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ギーゼキング(Walter Gieseking) |ドビュッシー:前奏曲集 第2巻
ドビュッシー:前奏曲集 第2巻
ギーゼキング 1954年12月9〜10日録音
Debussy:前奏曲集 第2巻 霧 - Brouillards
Debussy:前奏曲集 第2巻 枯葉 - Feuilles mortes
Debussy:前奏曲集 第2巻 ヴィーノの門 - La Puerta del Vino
Debussy:前奏曲集 第2巻 妖精たちはあでやかな踊り子 - Les Fe'es sont d'exquises danseuses
Debussy:前奏曲集 第2巻 ヒースの荒野 - Bruye`res
Debussy:前奏曲集 第2巻 奇人ラヴィーヌ将軍 - Ge'ne'ral Lavine - excentrique
Debussy:前奏曲集 第2巻 月の光が降り注ぐテラス - La terrasse des audiences du clair de lune
Debussy:前奏曲集 第2巻 水の精 - Ondine.
Debussy:前奏曲集 第2巻 ピクウィック殿をたたえて - Hommage a` S. Pickwick Esq. P.P.M.P.C.
Debussy:前奏曲集 第2巻 カノープ - Canope
Debussy:前奏曲集 第2巻 交代する三度 - Les tierces alterne'es
Debussy:前奏曲集 第2巻 花火 - Feux d'artifice
ショパンへのオマージュ?
ドビュッシーはショパンを深く尊敬していました。その意味で言えば、この作品は明らかにショパンに対する捧げ物だったといえます。しかし、それと同時にピアノという楽器の可能性の新しい地平を切り開いたという自負を持っていたドビュッシーですから、単なるオマージュという範囲には収まりきらない対抗心のような物も感じ取れる作品であることも事実です。
ただし、ドビュッシーはこれらの作品をショパンの前奏曲のように「まとまった作品」とは考えていなかったようです。その証拠に、初演の時も、「デルフの舞姫」・「帆」・「沈める寺」・「パックの踊り」の4曲だけが取り上げられました。また、24曲がそろっていても、バッハやショパンのように各調性に1曲ずつ割り当てられていないこともその様な「まとまり」を意識していなかったことをあらわしています。
ドビュッシー自身もこれらの作品をまとめて演奏する必要を認めていなかったようで、「いい物もあれば、悪い物もある」と語っていたそうです。
なお、この前奏曲集の全ての作品にはドビュッシーの手によってユニークな標題がつけられています。ドビュッシーはこの前奏曲集に限らず、自らの作品のほとんどに何らかの標題をつけています。
これは考えてみると実に不思議なことです。何故ならば、ドビュッシーのピアノ音楽に対する最大の貢献は新しい響きを発見したことであり、その最大の価値は音色とリズムにこそあります。その意味で、彼の音楽はいわゆる「標題つきの音楽」とは最も遠い場所に存在しているのであって、その標題だけを見ればロマン派時代のピアノ小品のように見えて、その内実においては新ウィーン楽派の音楽の方が近しいのです。
それでもドビュッシーはほとんどの作品に何らかの標題をつけているのです。
ですから、ドビュッシーの音楽を考える上でそれらの標題は決して無視することは出来ないのです。
おそらくは、ドビュッシーは全く新しい純粋な音の世界を構築しながらも、新ウィーン楽派とは異なる道を歩むことを、そして、歩んできたことをそれらの標題によって宣言しているのでしょう。
つまり、彼にとって新しく見いだした音色とリズムは「目的」ではなくて、新しい表現を実現するための「手段」にすぎなかったのではないでしょうか。
そして、彼が目的としたのは、その様な新しい音色やリズムによって醸し出される「雰囲気」にこそあったのではないでしょうか。その、「新しい雰囲気」を聞き手に伝えるための手段として彼は「標題」にこだわったのではないでしょうか。
彼にとって音楽とは単純な音の構造物に還元することは出来ない物だったのでしょう。ですから、私たちがドビュッシーの音楽に親しむときは、そのれらの標題の助けを得て、その音楽が醸し出す雰囲気に身を浸すことこそが肝要なのではないでしょうか。
そう思えば、ドビュッシーを聴きに行くといつも爆睡してしまうユング君の聴き方は実に正しい聴き方だったのかもしれません。(何故か、ドビュッシーを聴くと眠ってしまう己の自己弁護・・・?^^;)
前奏曲集 第1巻
* デルフィの舞姫 - Danseuses de Delphes
* ヴェール(帆) - Voiles
* 野を渡る風 - Le vent dans la plaine
* 夕べの大気に漂う音と香り - Les sons et les parfums tournent dans l'air du soir
* アナカプリの丘 - Les collines d'Anacapri
* 雪の上の足跡 - Des pas sur la neige
* 西風の見たもの - Ce qu'a vu le vent d'ouest
* 亜麻色の髪の乙女 - La fille aux cheveux de lin
* とだえたセレナード - La sérénade interrompue
* 沈める寺 - La cathédrale engloutie
* パックの踊り - La danse de Puck
* ミンストレル - Minstrels
前奏曲集 第2巻
* 霧 - Brouillards
* 枯葉 - Feuilles mortes
* ヴィーノの門 - La Puerta del Vino
* 妖精たちはあでやかな踊り子 - Les Fées sont d'exquises danseuses
* ヒースの荒野 - Bruyères
* 奇人ラヴィーヌ将軍 - Général Lavine - excentrique
* 月の光が降り注ぐテラス - La terrasse des audiences du clair de lune
* 水の精 - Ondine
* ピクウィック殿をたたえて - Hommage à S. Pickwick Esq. P.P.M.P.C.
* カノープ - Canope
* 交代する三度 - Les tierces alternées
* 花火 - Feux d'artifice
レパートリーの広さ
ギーゼキングという人は本当にレパートリーの広い人でした。モーツァルトのオーソリティのように言われ、ベートーベン演奏でも数々の業績を残しながら、フランス近代の音楽に対しても高い適応能力を示したというのは信じがたい話です。
どちらかと言えば、ガツーンと言うごつい響きを主体とした独墺系の音楽と、軽いふわふわとした響きを主体としたフランス近代の音楽では南極と北極ほども隔たっています。
例えば、コルトーはショパンだけでなくフランス近代の音楽にすぐれた業績を残していますが、彼のベートーベンというのは想像できません。同じように、バックハウスのドビュッシーというのも、もしあれば聞いてみたいとは思いますが、これまたちょっと想像できません。ところが、ギーゼキングはその両者において高い評価を残しているのです。
おそらく、この高い適応は、ギーゼキングは「師」というものを必要としなかったからでしょう。彼は、何でも自分だけで出来た人でした。
5歳の時に自分の力で読み書きが出来ることを「発見」した彼は、一度も学校と言うところに通いませんでした。おまけに、人並み外れた記憶力を持っていたギーゼキングは一度見た楽譜は死ぬまで忘れなかったと言います。そして、覚えた楽譜をピアノで再現することは彼にとっては何の困難もなかったのです。
彼は、自らの興味のままに面白いと思える音楽を片っ端から自分のレパートリーにしていったのではないでしょうか。
ただし、最初に覚えたときに間違って覚えた箇所は死ぬまでなおらなかったそうですから、天才と努力型、どちらがいいのかは難しいですね。
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