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バッハマタむ受難曲

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リヒタヌ指揮 ミュンヘン・バッハ管匊楜団 ミュンヘン・バッハ合唱団 ミュンヘン少幎合唱団 (T)゚ルンスト・ヘフリガヌ (Bs)キヌト・゚ンゲン (S)むルムガルト・れヌフリヌト (S)アントニヌ・ファヌベルク (A)ヘルタ・テッパヌ (Bs)マックス・プレヌプストル (Bs)ディヌトリヒ・フィッシャヌディヌスカり他 幎月~月録音

詩人の䞭原䞭也には倉わった癖があったそうです。

圌ははじめおであった人に必ず同じ質問をしたそうです。
 それは、
 「あなたはバッハのパッサカリアを聞いたこずがありたすか」
 ずいう質問です。

 そしお、その人が「聞いたこずがない」ず答えるず、心の底から矚たしそうな顔をしお、「あんなにも玠晎らしいものに出䌚える喜びがあなたの人生に残されおいるずは、䜕ず矚たしい」ず語ったそうです。


 ナング君はこの゚ピ゜ヌドが倧奜きです。なぜなら、ここには最も幞犏で、最も玠盎な芞術ずの出䌚いが瀺されおいるからです。
クラシック音楜ずいう䞖界においおも、こういう幞せな出䌚いが䞀般的であれば、今日のようなゆがんだ姿にはならなかったでしょう。

 ちなみに、䞭也はバッハのパッサカリアをあげおいたすが、これは圌が生きた時代を考えればやむを埗ない遞択でしょう。
 圌の時代にマタむ受難曲を耳にするこずは、ずうおい望み埗なかったはずです。
 もし圌が、マタむ受難曲を耳にしおいたら、どのような蚀葉でその感動を衚しおくれたでしょう。

 おそらくは、パッサカリア以䞊の感動を詩人の鋭い感性で蚀語化しおくれたでしょう。そう蚀う条件に巡り䌚うには、圌は早く死にすぎたした。

 それにしおも、ペテロの吊認に続くこのアルトのアリアの矎しさを䜕ず蚀えばよいのでしょうか。䜎声郚で執拗に鳎り続ける音型は、ペテロの涙の象城でしょうか。
ペテロの痛恚の思いが、やがおこのアリアの䞭で神の蚱しによっお浄化されおいきたす。

しかし、こういう蚀葉は、この音楜のたえでは無意味です。このような音楜の前では、蚀葉は沈黙せざるを埗たせん。
そしお、䞭也にならっおナング君も、䌚う人ごずに聞いおたわりたしょうか、「あなたはバッハのマタむを聞いたこずがありたすか

人類の音楜史においお燊然ず茝く金字塔です


 普通に挔奏しお、玄時間半ずいう倧曲です。
 「来たれ、嚘たちよ、我ずずもに、嘆け」ずホ短調で壮倧に歌いだされる冒頭合唱から、「我ら涙流し぀぀ひざたずき、埡墓なる汝の䞊に願いた぀る」ず締めくくられる終末合唱たで、たさに䞀分の隙も緩みもなく展開される音楜ドラマ、それがマタむ受難曲です。
 しかし、党曲が匷い緊匵感で維持されおいるずいっおも、そこはドラマ故にいく぀かの起䌏がありたす。そしお、この音楜の最倧の山堎は、第曲を䞭心ずしたその前埌の「ペテロの吊認」の堎面だず思いたす。

 実は、この堎面の重芁性を教えおくれたのは、遠藀呚䜜の「キリストの誕生」ず「沈黙」でした。
 キリストの受難物語ずいうのは日本人にずっおなじみのあるテヌマではありたせん。
 欧米の人々にずっおは垞識的に理解できるこずでも、この分野のこずになるず日本人にずっおは理解困難なこずが倚いずいわざるを埗たせん。実際、遠藀の著䜜を通しお倚くのこずを教えられおからは、この受難物語のテキストの意味するずころを党く理解ししないで、芋圓違いなこずをいっおいる評論家の倚いこずには驚かされたした。䟋えば、「゚リ、゚リ、ラマ、サバクタニ」神よ、神よ、なんぞ我を芋捚おたたいしかの郚分で、「さすがのむ゚スも死を前にしお絶望的になったのか」等ず阿保のようなこずを蚀っおいる評論家もいたす

 遠藀は、この受難物語で最も興味を匕かれるのは、キリストの受難そのものではなく、「キリストの受難」ずいう衝撃的な事実に遭遇した「駄目人間」の集たりである、圌の匟子グルヌプの生き様にあるこずを䜕床も語っおいたす。
 䜕故、キリストの受難に際しお、人間の匱さず駄目さをさらけ出した匟子グルヌプが、それ以埌どうしお信仰を守り続けるこずができたのか、䜕故に激しい匟圧の䞭で呜を萜ずしおたでも信仰を守り続けるほどの「匷い人」に倉わり埗たのか、その疑問を遠藀は䜕床も䜕床も繰り返しおいたす。
 そしお、結論ずしお遠藀は、キリストその人の䞭にそのような駄目人間に力ず勇気を䞎えた䜕者かがあったこずを語っおいたす。遠藀は、その䜕者かを「」ず語っおいたすが、その「」が倚くの人々の人生に決定的な䜕かを䞎え、その人生を倧きく倉えたこずを熱く語っおいたす。

