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ベートーベン:交響曲第4番 変ロ長調 作品60(Beethoven:Symphony No.4 in Bflat major ,Op.60)

ジョルジュ・ジョルジェスク指揮 ブカレスト・ジョルジェ・エネスク・フィルハーモニー管弦楽団 1962年1月録音(George Georgescu:Bucharest George Enescu Philharmonic Orchestra Recorded on January, 1962)

Beethoven:Symphony No.4 in Bflat major , Op.60 [1.Adagio; Allegro Vivace]

Beethoven:Symphony No.4 in Bflat major , Op.60 [2.Adagio]

Beethoven:Symphony No.4 in Bflat major , Op.60 [3.Menuetto; Allegro Vivace; Trio]

Beethoven:Symphony No.4 in Bflat major , Op.60 [4.Allegro Ma Non Troppo]


このギリシャの乙女は、その柔和でたおやかな外見に反して意外と強い芯を持った女性なのです

ベートーベンは第3番の「エロイカ」で、交響曲という形式を、それまでの誰もが考えなかったような巨大な構築物に変貌させました。しかし、それを引き継いでより巨大な作品を書くことはありませんでした。
ベートーベンが交響曲の世界で「エロイカ」を上回るような巨大な作品に取り組んだのは最後の「第9」だけでした。

「エロイカ」の中にあらわれていたのは、自らが求めるものを実現するためにはいかなる規則や常識にとらわれないという強靱にして強烈なエネルギーの迸りでした。
このほとばしるようなエネルギーに身をゆだねていれば、彼はもしかしたらベートーベンではなくてベルリオーズになっていたのかもしれません。

ベルリオーズの幻想交響曲のことを、ベートーベンのすぐ横にこれがたたずんでいることに驚きを感じると書いたことがあるのですが、落ちついて考えてみれば、「エロイカ」に内包されていたエネルギーをそのまま飼い慣らしていれば、それはシームレスにベルリオーズの妄想の爆発と歯止めのない巨大化の道に進んでいったはずです。

しかし、ベートーベンは外に向かってエネルギーを爆発させた後に、一転して収縮します。
その収縮によって生み出されたのが、「北方の巨人にはさまれたギリシャの乙女」と称された第4番の交響曲でした。

おそらく、その点にこそ、ベートーベンの他にはない偉大さがあらわれていると思われるので、そのあたりについて少しばかり詳しく考えてみたいと思います。

この交響曲は、その成り立ちからして興味をひかれます。

「エロイカ」は1803年から1804年にかけて作曲されています。1805年4月の公式な初演では多くの聴衆は戸惑いをみせたのですが、その音楽が持つ革命的な真価はすみやかに認識されていったようです。
そして、ベートーベンは「エロイカ」を完成させた後に、すぐさま新しい交響曲に取り組みはじめるのですが、それは第4番の交響曲ではなくて、後に第5番となる交響曲の方でした。

最近の研究によると、この第5番のスケッチはすでに「エロイカ」を作曲していた1803年に認められるそうです。そして、「エロイカ」を完成させた後に本格的に作曲の筆を進めていることが残された草稿帳からはっきりと窺うことが出来ます。
ところが、おそらく1805年に、ベートーベンはその創作の筆を一時ストップさせて、全く新しい交響曲を書き始めるのです。
それが、この第4番の交響曲だったのです。

この交響曲の作曲過程に関しては創作の過程を跡づけるスケッチ帳が保存されていないので、詳しいことはよく分かっていないようです。
ただし、複数の作品を同時並行で構想して筆を進めるというベートーベンのスタイルを考えれば、これに先立って構想された第5番にかかわる草稿帳の中に第4番の交響曲にかかわるスケッチが含まれていてもおかしくないのですが、不思議なことにその草稿帳の中にはこの交響曲にかかわるスケッチは一切含まれていないのです。

この第5番にかかわる草稿帳は1805年まで使われたことが分かっていますから、第4番に関しては1806年になってから取り組んだことは間違いないようです。
そして、残された手紙などから推測すると、1806年の夏頃から創作に取りかかり、11月の初め頃には完成させたようなのです。場合によっては2ヶ月、長くても3ヶ月程度で一気に完成させたことが窺われます。

