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ベートーベン:ピアノソナタ第7番 ニ長調 作品10の3

(P)バックハウス 1963年10月録音

Beethoven:Piano Sonata No.7 in D major Op.10 No.3 [1.Presto]

Beethoven:Piano Sonata No.7 in D major Op.10 No.3[2.Largo e mesto]

Beethoven:Piano Sonata No.7 in D major Op.10 No.3 [3.Menuetto: Allegro]

Beethoven:Piano Sonata No.7 in D major Op.10 No.3 [4.Rondo: Allegro]




新しいスタイルを模索するベートーベン

"3つのピアノソナタ"としてまとめて発表されていますが、一つ一つがユニークさをもっていて、意欲満々で新しい形式を模索するベートーベンの姿を感じ取ることができます。曲の配列は作品2の時と同じで、ここでもハ短調のソナタを1番に持ってきて、最も演奏効果の高いニ長調のソナタを最後に持ってきています。
そう言えば、チャールズ・ローゼンはこの3曲のことを「彼は情熱的な英雄気取りで1曲目をはじめ、より機知に富んだ2曲目へと続き、雄大な広がりを見せて3曲目を終えている」と述べています。

そして、この中で一番ユニークであり優れているのがピアノソナタ第7番の第2楽章です。
"ラルゴ・エ・メスト"と記されたこの楽章は、ベートーベン自身が「悲しんでいる人の心のありさまを、様々な光と影のニュアンスで描こうとした」ものだと語っています。
"メスト(悲しみ)"と記されているように、ベートーベンの初期作品の中では際だった深刻さを表出している作品です。

また、ラルゴというスタイルを独立した楽章に用いるのもこれが最後になるだけに意味深い作品だと言えます。

それ以外にも、例えば第5番のソナタの第1楽章の構築感は紛れもない’ベートーベンそのもの’を感じ取ることができますし、緩徐楽章が省かれた第6番のソナタのユニークさも際だっています。
初期のピアノソナタの傑作とも言うべき第8番「悲愴」の前に位置する作品で、見過ごされることの多い作品ですが、腰をすえてじっくりと聞いてみるとなかなかに魅力的な姿をしています。

ピアノソナタ第7番 ニ長調 作品10の3

第1楽章 Presto

冒頭部分で提示される第1主題はフェルマータで終結して、それに続く部分とはっきり区別されます。さあ、これが第1主題で、この中の音型を使ってこのソナタ楽章は構成されますよ!と言う宣言みたいな始まりです。そして、実際にこの第1主題の力強さを内包した4音が果てしなく反復されていきます。その数、(数えた人によると・・・)およそ50回だそうです。ある人に言わせれば、全く音楽のことが分からない人に対して、ベートーベン自身が自らの作曲の仕方をレクチャーしたような音楽です。
なお、この楽章には作曲当時のベートーベンが使用していたピアノでは出ない高音と低音が一つずつ含まれているそうです。高音は(ベートーベンのピアノ)F→(楽譜)F♯、低音は(ベートーベンのピアノ)F→(楽譜)Eとなっているそうです。原典原理主義のピリオド演奏を推進した人の中には、この2音を演奏することは当時の演奏の風習に反するとしてこの2音を弾かないそうです。
エイプリルフールのギャグ話かと思ったのですが、実行している人たちは大まじめだそうです。イデオロギーを大まじめに追求すると、どんなお笑い芸人をも打ち負かすギャグになるのは音楽の世界でも変わりがないようです。

第2楽章 Largo e mesto

ベートーベンはピアノソナタの緩徐楽章で「Largo」を使ったのはこれが最初にして最後です。アルベートーベン研究家は、ベートーベンはこの音楽でLargoの良い部分を搾り取った」と表現したそうです。
メニューヒンはピアノを「文学的な楽器」だと表現していました。確かに、この音楽を聴くと、ピアノは悲しみのストーリーを物語っています。そして、物語は中間部の特徴な旋律によってむせびなきへと変わり、言葉は詩へと昇華します。おそらく、若き時代という但し書き抜きで「最も優れた音楽の一つ」と言い切れるでしょう。