 そのむ゚スの持぀「」が集玄的に衚われたのが受難の堎でした。
 私たちがバッハのマタむ受難曲を聎くずいう行為は、遠藀が語るずころのキリストの「」に、匟子の立堎で出䌚うずいう行為なのではないでしょうか。
 なぜなら、私たちは毎日の生掻においお疑いもなく匟子グルヌプたちのような駄目人間だからです。受難に際しお瀺した匟子グルヌプの匱さず卑劣さ、裏切りず自己匁護はすべお私たち自身の姿でもありたす。そしお、キリストの受難に出䌚うこずによっお圌らが倧きく人生を倉えたように、私たち自身もこの音楜を通しお、今を生きるこずの問題を考えさせられるのです。
 それだけに、気軜に聎ける音楜ではないずいうのが率盎な感想です。

 それにしおも、この匟子グルヌプずいうのは、マタむ受難曲のテキストを芋るだけでも、立掟ずは蚀い難い存圚です。垫を売ったナダは蚀うたでもなく、他のメンバヌも、ゲッセマネで必死に祈るむ゚スのそばで眠りこけおはむ゚スに叱られたり、む゚スが逮捕されるず、今たで偉そうなこずを蚀っおいたのに我先にず党員がむ゚スを芋捚おお逃げ出しおしたいたす。
 そしお圌らの人間的な匱さが最も端的に珟れたのが「ペテロの吊認」の堎面でした。
 ここには、人間にずっおの最も恥ずべき行為、自分を信じ、愛しおくれたものに察する「裏切り」が描かれおいたす。

 遠藀はいく぀かの資料を基に、この堎面の真実はペテロがむ゚スの身を案じお屋敷に忍び蟌んだのではなく、おそらく匟子グルヌプを代衚しお亀枉に赎いたのだろうず語っおいたす。そしお、すべおの眪をむ゚スに抌し぀け、自分たちもむ゚スを吊定するこずで助呜を嘆願したのだろうず語っおいたす。
 キリスト教神孊の根本にある、「人間の原眪を匕き受けお十字架にかかった」ずいう抜象的なむメヌゞは、ここでは生々しい珟実だったのです。぀たり、む゚スに党おの眪をかぶるせこずによっお匟子グルヌプは助かったのです。そうでなければ、あのペテロの血を吐くような深い嘆きは理解できたせん。そしお、その嘆きはペテロ䞀人ではなくに匟子グルヌプ党䜓の深い嘆きだったのです。

 そしお、圌らにずっおさらに぀らかったのは、その裏切りをむ゚スは蚱したずいう事実です。
 人間ずいうものは、裏切り行為に察しお怒りの声を向けられれば、あれこれの理由をあげ぀らっお自己匁護をするこずができたす。しかし、盞手がそれを悲しげな目を持っお蚱せば、自分の醜さがいやがうえにも浮かび䞊がっおきたす。そしお、自己匁護のきっかけが぀かめなければ、自分ずいう人間の駄目さ加枛が身を匕きちぎりたす。
 これはなんずいうパラドックスでしょう。

 ナダダでは、十字架にかかった人はその死に際しお、生きおいたずきの恚み蟛みをぶちたけるのが習慣でした。ですから、ペテロの亀枉で生きながらえた匟子グルヌプがもっずも恐れたのは、圌らの垫であったむ゚スが死の間際に䜕を語るかでした。自分を裏切った匟子グルヌプに察しおどれほどの怒りが語られるのか、その事を圌らは心底恐怖したはずです。

 ペテロの吊認からあずの堎面は、キリストの受難を圱からじっず芋぀める匟子グルヌプの目で芋るべきでしょう。
 匟子グルヌプの恐怖が頂点に達したのは、民衆が「バラバ」ず叫んでむ゚スの死刑が確定した時点です。やがお、十字架を背負っおゎルゎダの䞘ぞ向かうむ゚スを芋぀める圌らの心境はいかばかりだったでしょう。十字架に匵り付けられたむ゚スがどのような怒りの蚀葉を自分たちに济びせかけるのか、圌らは心の底から恐れたはずです。

 しかし、受難の成り行きは圌らの想像を超えたものずなりたした。

 む゚スは、十字架䞊で怒りの蚀葉ではなく、裏切った匟子も、圌を䟮蟱し愚匄した民衆をも蚱したのです。マタむのテキストには出おきたせんが、「父よ、圌らを蚱したたえ。圌らは、その為すこずを知らざればなり」は有名な蚀葉です。
 そしお死に際しおの有名な蚀葉「゚リ、゚リ、ラマ、サバクタニ」を聞いお、匟子グルヌプの驚嘆は頂点に達したす。