これは、なんでもないスケッチから労作を重ね、念入りに時間をかけて仕上げていくのを常とするベートーベンの創作スタイルから考えると異例なことだと言えます。

「エロイカ」の後に「運命」がくるというのは、物事は直線的に進歩していくという「進化論的立場」に立つならば実に分かりやすく、そして納得もしやすい構図です。
しかし、現実には、ベートーベンはその様な「分かりやすい構図」ではなくて、それを断ち切るように作曲の筆を止めて、全く新しい「簡潔」な交響曲を一気に書き上げたのです。

その背景として、かつては「不滅の恋人」の存在をあげ、その幸福感に包まれた恋愛感情にとって「ハ短調」の「運命」は相応しくないので、柔和でロマン的な雰囲気が漂う交響曲を新たに書き始めたと説明されてきました。
さすがに、その様な個人的感情と創作を結びつけて解説することに賛同する人は今となっては殆どいないでしょうが、まあ、一昔前は、ベートーベン理解においてこの「不滅の恋人」は大きな意味を持ったようなのです。

もしくは、「エロイカ」という革命的な作品の次に、ある意味ではさらに革命的な「運命」を発表したのでは聴衆はついてこれないだろうから、営業的に受け入れられやすい作品を間に挟んだという話がまことしやかに語られたことがありました。結構名のある評論家もそう言うことを書いていたそうなので、いい加減といえばいい加減な話です。
最初にも少しふれたのですが、確かに「エロイカ」の初演では多くの聴衆は戸惑いをみせたのですが、その作品の真価はすみやかに認知されていったのです。

おそらく、この「収縮」にはそのような下世話な営業上の話や、「不滅の恋人」などという私生活にかかわる問題ではなくて、エネルギーのほとばしりを野放しにする事への警戒心が生まれたのだと思われます。

確かに、ベートーベンは音楽に「革命」をもたらしたことは事実ですが、彼が真に偉大なのは、その「革命」を「既存の秩序」の中におさめきろうとするぎりぎりの試みを最後まで放棄しなかったことです。
このぎりぎりのところにおける「せめぎ合い」の中で音楽を生み出していったところにこそベートーベンの凄さがあったのです。

そう思って、この第4番の交響曲を「エロイカ」と「運命」という北方の巨人の間においてみると、それは簡潔にして柔和に見えながら、彼が新しいチャレンジの中で見いだした試みの中で、何が古典的均衡の中で無理なくおさまるものかを模索したように見えるのです。
驚かされるのは、「エロイカ」によって膨張した楽器編成が縮小するのは当然だとしても、それ以前の第1番や2番の交響曲と較べてもフルートが一つ少なくなっているのです。

しかしながら、ここでは「エロイカ」によって優勢となった管楽器の役割はそのまま踏襲されています。
特にクラリネットには数多くの魅力的な独奏が用意されており、さらにはファゴットとのコンビでカノン的に進行する場面なども登場します。
弦楽合奏を基本として、そこに管楽器がアクセントをつけるだけにしかすぎなかったオーケストラの姿はここにはありません。

ただし、冒頭の序奏において弦楽器がユニゾンで分厚い響きを聞かせる部分では、管楽器優勢にふれた「エロイカ」からの揺れ戻しを感じたりもします。

そして、興味深いのは、その冒頭の序奏は何気ないムード的な音楽のように聞こえながら、そこには第1楽章の主題を構成する要素が含まれていることです。そして、その静かで長い序奏部から燦然たる光の世界に飛び出す部分でのデュナーミクの拡大は、まさに彼が獲得した新しい手法の見事な適用です。

また、緩徐楽章としての第2楽章の長さは、交響曲全体の比率から言えば第9のアダージョよりも長くなっています。そして、ともすればファースト・ヴァイオリンの美しい流れるような旋律やクラリネットの憧れに満ちた響きに耳が奪われるのですが、セカンド・ヴァイオリンが演奏し続ける伴奏の音型がこの楽章の重要な要素になっていることも、彼が獲得した新しい試みの適用でしょう。

