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バッハ:ゴルドベルグ変奏曲, BWV 988

(P)グレン・グールド:1955年録音



Bach:ゴルドベルグ変奏曲(全曲)


不眠症対策というのはあまりにも有名なエピソードですが・・・

1741年のことです。
ドレスデンを旅をしたバッハは、世話になったロシア公使カイザーリング伯爵のもとを訪ねます。伯爵は当時不眠症にかかっていたために、伯爵に仕えるヨーハン・ゴットリーブ・ゴールトベルクという14歳の少年にクラヴィーアを演奏させていました。(まだ14の子供に、自分が眠りにつけるまで毎日毎日ピアノを演奏させ続けるとはどんな神経をしとったんだ!!)

そんな伯爵が、「穏やかでいくらか快活な性質を持ち、眠れぬ夜に気分が晴れるようなクラヴィーア曲を作ってくれ」とバッハに依頼をして誕生したのがこの作品です。
ユング君はこの「不眠症対策」というエピソードは後世の人が面白おかしくでっち上げたお話だと最初は思っていたのですが、実は大筋で事実と一致しているようですね。それにしても、小さな子供にかくも過酷な命令を平然と出せるような人間が不眠症になるとは信じがたい話です。

でも、ゴルドベルク少年はその過酷な試練に耐えたおかげで、このバッハ晩年の大傑作に自分の名前を残すことになります。
作曲の経緯から言えば、「カイザーリング変奏曲」と呼ばれてもなんの不思議もないと思うのですが、なぜか「ゴルドベルグ変奏曲」と呼ばれるようになったのですから、これまた歴史の皮肉と言わねばなりません。


バッハ演奏の分水嶺

バッハ演奏の歴史はグールド以前とグールド以後に別れるという人もいます。そして、その分水嶺に佇んでいるのが、ここで紹介しているゴルドベルグ変奏曲の録音です。グールドのデビュー盤となったこの録音が発売されたときは多くの人に衝撃を与えました。
しかし、残念ながら今日の私たちは、この録音を初めて聴いた人々の衝撃を想像することはかなり困難となっています。何故ならば、この録音の持っている歴史的意義を得々と説明されたとしても、多様性を極める今日のバッハ演奏の洗礼を浴びている耳には数ある解釈の一つぐらいにしか感じられないからです。それほどに今日のバッハ演奏は多様を極めています。

クラシック音楽を聞くのに「蘊蓄」は必要なのか?と言うことはよく論議の対象となります。音楽を聞くのにそんなものはいらないよ!というのが多数派となることが多い議論なのですが、そして、ユング君もそれでいいんだろうと思うのですが、このような「歴史的意義」を再確認する必要がある演奏となると、時には幾ばくかの「蘊蓄」も必要かもしれないとも思ってしまいます。

このグールドによるゴルドベルグ変奏曲の演奏が持っている最大の意義は、バッハ演奏における多様性の扉を開いたことにあります。何しろ、バッハの鍵盤楽器による作品と言えばピアノではなくてチェンバロで演奏するものだとされていた時代です。さらに、新即物主義の波の中でバッハをロマン主義的に演奏することは時代遅れのものになり、その反動として主観的な解釈を排した厳格な演奏が主流をなしていた時代です。
そういう時代のまっただ中に、ピアノを使って各声部をくっきりと浮かび上がらせる(スタッカートかと思うほどのノンレガート奏法〜グールドはピアノでバッハを演奏することはパワステのついてない車で曲がりくねった道を運転するようなものだ、と語っていました)ことによって、この上もなく軽やかに演奏しきったのがグールドでした。バッハの演奏とはこういうものだという決めごと〜演奏者の主観を排して厳格に演奏するものだ〜から軽やかに飛翔し、己の信ずるバッハ像を鮮やかに描き出したのですからその驚きは大変なものだったはずです。さらに、その描き出した「主観的なバッハ像」は、一昔前のランドフスカなどによる伝統的な演奏と比べてみても違いは一目瞭然であり、まさに新しい時代に相応しい新しいバッハ像でした。

よく知られてるように、グールドは50年の人生の最後にもう一度この作品を録音しています。一般的にそちらの方がグールドの代表的な演奏として出回っていますが、今回この録音をアップするために両方を聞き比べてみました。もちろん、どちらの方がすぐれているか?などと言う愚かしい比較をするためではなくて、グールドと言う20世紀を代表するピアニストの出発点と終着点を聞き届けてみたかったからです。
聴いてみてすぐに気づいたことは55年盤の方が実に活きのいい勢いのある演奏であるに対して、81年盤の方は、テンポが遅いと言うことも大きく左右しているのかもしれませんが、実に考え抜かれた演奏であると言うことです。しかし、考え抜いた演奏は必ずしも若いときの怖いもの知らずの演奏に勝るとは言えないことにも気づかされました。
そう言えば、作家が言いたいことのすべては処女作品につまっているという話を聞いたこともあります。事情は音楽の演奏においても同じなのかもしれません。そして、若いときはその「言いたいこと」を実にストレートに発言することで時には歴史の一局面を変えるほどの力を持つこともありますが、その同じ人物がその晩年において同じ主題をさらに念入りに完成させて発言したとしても、歴史はすでにそれよりも前に進んでいると言う、ある意味では「残酷な現実」に出会うことになります。

確かに、81年盤の演奏はバッハに対するグールドの考え方というものを尤も念入りに考え抜いて実現したものです。その徹底性に感心はするのですが、それでも衝撃を受けることはありません。何故ならば、グールド自身によって四半世紀前に開かれた多様性の扉は、グールド自身の思惑をこえて広く深く発展していったからです。ですから、81年盤のグールドの演奏もまた大いに感心はさせられるのですが、所詮は数あるバッハ解釈の一つという範疇に留まらざるを得ません。
その意味で、時代との関わりで大きな力を持った55年盤と、その様な力はすでに持たなくなった81年盤ではその存在意義という点ではかけ離れています。しかし、グールドという稀代のピアニストに関心を寄せる人々にとっては、彼のバッハ演奏に対するアプローチをとことんまで練り上げて完成させた81年盤を私たちが持つことができたことは、このうえもない幸運だったことは確かです。

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