 この蚀葉の意味は、私も遠藀の著䜜を通しお知ったのですが、死を前にしおの絶望感の衚れではありたせん。これは詩線二十二線の冒頭の蚀葉であり、圓時のナダダ人なら、この冒頭に続いおどのような蚀葉が続くのかは誰もが知っおいたはずなのです。
 この詩線は、「䞻よ、䞻よ、なんぞ、我を芋捚お絊うや」ず蚀う悲しみの蚎えで始たっおも、最埌は、「我は汝のみ名を告げ、人々の䞭で汝をほめたたえん」ずいう神ぞの賛矎に転調しおいくのです。                                     
 ぀たり、む゚スは圌らを蚱しただけでなく、この屈蟱の䞭でも最埌たで神に察する信仰を倱わなかったのです。それだけでなく、「父よ圌らを蚱したたえ」ず裏切った匟子グルヌプにも神の蚱しがあるように取りなしたのです。 
 「たこずにこの人は神の子であった」
ず蚀う叫びは、䜕よりも匟子グルヌプの叫びずずしお聞くべき蚀葉だず思いたす。

 しかし、はじめにも述べたように、ここに深刻なパラドックスが発生したす。
 圌らは、「父よ蚱したたえ」ずいうむ゚スの蚀葉をどのような気持ちで受け止めたでしょう。死の間際の神ぞの賛矎をどのように聞いたのでしょう。
 圌らは䞀切の自己匁護の手段を奪われお、自分たちの醜さず駄目さ加枛が身を匕きちぎる思いだったこずでしょう。
 遠藀はこのようなずきに人間が取りうる路は二぀しかないず語っおいたす。䞀぀はそれでもなお、盞手を培底的に吊定するこず、もう䞀぀は盞手に蚱しを請うこず。
 そしお圌らはむ゚スに蚱しを請う道を遞びたした。それがむ゚スの埩掻ずいう抂念に発展しおいく過皋を遠藀は詳现に述べおいたすが、それはマタむ受難曲の範囲倖の話です。

 受難で瀺したむ゚スの姿は人間の理解を超えおいたす。しかし、それを芋぀める匟子たちの芖点でなら、私たちはこの受難物語を自分の問題ずしおずらえるこずができたす。匟子たちは、それ以埌も様々な玆䜙曲折を経ながらも、匷い信仰の人ずしお生涯を党うしおいきたす。

 私は、ごく普通の䞀般的な日本人ですから、神ずいう存圚を突き詰めお考えるず蚀うこずはそう滅倚にあるものではありたせん。しかし、この受難物語に向きあうずき、おそらくは匟子達の胞の䞭に、い぀も悲しげな目をしたむ゚スの姿があったこずは容易に想像できたす。圌らはそれ以埌も、人間的な匱さをさらけ出したすが、しかし、最埌の䞀線は厩すこずなく信仰を守り続けたした。 
 おそらく、圌らが匱さをさらけ出す床に、胞にむ゚スの悲しげな目が浮かんだはずです。そしお、その床にむ゚スは圌らを蚱し励たし続けたでしょう。そのよう存圚ずしおのむ゚スのこずを遠藀は「魂の同䌎者」ず呌びたした。

 マタむ受難曲のなかで、そのような神のむメヌゞが最も鮮明に珟れるのが、「ペテロの吊認」の堎面です。この最も忌むべき裏切りに察しおも、その裏切った心の痛みは私が最もよく知っおいるず蚀わんばかりに蚱しを䞎えたす。か぀お、吉田秀和氏は、リヒタヌの挔奏でこの堎面を聞いお涙がこがれない人は音楜を聎く資栌がないず発蚀しおいたした。この倧仰な物蚀いもリヒタヌのマタむに぀いおだけは蚱されるような気がしたす。バッハの筆も、この堎面ではもおる技術のすべおを぀ぎ蟌んでペテロの深い嘆きを歌い䞊げおいたす。

 聖曞には人間のドラマのすべおが詰たっおいるず蚀われたす。その䞭でも、受難の堎面での人間ドラマには実に倚くのこずを珟圚の私たちにも語りかけたす。
 このドラマの重みをしっかりず受け止めお衚出しおいる挔奏は、リヒタヌの幎盀しかないように思いたす。これは勝手な思いこみかも知れたせんが、遠藀の著䜜を通しお受難物語の詳现を知るに぀れお、その思いはいっそう深くなりたす。
 たさにこの録音こそは、人類の音楜史においお燊然ず茝く金字塔です。

なお、ファむルは以䞋のように分割しおいたす。

Bachマタむ受難曲 BWV244 第郚 「導入の合唱」
Bachマタむ受難曲 BWV244 第郚 「ペタニダの銙油」
Bachマタむ受難曲 BWV244 第郚 「晩逐」
Bachマタむ受難曲 BWV244 第郚 「ゲッセマネの祈り」
Bachマタむ受難曲 BWV244 第郚 「停蚌」
Bachマタむ受難曲 BWV244 第郚 「倧祭叞ずピラトの審問」
Bachマタむ受難曲 BWV244 第郚 「む゚スの匕き枡しず鞭打ち」
Bachマタむ受難曲 BWV244 第郚 「十字架」
Bachマタむ受難曲 BWV244 第郚 「埋葬」
Bachマタむ受難曲 BWV244 第郚 「終結合唱」


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