それは、続く第3楽章にもあてはまります。
この「Allegro vivace」としか書かれていない楽章は明らかに「メヌエット」ではなくて「スケルツォ」です。
ただし、その中間のトリオの部分は流麗で美しく、メヌエット的な雰囲気を残していますので、それを中途半端とか先祖帰りと見ることも可能なのです。

しかし、20小節から同じ音型が3度繰り返される場面でコントラバスが延々と沈黙を続けるのは独特な効果をもたらしていますし、トリオに入る前に、低弦楽器と管楽器群が同じ旋律を交互に演奏する部分もユニークな効果を生み出していて、何気ない仕掛けですが注目に値します。
つまりは、この交響曲は古典的で簡潔な、それ故に「エロイカ」から見れば先祖帰りしたような作品に見えるのですが、それは決して1番や2番のような作品に舞い戻ったわけではないのです。

それは、最終楽章においても顕著で、そこでは明らかに第1主題が徹底的に活用されていて、その構成単位を積み重ねていくことで陽気で快活に終わるだけのロンドから抜け出しています。

ベートーベンは「エロイカ」の最終楽章における圧倒的な盛り上がりによって、音楽がもはや一部の限られた特権階級に奉仕するものではなく、自由な市民のための音楽になったことを宣言しました。
ベートーベンの音楽における圧倒的なフィナーレは、それは一つの解決として存在するのではなくて、疑いもなく新しい世界への扉を開けるものに転化したのです。

そして、その事が古典的均衡の中においても可能であることをこの交響曲において示してみせたのです。

そして、あの凝縮した第5番の圧倒的なフィナーレに到達するためには、「エロイカ」で試みた営みをもう一度古典的均衡の中で問い直してみる必要があった事に気づかされるのです。
ですから、このギリシャの乙女は、その柔和でたおやかな外見に反して意外と強い芯を持った女性なのです。


聞けば聞くほど味わいが深くなるベートーベンです

「ジョルジュ・ジョルジェスク」と言われて知っている人ってどれほどいるのでしょうか。私も、このベートーベンの録音で初めて出会いました。
そして、驚いたのは、めぼしい録音はこのベートーベンの交響曲全集くらいしかないということです。
これは考えてみれば不思議な話です。この業界でベートーベンの交響曲を録音できるというのは一つのステータスです。あまり触れたくないのですが、日本人の指揮者で世界的に名が通っていても、ベートーベンの交響曲の録音がオファーされるということは滅多にありません。ですから、残っているめぼしい録音がベートーベンの交響曲全集くらいしかないというのは普通はあり得ないのです。

調べてみればルーマニアの指揮者がルーマニアのオーケストラと録音したということなので、岩城宏之がN響とベートーヴェンの交響曲を全曲録音したようなものなのかとも思ったのですが、どうやらそういう類のものでもないようです。
実際にその録音を聞いてみれば、なかなかすっきりとしたベートーベンなので気持ちよく聞くことができました。もちろん、岩城宏之とN響が駄目だと言っているわけではないのでお間違いのないように。

ジョルジェスクはリヒャルト・シュトラウスに見いだされ、アルトゥール・ニキシュに学び、トスカニーニとの親交によってその名を世界に知られるようになった指揮者です。そういう経歴からおおむね想像がつくのですが、図式的に割り切れば原典に忠実な新即物主義の演奏ということになります。なかなかすっきりとしたベートーベンだと言ったのはそういう一面を表したものです。しかし、それは楽譜を忠実になぞっただけのつまらない演奏ではありません。

何よりも魅力的なのは何とも言えない間のとり方や歌わせ方です。
彼の歌わせ方は細部に至るまで入念なのですが「あざとさ」は一切ありません。
それ故に、その歌や間のとり方が多くの人にすっきりと受け入れられるのだと思われます。その背景には彼の音楽家としてのキャリアがチェリストとして始まっていることが大きく寄与しているのでしょう。

