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ビーチャム(Thomas Beecham)|ディーリアス:日没の歌
ディーリアス:日没の歌
トマス・ビーチャム指揮:ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団 (A)モーリーン・フォレスター (Br)ジョン・キャメロン ビーチャム合唱協会 1957年4月1日録音
Delius:Song of Sunset [1.A song of the setting sun]
Delius:Song of Sunset [2.Cease smiling, Dear! a little while be sad]
Delius:Song of Sunset [3.Pale amber sunlight falls across]
Delius:Song of Sunset [4.O Mors]
Delius:Song of Sunset [5.Exile]
Delius:Song of Sunset [6.In Spring]
Delius:Song of Sunset [7.I was not sorrowful, I could not weep]
Delius:Song of Sunset [8.Vitae summa]
田園での生活を生涯の憧れと感じるイギリス人の感性にマッチする音楽

イギリスは音楽を旺盛に消費する国でしたが、長きにわたって生産する国ではありませんでした。そんな長き欠落の時代に終止符を打った立役者がエルガーとディーリアスでした。
しかしながら、エルガーへの評価はすでに定まっていますが、ディーリアスに関してはイギリス以外ではいささか微妙です。それは、彼の音楽がいかにもイギリス的であることが理由なのかもしれません。
イギリス人はエルガーの音楽が退屈だと言われればもう少し我慢して聞いてくれれば理解してくれるはずだと説得はしても、ディーリアスが退屈だと言われれば苦笑するしかないと言われたものです。
ところが、そんなイギリス的なディーリアスなのですが、その生涯を眺めてみれば彼はほとんどイギリス以外で活動しているのです。
裕福な商人の息子として生まれたディーリアスは家業を継ぐことを期待されるのですが、そのたびに彼は父親の目を盗んでは仕事をさぼり音楽に没頭します。そして、ついにはアメリはフロリダのプランテーションにおくられるのですが、逆にそこで聞いた黒人音楽が本格的な作曲活動へと向かう情熱を決定的なものにしたのでした。
そして、遂に父親も彼に家業を継がせることを断念し、音楽の道に進むことを容認します。
しかし、その後もディーリアスは活動の拠点をドイツやフランスに据えて、イギリスに腰を落ち着けることはありませんでした。
彼の作品を最初に評価したのはドイツでした。しかし、その音楽はどこまでもイングランドの大地を思わせるような音楽でした。これは考えてみれば実に不思議な話であり、「ドイツの血筋を持ちフランスに居住した人物であるにもかかわらず、『イングランド』という言葉が思い浮かぶ」作曲家だと評されたこともありました。
そして、このイングランド的な音楽が結果としてイギリス人以外にはなかなか受け入れられない原因となっているのですから、不思議と言えば不思議な話です。そして、かんじんのイギリスに於いてこのイングランド的な音楽の価値に初めて気づいたのがビーチャムでした。
そして、その後もバルビローリやサージェントと言うそうそうたるメンバーが彼の音楽を積極的にコンサートで取り上げ、録音も行ってイギリスにおける地位は確固たるものとなりました。
ディーリアスの音楽の特徴を一言で言えば、響きも旋律もどこかふんわりとしてどこか焦点の定まらない雰囲気に包まれていて、有り体に言えばあまり「印象」に残りにくいと言えます。
彼が活躍した時代はバリバリ元気だった頃のバルトークや12音技法を駆使した新ウィーン楽派の音楽なんかが全盛期でしたから、その「印象」の薄さはどうにも心のどこかに引っ掛かる「尖った部分」が欠落した音楽だったとも言えます。
つまりは、ディーリスの音楽ときたら、何とも言えずまったりとした音楽が右から左へ流れていくだけなので、聞いていて気分は悪くないのですが、それは最初から最後まで何事も起こらなかった映画みたいな雰囲気なのです。
しかし、それこそが「イングランド」的なものなのでしょう。
正直言って、若い頃は聞く気もおこらなかったのですが、年を経るにつれてしだいにそう言う音楽にひかれるようになってきている自分に気がつきます。そして、そのまったり感こそが田園での生活を生涯の憧れと感じるイギリス人の感性にマッチするのでしょうし、同時に兼好法師の隠遁生活に憧れる日本人の古い感覚にもあうのかもしれません。
私も、もう少し彼の作品を積極的に聞いてみようかと思います。
ディーリアス:日没の歌
この作品はイギリスの詩人アーネスト・ダウスンの作品をもとにして書かれたオーケストラ伴奏付きの合唱曲です。
