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モーツァルト:ピアノソナタ第15番 ハ長調 K 545


(P)フリードリッヒ・グルダ 1965年2月録音


最後の4つのソナタ

 モーツァルトが残した最後の4曲はそれぞれが独自の世界を形作っていて、何らかのグループにまとめることは不可能なようです。

 ウィーンでの成功ははかなく消え去ろうとしていました。
 生活の困窮によって家賃の高い家に住むことが難しくなったモーツァルト夫妻は頻繁に転居を繰り返すようになります。そして、フリーメーソンの友人であった裕福な商人、ミヒャエル・ブラベルグに泣きたくなるような借金の手紙を何通もしたためるようになります。
 この時期にモーツァルトは3つのピアノ曲を書いています。
 一つはピアノのためのアレグロとアンダンテK533で、これに旧作のロンドヘ長調K494をくっつけてピアノソナタに仕立て上げ、ホフマイスターから出版しています。言うまでもなく生活のために売り飛ばすのが目的でしたが、晩年のモーツァルトを代表するすぐれたピアノ曲に仕上がっています。
 第1楽章は将来のジュピターシンフォニーにつながっていくような対位法の世界です。しかし、注目すべきは第2楽章に現れる強烈な不協和音です。まるで一瞬地獄の底をのぞき込むような音楽は、隣り合って作曲されたK540アダージョにも共通する特徴です。
 このアダージョの方はどのような経緯で作曲されたのかは全く分かっていませんが、これこそは救いがたい悲劇性に貫かれた音楽となっています。アインシュタインはこのピアノのためのソロ音楽を「モーツァルトがかつて作曲したものうちでもっとも完璧で、感覚的で、もっとも慰めのないものの一つである。」と述べています。

 そしてもう一つのピアノソナタ、K545はそれほど技量の優れない弟子たちのために書かれた音楽で、ピアノの前に縛り付けられた子どもたちがおそらくは200年以上にもわたって嫌々演奏してきた作品です。
 しかし、この音楽にはモーツァルトのもっとも最上のものが詰め込まれています。極限にまでそぎ落とされながらもその音楽はモーツァルトらしいふくよかさを失なわず、光が飛び跳ねるような第1楽章から深い情感の込められた第2楽章、そして後期ロマン派のピアノ音楽を予想させるような第3楽章まで、いっさいの無駄をそぎ落として組み上げられたその音楽は一つの奇跡とも言えます。

 そして、最後の二つのソナタです。
 内田光子は1789年に作曲されたこの二つのソナタのことを「K457/K475のピアノの可能性を駆使しきった曲を忘れたかのごとくチェンバロの世界に戻る」と語っています。
 モーツァルトはこの年に自らの苦境を脱するためにプロイセン王家を訪ねて就職の可能性を探ります。その旅の途中にライプティッヒを訪れてバッハの音楽に改めて大きな影響を受けています。
 K570のソナタは「初心者のための小ソナタ」と題されているように技量に優れない弟子のために書かれたソナタと思われますが、対位法の産物とも言えるこの作品は左手で軽やかに伴奏をつけながら右手で歌わせるというのは決して易しくはありません。
 これに続く、プロイセン王女のために書かれた最後のピアノソナタK576は易しいピアノソナタという注文にも関わらず、全く易しくない、それどころか彼のピアノソナタの中ではもっとも難しいだろうと思われる作品に仕上がっています。
 アインシュタインは「フィナーレではプロイセンの王女のことは全く考えていない。・・・アダージョの深い憧れと慰めの中でも王女は考えていない」と述べ、この作品を「偉大な先駆者大バッハへの感謝としての創造物である」と断じています。

モーツァルトが聞けばきっと、「趣味の良い演奏」と褒めたことでしょう。


モーツァルトはたくさんの手紙を残していて、その中にはピアノ演奏に関わる内容もたくさん含まれています。
その手紙の内容によれば、モーツァルトの時代におけるピアノ奏法のお手本は疑いもなくエマヌエル・バッハだったことが分かります。そして、鍵盤楽器に関わるあらゆる知識とノウハウが詰め込まれたエマヌエル・バッハの「試論」をモーツァルトは熱心に読み実践していました。