そして、全体の造形はどこまでも端正で、重くもなく鈍くもなく、引き締まったたたずまいが崩れることはありません。
一見すれば思わず身を乗り出すような特徴のある表現はないのですが、聞けば聞くほどにその歌にはまっていきます。

それから、もう一つ面白いのは最後の第9です。
ソリストも合唱もすべて変なのです。なんじゃこれ…と思ったのですが、どうやら全員がルーマニア語で歌っているのです。
「なんじゃこれ!!」という第9なのですが、「第9なんて聞きあきた!」という向きにはいささか面白く聞けるのではないでしょうか。

ということで、ジョルジュ・ジョルジェスクという指揮者についてもう少し知りたいと思ったのですが、日本語の情報はほとんどありません。それはもう、知る人ぞ知るともも言えないほどの無名ぶりです。
しかし、英語版のウィキペディアなどではかなり詳しく記述されているので、それなりに彼の人生とキャリアについて知ることができました。
そして、彼の人生を知ってみると、月並みな言い方ですが、人生には三つの坂があるという言葉がぴったりなのです。
三つの坂とは、今更なのですが、「上り坂と下り坂」、そしてもう一つは「まさか」という坂です。

ということで、掻い摘んでジョルジェスクの生涯をふりかえってみます。
ここから下はは興味のある方だけお読みください。


ジョルジェスクは1887年9月12日、ルーマニアのトゥルチャ県で生まれました。
彼の音楽家としてのキャリアはチェロ奏者として始まるのですが、そのきっかけは、父親がくじ引きで当てたバイオリンをチェロのように脚の間に挟んで弾き始めた事だというので、笑ってしまいます。

最初はバイオリンのレッスンを始めるのですが、最初からバイオリンを脚の間に挟んで弾き始めたくらいですから、当然のようにチェロに興味を持つようになっていきました。
そして、18歳でブカレスト音楽院に入学します。
父親は彼が音楽を学ぶことに否定的だったために経済的な支援を得られず、教会の聖歌隊で歌ったり、オペレッタのオーケストラで演奏や指揮をしたりして生計を立てたようです。この多様な経験が後年に役立ったのかもしれません。

ブカレスト音楽院を卒業すると、ベルリンで学ぶための奨学金を得てベルリン音楽大学で著名なチェリスト、フーゴ・ベッカーに師事します。
そして、1910年には師であったベッカーにかわってマルトー四重奏団のチェロ奏者に就任しプロとしてのキャリをスタートさせることになりました。

しかし、転機は突然やってきます。一つめの「まさか」です。
第一次世界大戦末期に彼は敵国人としてベルリンで一時抑留され、さらには1916年の演奏旅行の途中に列車のドアに当たってしまい、その怪我によってチェロの演奏ができなくなってしまったのです。

ただし、転機というのですから、それで彼のキャリアが終わったのではなく、新たな幕が開くことになります。これもまた「まさか」でしょうか。

なんと、彼の才能を惜しんだリヒャルト・シュトラウスが指揮者への転身を勧めたのです。そして、勧めるだけでなくアルトゥール・ニキシュと引き合わせ、指揮法を学ぶことになったのです。
そして、1918年2月15日にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮して、指揮者としてキャリアをスタートさせたのですから驚いてしまいます。

その後、故国ルーマニアに戻りブカレスト・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者に就任します。ブカレスト・フィルとの関係は、その後いろいろなことがありながらも生涯続くことになります。
そして、このブカレスト・フィルを拠点としながら活動を世界へと広げていきました。
手の怪我がなく、チェリストとして活動していたならばこういう飛躍はなかったでしょうから、人の運というか運命というか、不思議なものです。

この海外での活動で特に重要だったのはフランスとアメリカだったようです。
フランスへは1921年に初めて演奏会を行って高いな評価を受け、1926年と1929年にも演奏会を行っています。
特に、1926年のパリ訪問では「フランス6人組」との交流を深め、フランス近代音楽への功績を称えてフランス政府からレジオンドヌール勲章を授与されています。