アーネスト・ダウスンは実にもって悲劇的な人生をおくった人物で、失恋、病、そして相次ぐ母と父の自殺という悲劇によって酒に溺れ、わずか32才でこの世を去っています。しかし、そのような人生をおくったアーネスト・ダウスンの詩は悲劇というものが持つある種の甘美さを身にまとっています。
たとえば、
長くはつづかない、涙と笑い、
愛と、望みと、憎しみ
これらも、あお門を行き過ぎると
われらの心に跡形も残らない
葡萄酒と薔薇の日々も、そう長くは続かない
霧立ち込める夢の中から、我らが道はふとあらわれ、
また隠れる、夢、まぼろしのうちに
のように。
しかし、ディーリアスはそう言う甘美さからは距離をおいて、どこか醒めた感覚で音楽を綴っています。
それ故に際だった旋律も響きもなく、音楽は浮かび上がっては消えていき、また新しい響きが浮かび上がり、そして最後は静かに日が沈みいくように消えていきます。
何かがが心に残りそうでいて、そして何かが心に分け入ってくるようでいて、それでも最後には全てのものが夕闇の中に没していくような音楽です。
本当のレクイエムとはこのような音楽のことを言うのかもしれません。
なお、全体は以下の8つの部分に分かれるのですが、音楽自体は切れ目なく演奏されます。
- 沈みゆく夕陽の歌
- 微笑みをやめよ、いとしい人よ
- 淡い琥珀色の陽の光は
- 果てしない悲しみ
- 哀しい別離の海のほとり
- 身よ、いかに木立と
- 悲しみに暮れていうというのでもなく
- 長くはつづかない、涙と笑い
唯一、ディーリアスと一体化できた指揮者
「イギリスの生んだ最後の偉大な変人」と呼ばれたビーチャムがいなければ、おそらくディーリアスという作曲家は存在しなかったでしょう。
かつて、ロベルト・カヤヌスをベリウス演奏の「原点(origin)」と書いたことがあるのですが、ビーチャムとディーリアスの関係はそれ以上のものがあります。
ディーリアスの音楽を一番最初に見いだしたのはイギリスではなくてドイツでした。しかし、イギリスにおいて彼の音楽を広く知らしめた功績はビーチャムにこそ帰せられます。彼がディーリアスの音楽に初めて接したのは1907年のことですが、それにすっかり魅了されたビーチャムはその翌年から彼の作品を頻繁に取り上げます。
そして、ディーリアス畢生の大作とも言うべき「人生のミサ」を初めて全曲演奏したのもビーチャムであり、1909年のことでした。
おそらく、この頃から両者は良好な関係を築いていくのですが、おそらくその根っこにはどちらも金持ちの息子という共通点があったことも大きく関わっていたのかもしれません。やがて、ビーチャムは己の音楽観からして不十分だと思う点があれば、ディーリアスの作品を勝手に編曲しはじめます。
いわゆる「ビーチャム版」と呼ばれているのですが、そう言うビーチャムの行為にディーリアスは一切の文句をつけなかったのです。かといって、そう言う行為にディーリアスが無頓着だったのではなくて、逆に他の作曲家よりも自作に手の入れられることを嫌っていたというのですから、この両者の信頼関係の深さは並々ならぬものだったようなのです。
ですから、このビーチャムが最晩年にまとめてステレオ録音した一連の演奏について、何らかの評価を下すことは不可能ですし、おそらく誤りであろうと言うべきでしょう。
それはカヤヌスがシベリウスのオリジンであった以上に、この演奏こそがあらゆるディーリアス演奏の基準点になっているからです。そして、その事をディーリアスもまた決して否定しないでしょう。
ディーリアスの音楽には外面的な視点が存在しない。自らの存在の奥底で彼の音楽に彼の音楽を感じるか、または何も感じないか、このどちらかしかない。ビーチャム氏の指揮する場合を除き、彼の作品の超一流の演奏に出会うことが滅多にないのは、一部にはこうした理由もあると思われる
まさに最高の讃辞ですが、まさにここで述べられている「ディーリアスの音楽には外面的な視点が存在しない。自らの存在の奥底で彼の音楽に彼の音楽を感じるか、または何も感じないか、このどちらかしかない」と言うことこそが演奏する方にとっても聞く方にとってももっとも大きな課題となるのでしょう。
そして、そのようなディーリアスに完全に一体となれたのは、おそらくビーチャム以外には存在しなかったと言い切ってもいいでしょう。
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よせられたコメント
2023-02-09:大和田保臣
- 私も年を経てから、ディーリアスを聴き始めたものの一人です。
もっともビーチャムとバルビローリのCDは、ずっと以前に買ったものを聴かずして放置していたのですが、聴き始めたきっかけとなったのは、「フェンビー・レガシー/ミュージック・オブ・ディーリアス」というユニコーンの2枚組のLPを入手したことです。その素晴らしさに改めてCDを聞き直した、というわけです。
うまく表現できませんが、聴いていて癒されることこの上なしです。