第3楽章 Menuetto e Trio-Allegro

悲しみの表情は、ここで一転して優しい叙情へと様変わりします。こういう感情の激しい転換はベートーベンの特長としてこの後も引き継がれていく特徴です。

第4楽章 Rondo-Allegro

作品10の3曲の中では、このニ長調ソナタだけが4楽章構成になっています。当時の常識としてはこれが基本形であり、ハ短調ソナタはメヌエット楽章を欠き、ヘ長調ソナタでは緩徐楽章を欠いていると感じられたようです。その意味では、4つの楽章が揃ったこのソナタが最も正統派で演奏効果も高い音楽と受け取られたようです。
こういう4楽章構成では、前の3楽章を引き受けてまとめをつける終楽章にはロンド形式が用いられるのが一般的でした。ですから、このニ長調のソナタでもそのお約束通りにロンド形式が採用されています。しかし、そのロンド形式はこれに先だとソナタのロンド形式と較べるとはるかに複雑な構造を持っています。
ロンド形式とは言うまでもなく主たる旋律が異なる旋律を挟みながら何度も繰り返される形式です。最もシンプルで古典的なのは「A(メインの旋律) - B - A - C - A - D - A ...」みたいな感じですね。

しかし、この楽章ではロンド主題は帰ってくるたびに変奏される事で実に複雑な音楽になっています。また、曲の最後も音楽が少しずつ蒸発して消えていくような雰囲気を持っているので、演奏する側にとってはなかなかに難しい音楽だと言えます。

ステレオ録音を概観してみれば


よく知られてるいるように、バックハウスは1950年から1954年にかけてベートーベンのピアノソナタを全曲録音しています。さらに、1958年から彼の亡くなる年である1969年にかけてもう一度「ほぼ全曲」録音をしています。「ほぼ」全曲というのは、作品106の変ロ長調ソナタだけは再録音できなかったので、それだけはモノラル時代の録音で代用して「全集」としたからです。

こういう風に、50年代から60年代にかけて録音の形態がモノラルからステレオに移行したことで、レーベルの意向も働いて再録音されるケースがよくあります。ベートーベンのピアノソナタで言えば、バックハウスと並び称されたケンプなどもモノラルとステレオで二回全集を完成させています。そして、こういうケースの場合は、2回目のステレオ録音の方が衰えが感じられて、あまりよろしくない結果になっていることが多いです。

考えてみれば、バックハウスが2回目の録音に着手した時は既に70歳を超えていました。正確に言えば、74歳から85歳にかけて録音されたことになります。
ちなみに、モノラル録音の方も64歳から68歳にかけての録音ですから、そちらにしても脂ののりきった全盛期の録音と言うには躊躇いを感じます。

指揮者と違って自分で音を出さないといけない演奏家というのは、肉体的衰えはそのまま音楽的な衰えに結びつかざるを得ません。自分の肉体そのものが楽器である歌手ほどには影響は深刻ではありませんが、それでも筋力の衰えはピアニストにとっては無視できないハンデとなります。
バックハウスは長生きをして、最後まで現役のピアニストとして活動しました。しかし、調べてみると、あのシュナーベルよりも3歳若いだけですし、あの伝説の指揮者であるニキシュとも共演しているのです。

それに較べれば、ケンプの2回目のステレオ録音は1964年から65年にかけて一気に為されてるのですが、その時ケンプは69歳から70歳にかけての仕事でした。モノラル録音の方は51年から56年にかけての仕事なのですが、大部分は51年に録音されているので、実質的には55歳の時の仕事だと考えていいでしょう。

55歳!!
まさに脂ののりきった全盛期の仕事と言っていいでしょう。

その意味で言えば、バックハウスはその様な録音の恩恵にあずかるには、いささか早く生まれすぎたと言えます。(ちなみに彼はフルトヴェングラーよりも1歳年長です。)

ステレオによる録音は以下のような順番で行われています。

[1958年]

