でもこのマイスタージンガーは私にとっては一番聞き通すのが困難だった作品です。なぜならば、トリスタンやパルジファルは難しいことは分からなくても、音楽の流れに身を浸していると、たとえようもない陶酔感につつまれていきます。聞き手にしてみれば、その様な陶酔感につつまれているだけでもう十分だと思うことが出来ます。
また、これ以上に巨大な指輪にしても、聞いていくうちに4楽章構成の巨大なシンフォニーを聴いているような気分になることが出来ます。そう思ってくると、聞き続けるための手がかりみたいなものが自分の中に見えてきます。

ところが、このマイスタージンガーにはトリスタンのような陶酔感はありませんし、リングから感じ取れるような構成感も稀薄です。
ただ、最終幕の圧倒的な音楽の威力には正直言ってたまげました。そして、その音の威力は残念ながらオーディオを通しては感じ取ることが出来ないものでした。もう少し正確に言えば、到底オーディオというシステムの中には入りきらないほどの巨大さがこの作品にはあります。
聞き手にしてみれば、長い長い忍耐の末に、最後の最後に一気に開放されるわけで、その巨大さにこれ以上の音楽はないという思いにさせてくれます。そして、その最後の最後のクライマックス場面で「神聖ローマ帝国は露と消えても、我がドイツ芸術は永遠に不滅なり!!我らがザックス万歳!ハイル ザックス!!」と絶叫して終わるのですから、その意味では使い方を間違うと本当に怖い音楽になります。
ナチスはこの「ハイル ザックス!」の先に「第3帝国の永遠の不滅性」と「ハイル ヒトラー!!」をだぶらせたのですが、その2つが何の不整合を感じずにシームレスにつながっていく感触をその時リアルに感じてちょっと怖くなったものです。
もちろんその事はワーグナーに何の責任もない話ではありますが・・・。

濃厚なロマンティシズムが清潔に描かれていく演奏


ふと気がついてみると、セルのワーグナー作品は1954年のモノラル録音しか取り上げていないことに気づきました。
ワーグナーの音楽というのは、なんだかんだ言っても、その価値の少なくない部分が人を仰け反らせるような巨大なオーケストラの響きに依存しています。そして、実演に接するたびに、その巨大さは「オーディオ」という枠の中には到底収まりきらないという「真実」を突きつけられて、私のようなものなどはいささか悲しい思いにさせられるものです。

ですから、「収まりきらない」という事実は認めながらも、それでも、少しでも状態のいい録音で聞くことの値打ちは認めざるを得ません。

録音なんかは少しくらい悪くても、その演奏が凄ければ少しずつ音の悪さなんかは気にならなくなってくる音楽もあります。それに対して、価値の少なくない部分をオケの響きに依拠しているような音楽だと、録音の悪さはかなり厳しいマイナスポイントとならざるを得ません。
こんな事を書くと、なんだかワーグナーを貶めているように聞こえるかもしれませんが、決してそんなわけではなくて、ワーグナーという音楽家はそれまでの誰もが思い浮かべもしなかったオーケストラの響きをうみだしたと言うことです。

そこで、問題となるのは、そのワーグナーの響きをどのように現実の音に変換するのかです。
演奏の歴史を振り返ってみれば、道は二つに分かれるようです。

一つは、大きな響きのうねりとして巨大さをひたすら追求する道です。フルトヴェングラーやクナッパーツブッシュなどがその典型となるのでしょうが、彼らはその巨大さを実現するための引き替えとして細部のクリアさは犠牲にしています。
二つめは、それとは対照的に、ワーグナーが生み出した希有の響きを克明に描き出そうとする道です。彼らはその精緻さを実現するために、音楽がいささか小ぶりになってしまうことは仕方がないと割り切っているようです。

こういう図式化はあまりにも問題を単純化しすぎるかもしれませんが、それほど本質は外していないと思います。
そして、残念なことに、前者のようなスタイルで巨大なワーグナーを目指す指揮者はほぼ死に絶えてしまったようです。私個人の演奏会体験としては、テンシュテットの最後の(と言っても彼は結局は2回しか来日できませんでしたが)来日公演で聞かせてもらったワーグナーが、その手のワーグナー体験の最後でした。

そして最近は、多くの指揮者はその精緻さに磨きをかけることに全力を投入したいようで、まるで「室内楽」のようなワーグナーを聴かされる事もあって恐れ入るときもあります。

そこで、この62年と65年に録音されたセルのワーグナーです。
セルのワーグナーと言えば、68年に録音された指輪の管弦楽曲集が有名ですが、その底に流れるアプローチはほとんど代わっていません。

当然の事ながら、彼はワーグナー演奏の基本は精緻なオーケストレーションの妙を克明に描き出していくことです。そこには一点の曖昧さもなく、遅いテンポで音楽がもたれることはありません。
しかし、聞いてみれば分かるように、そのテンポ設定は速めではあっても一本調子ではなくて、そして、オケの響きは時にパワフルであり、ワーグナーの世界に内包される濃厚なロマンティシズムは清潔に描き出されています。

「濃厚なロマンティシズムが清潔に描かれる」というのは日本語の表現としてはおかしいのですが、セルの我が気出すワーグナーはそうとしか言いようがないのです。
そして、そこにこそ、セルという音楽家の根っこが世紀末ウィーンにあったという事実を思い出させてくれます。さらに言えば、それこそが「原典尊重」という錦の御旗に隠れて、表現すべきものを何も持たない己を糊塗しようとしている連中との根本的な違いなのです。

<追記>
「1960年前後のCBSの録音はそれほど悪くはないのに、セルの録音だけはどうしようもなく悪い。」等と言われることがよくあります。しかし、これなどを聞けば、何処が「どうしようもなく悪い」のかと首をかしげてしまいます。
本当にネット上の録音評ほど当てにならないもの貼りません。

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