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ナット(Yves Nat)|ベートーベン:ピアノソナタ第29番 変ロ長調 作品106 「ハンマークラヴィーア」
ベートーベン:ピアノソナタ第29番 変ロ長調 作品106 「ハンマークラヴィーア」
(P)ナット 1954年10月4〜25日録音
Beethoven:ピアノソナタ第29番 変ロ長調 作品106 「ハンマークラヴィーア」 「第1楽章」
Beethoven:ピアノソナタ第29番 変ロ長調 作品106 「ハンマークラヴィーア」 「第2楽章」
Beethoven:ピアノソナタ第29番 変ロ長調 作品106 「ハンマークラヴィーア」 「第3楽章」
Beethoven:ピアノソナタ第29番 変ロ長調 作品106 「ハンマークラヴィーア」 「第4楽章」
後期の頂点へと駆け上がっていく作品
![](../Jacket_record/No_Image.jpg)
後にも先にも、これほども巨大なソナタを書くことはありませんでした。その意味では、ピアノソナタの最高傑作と言うよりは「異形の作品」というイメージの方が強いようです。
特に、作品57の熱情ソナタ以降は、どちらかと言えばこぢんまりとしたソナタを書いてきただけに、突然に表れたこの作品の異形ぶりは際だちます。
そして驚くべきは、この作品は生活面において大変な困難を抱えている時期に作曲されたと言うことです。
当時のベートーベンは、思うように作曲の筆が進まずに売るべき新作もなく、またナポレオン戦争とその後の混乱の中でパトロンからの支援も途絶えていました。
そのために、新作ができるたびにあちこちにそれを売り込んでいます。
この異形のソナタもそのようにして売り込まれた一つでした。
ベートーベンは手紙の中で次のように述べています。
「もし、このソナタがロンドンに向かないとしたら、別のをお送り出来るとよいのですが、或いは終楽章でラルゴは外して、フーガのところから直ぐ始めてもよろしい。
または、第一楽章、次がアダジオ、その後に第三楽章としてスケルツォ、そして第四楽章のラルゴとアレグロ・リゾルート(フーガ)を含めて全体的にカットしてしまう、というのでも良いのです。それとも、まず第一楽章で、その次にスケルツォが来る、というだけで良い。2楽章で全ソナタを形付けるのです。
このソナタは押しつめられた状況下で書かれました。」
ベートーベンは生活のためにこの偉大なソナタの切り売りさえ辞さなかったのです。
しかし、このソナタを生み出すことによって彼は一つの壁をうち破ったことは事実です。そして、堰を切ったように後期の傑作群をこれに続くように生み出されていきます。
まさに、後期の頂点へと駆け上がっていくきっかけとなった作品であることは間違いありません。
第1楽章
アレグロ 変ロ長調 2分の2拍子 ソナタ形式
第2楽章
アッサイ・ヴィヴァーチェ 変ロ長調 4分の3拍子 スケルツォ
第3楽章
アダージョ・ソステヌート 嬰ヘ単調 8分の6拍子 ソナタ形式
おそらくはピアノ音楽というジャンルにおいてもっとも人の心を打つ音楽の一つです。ウイルヘルム・フォン・レンツは、このアダージョについて、「全世界のすべての苦悩の霊廟」と評しました。
第4楽章
ラルゴーアレグロ・リゾルート 変ロ長調 4分の4拍子ー4分の3拍子 フーガ
アンドレ・シャルランの業績
うっかりしていた。
この、ナットの全集はアンドレ・シャルランの業績でもあったのです。アンドレ・シャルランって聞いて「それって誰?」という人は、クラシック音楽マニアとしてはまだまだ修行が足りません。もちろん、ナットの全集がシャルランによって録音されたことを今頃になって気づくユング君も、残念ながら修行がまだまだ足りないようです。
アンドレ・シャルランというのはフランスを代表する伝説の録音技師で、彼が60年代におこした「シャルランレーベル」の中古LPは現在数万円からモノによっては数十万円で取引されているというおじさんです。
何故に?といえば、彼が生涯の信念としていた「ワンポイント録音」の素晴らしさと、名前に惑わされずに彼が実力で採用した演奏家の「音楽」の素晴らしさによってです。(一例を挙げれば、一部で熱烈なファンを持つハイドシェクは、シャルランが見いだしたピアニストです)
ご存知のように、理屈から言ってワンポイント録音の優位は明らかです。しかし、問題なのは、その「ワンポイント」を見いだす能力です。
どこでもいいから適当なワンポイントにマイクをおいて録音したのでは、それはただの素人芸です。広い演奏空間の中のどこかに、最適なバランスで音楽をすくい取ることのできる「ワンポイント」が存在します。シャルランは、その理想の「ワンポイント」を求めて、一切の妥協を排して録音活動に取り組んだ人物でした。ですから、EMIという大レーベルの要職を投げ捨てて自分のレーベルをおこしたのも、己の理想に殉じたからだとも言えます。
その後のメジャーレーベルは、広いホールの中をマイクとケーブルを持ってはいずり回って理想の「ワンポイント」を探し出すような「コストパフォーマンス」の悪い仕事は時代遅れだとして、マルチ録音に移行していきました。そうすれば、多少のバランスの悪さがあっても「後から」、いくらでもやり直しができるからです。しかし、その様にしてできあがった録音からは、音楽が演奏される場所の「空気感」が失われていました。言葉をかえれば、「音」はそれぞれの場所に定位して鳴っていても、そこから人間の気配を感じ取ることはできないのです。
ところが、「ワンポイント録音」という恐ろしく効率の悪い仕事に生涯をかけたシャルランの録音では、まさしく人間が演奏している気配が聞き手に伝わってきます。
しかし、その晩年は不遇なものだったようです。ハッキリ言って偏屈としか言いようのない彼の性格が災いして、レーベルの経営は思うようにいかず、国税の未納で差し押さえられた貴重なマスターテープは「ゴミ」として海に埋め立てられてしまいます。おそらくは、「ワンポイント録音」などという時代遅れのやり方で作られたテープなどは「ゴミ同然の無価値なもの」と判断されたのでしょう。中古レコードが数万円もするのですから、マスターテープが残っていればとんでもない「お宝」になっていたはずなのですが、税務署の人間というのはどこの国に行っても「文化」というものは解さないようです。
さて、そんな偏屈の天才がEMI時代に残した代表的な仕事がこのナットの全集と、リリー・クラウスのモーツァルトのピアノソナタ全集です。(ただし、クラウスは60年代にステレオでもう一度録音していますが、そちらの方はシャルランとはなんの関係もない録音ですのでご注意あれ。}
このナットの録音は左手の冴え冴えとした響きが実に印象的です。そして、「明晰」という言葉で評価されるナットの演奏のかなりの部分がシャルランの手腕によって引き立てられていることにも気づかされます。
年代の古い録音に関しては、高音域がキャンキャン泣きわめくスピッツのようにうるさく感じる場面もありますが、最後の55年に録音された一連のものは実に素晴らしいです。彼の録音はよく「楽器の中に頭をつっこんだような生々しさがあるにもかかわらず、それとは反するような香り立つような空気感が奇跡のように共存している」と評されますが、その様な彼の録音の片鱗がここからも感じ取れます。
演奏といい、録音といい、もっともっと評価されていいアルバムです。
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