第8番 ハ短調『悲愴』/第14番 嬰ハ短調『月光』/第21番 ハ長調『ヴァルトシュタイン』/第23番 ヘ短調『熱情』

おそらくこの年の録音は、ステレオ録音による全集の開始というのではなく、レーベルの強い意向で売れ筋の有名曲をステレオで録音しましょう、みたいなノリで始まったのではないかと想像されます。まあ、何の根拠もありませんが。(^^

[1961年]

第15番 ニ長調『田園』/第26番 変ホ長調『告別』/第30番 ホ長調/第32番 ハ短調

[1963年]

第1番 ヘ短調/第5番 ハ短調/第6番 ヘ長調/第7番 ニ長調/第12番 変イ長調『葬送』/第17番 ニ短調『テンペスト』/第18番 変ホ長調/第25番 ト長調『かっこう』/第28番 イ長調/第31番 変イ長調

あまりメジャーとは言えない作品10の3曲が録音されていますので、このあたりで全集の完成を視野に入れはじめたのかもしれません。
しかし、注目すべきは、63年に録音された演奏の大部分は63年にリリースされているのに、「第25番 ト長調『かっこう』」と「第31番 変イ長調」だけは67年になってはじめてリリースされていることです。
その理由は実際に聞いてみればすぐに了解できます。演奏は不安定で指のもつれも垣間見られます。

おそらくバックハウス自身は録音をやり直したかったのだと思います。しかし、その時間と根気はバックハウスには残されていなかったと言うことなのでしょう。おそらく、最後はレーベルに押し切られて渋々リリースとなったものと思われます。

[1966年]

第4番 変ホ長調

自分の衰えを感じながらも、初期ソナタの中の異形とも言うべきこの作品だけは残したかったのかもしれません。

[1968年]

第2番 イ長調/第9番 ホ長調/第10番 ト長調/第11番 変ロ長調/第19番 ト短調/第20番 ト長調

[1969年]

第3番 ハ長調/第13番 変ホ長調『幻想曲風ソナタ』/第16番 ト長調/第22番 ヘ長調/ 第24番 嬰ヘ長調『テレーゼ』/ 第27番 ホ短調

そして、何かにせき立てられるかのように、最後の2年間に12曲もの録音が行われ、第29番 変ロ長調『ハンマークラヴィーア』だけが残されることになります。

確かチャールズ・ローゼンの言葉だと思うのですが、ベートーベンの音楽は他の作曲家と較べるとより強い傾注を要求します。そして、その様な傾注を通して読み取った音楽の形を現実の音に変換するためには確かなテクニックが絶対に必要です。
つまりは、ベートーベンだからと言って、深い精神性だけでは音楽にはならないのです。当たり前の話ですが、心身共に脂ののりきった状態でなければ、音楽に対して一切の妥協を許さなかったベートーベンの音楽を再現することは不可能なのです。

その意味で言えば、死の直前の68年から69年にかけて行われた録音だけでなく、一番最初の58年の録音においても、明らかにバックハウスは衰えています。そして、その衰えは私のような素人でも分かるレベルのもので、明らかに早いパッセージになると指が十分に動いていないことが分かります。特に、モノラル時代の録音は何度も聞いているだけに、その違いは明らかです。

しかし、ベートーベンのもう一つの持ち味は緩徐楽章の美しさです。そして、そう言う部分になると、ステレオ録音の大らかさはプラスに働いていますし、何よりも肉体的な衰えは大きなマイナスとはなっていないように思います。
このステレオ録音に「淡々と流れ行く音楽のエネルギーの底に、何か静かな瞑想的な静けさを感じます。」という人がいるのは、その様な理由からでしょう。

それから、肉体のコンディションというのは、年を取ってからでも調子のいいときは調子がいいものです。ですから、最晩年の録音でも早いパッセージを意外なほどクリアに乗り切っている場面もあります。そう言う場面に出会うと、なるほどバックハウス恐るべし!などと思ってしまいます。決して「枯れた芸」などと言う安易な褒め言葉に寄りかかる人でなかったことだけは確かです。

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