そして、モーツァルトのピアノ演奏は、その「試論」に記された古典派の理想に近いものであったのです。

彼はいつも静かにピアノの中央に座り、そして手を持ち上げるようなことは好まずに、指は常に鍵盤の近くにある状態で手首を軽く使って演奏したようです。
また、無用にテンポを変えることも好まず、大げさな身振りや表情を持って演奏することにははっきりと嫌悪感を感じていました。彼は姉への手紙で自作のソナタを演奏するときは「きちんと正確」に演奏するように何度も書いていました。
モーツァルトは、クレメンティ(彼と同時代のピアニスト)のようなヴィルトゥオーゾタイプのピアニストではなかったのです。

さらに注目したいのは、モーツァルトの手紙に頻繁に登場する「趣味」という言葉です。

今の時代に「趣味がいい」と言えば一般的には「上品さが感じられるさま」という事になります。しかし、モーツァルトの時代におけるピアノ演奏で「趣味がいい」と言えば「表情と趣味をもって」装飾音を施して演奏することだったのです。
そして、その施した装飾音がその音楽が本来もっていた和声や旋律の本質を損ねるものであれば、たちまちその演奏は「趣味が悪い」と見なされたのです。

つまりは、ピアノ音楽というものは楽譜に書かれたとおりの演奏するのではなくて、常に「表情と趣味をもって」装飾音を施すことが演奏家としての義務だったのです。

例えば、このK.545のハ長調ソナタの第2楽章などはを、疑いもなく、モーツァルトは同じ旋律が繰り返されるたびにそれらに「表情と趣味をもって」装飾音を施したことは間違いないのです。
ですから、この音楽を何の疑問もなく楽譜通りに演奏することが出来るピアニストがいるとすれば、それはよほど強い忍耐力を持っているのか、もしくはよほど感性が鈍いかのどちらかなのです。

おそらく大部分のピアノ教師は自分の弟子が同じ旋律を何度も繰り返すのをじっと堪え忍ぶことが己の義務と思い定めているようですし、多くの哀れな子供達もまたクラシック音楽などというものはそう言うものだと諦めているのです。
そして、多くのプロのピアニスト達も幼少期から鍛え上げられた強い忍耐力とあらん限りの工夫でもってその繰り返しが退屈なものにならないように力を尽くすのです。
原典が神聖化される今の時代にあって、誰も「王様は裸だ!」とは言わないし、おそらくは心でそうは思っていても「言えない」でいるのです。

しかし、その様な労多くして益の少ない努力をするくらいならば、どうしてプロのピアニストはモーツァルトが行ったように、「表情と趣味をもって」装飾音を施した演奏をしないのでしょうか?
特に、モーツァルトの時代に使われたフォルテピアノを復刻し、その歴史的正当性の蘊蓄を垂れたあげくに粛々と楽譜通りに演奏している録音を聞かされると、本当にこの人は何の疑問も苦痛も感じないのだろうかと思わざるを得ません。

そして、その事はピリオド演奏だけに限った話ではなく、現代のピアノを使った演奏でも事情は同じです。
天才モーツァルトの書いた楽譜に演奏家が「恣意的」に音符を追加して演奏するなどと言うのは「神をも恐れぬ所業」と思われているようなのです。しかし、いくら何でも、これだけの歴史的正当性があるのならば、自分なりに装飾音を追加して演奏しているピアニストはいるだろうとあれこれ探したのですが、自分の無知とリサーチ力の欠如のために、なかなか「これは!」という録音を見つけ出すことが出来ませんでした。

しかし、ついに見つけ出しました。それが、このフリードリッヒ・グルダによる1965年2月の録音です。
分かってみれば、このグルダの装飾音の追加は結構有名らしいので、やはり私の無知だったようなのですが、言い訳をさせてもらえば、この装飾音の追加を上で書いたような文脈で評価している人は少なくて、その大部分はいつものよくある「グルダの酔狂」としか受け取っていないのです。
アレグロの第1楽章から細かい装飾音が施されているのですが、圧巻なのはアンダンテの第2楽章です。
グルダはモーツァルトが指示したとおりの反復を全て忠実に行っているのですが、その反復のたびにうっとりするような美しい装飾音を施していくのです。そして、その装飾音の追加はモーツァルトの歌う音楽をよりいっそう鮮やかに彩ることはあっても、決してモーツァルトの音楽を傷つけるようなことはないのです。
おそらく、グルダは徹底的に考えた末にこの装飾音の追加を行っているのでしょうが、聞こえてくる音楽は自由で即興的な雰囲気が溢れています。

私はこの録音を聞いて、なるほどモーツァルトこそは、ピアノが未だに青春時代だった時代の音楽だったんだと深く納得することが出来ました。

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