アメリカでの活動ではトスカニーニと親交を深めまし。そして、1926年にトスカニーニが健康上の理由でニューヨーク・フィルとの契約をキャンセルせざるを得なくなったときに、ジョルジェスクは数か月にわたってその指揮台に立つ事になったのです。全く無名の若い指揮者がトスカニーニの代役として指揮台にたち、その責任を十分に果たしたのですから、話題にならないほうが不思議です。
この成功によって世界的にはいまだ無名だったジョルジェスクはその名を多くの人々に知られることになり、その後20年にわたってヨーロッパ各地での演奏会を行う土台となったのです。

しかし、これもまた第2次世界大戦によって大きな転機を迎えます。ルーマニアがナチス・ドイツの同盟国として第二次世界大戦に参戦したのです。しかし、ジョルジェスクの国内外での活動を今まで通り行なわれ、ブカレスト・フィルを率いてナチス占領下の国々をも巡業して回ったのです。
しかし、「まさか」はいつも突然やってきます。

1944年にルーマニアが突如連合国側に寝返ったのです。
彼の運命は一気に暗転します。
彼のそれまでの音楽活動がナチスの文化・宣伝機関への協力だとしてルーマニアでの指揮活動を「終身」禁止されてしまい、ブカレスト・フィルからも追放されてしまいます。
ナチスとの関りによって運命を大きく変えられてしまった音楽家は数多くいるのですが、ジョルジェスクもまたそのような一人だったわけです。

そんなジョルジェスクが戦後のキャリアを再スタートさせたのは1947年のことでした。
友人であるジョルジェ・エネスクの仲介でルーマニア国立放送管弦楽団の指揮者に任命されたのです。さらに、モルドヴァ・フィルの指揮者も務め、プラハやキエフへでの指揮の依頼を受けるなど、国際的なキャリアも再スタートさせます。
そして、1953年にジルヴェストリがブカレスト・フィルの指揮者を辞任すると、ジョルジェスクが再びその指揮台に立つことになりました。

おそらくは政治的無知、無関心ゆえにナチスとかかわりを持っただけだったのでしょう。それに加えて指揮者としての能力もキャリアも十分だったのですから、誰もそういう復帰への道を怪しまなかったのかもしれません。
もっとも、本当のことはわかりませんが…。
しかし、友人であるエネスクがルーマニアが共産圏の支配下に入ったためにフランスに亡命し、1955年にパリで亡くなると、ブカレスト・フィルの名称をジョルジュ・エネスク・フィルハーモニー変更することを提案し、実現させています。
そういえば、録音嫌いとして知られていたジョルジェスクが珍しくも1942年に磁気テープという新しい媒体で録音をしているのですが、その時の曲目がエネスコの交響曲第1番と2曲のルーマニア狂詩曲でした。
ジョルジェスクとエネスクの深いつながりがうかがえます。そして、そういう人間的なつながりを大切にした人間であったことは間違いなかったようです。

ブカレスト・フィルに復帰してからは順調に活躍の場を広げていき、真偽のほどで定かではありませんが、プラハで彼の演奏を聴いたエフゲニー・ムラヴィンスキーが「ベートーヴェンとチャイコフスキーの第一人者」と絶賛した、という話も伝わっています。
そして、そういう順調な活動の頂点として、1961年から1962年にかけて手兵のブカレスト・ジョルジェ・エネスク・フィルハーモニー管弦楽団とベートーヴェンの交響曲を全曲録音したのでした。

ジョルジェスク最後のコンサートはジョルジュ・エネスク・フィルハーモニー管弦楽団を指揮し、ヴァイオリニストのクリスティアン・フェラスをゲストに迎えたプログラムでした。
そして、心臓発作の後遺症に悩まされていたジョルジェスクは1964年9月1日にブカレストの病院で亡くなりました。

心臓の持病も抱えていたので、いささか早すぎる死ではあったのですが本人とっては「まさか」ではなかったでしょう。

この演奏を評価してください。

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