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ギーゼキング(Walter Gieseking)|ベートーベン:ピアノソナタ第8番「悲愴」
ベートーベン:ピアノソナタ第8番「悲愴」
ギーゼキング 1949年5月24日録音
beethoven:ピアノソナタ第8番「悲愴」「第1楽章」
beethoven:ピアノソナタ第8番「悲愴」「第2楽章」
beethoven:ピアノソナタ第8番「悲愴」「第3楽章」
これを若書きの作品といえばベートーベンに失礼かもしれません。
凡百の作曲家のピアノ作品と比べれば堂々たる音楽です。
しかし、中期・後期の傑作を知っているものには、やはりこのソナタは若書きの範疇に入らざるを得ません。
冒頭の一度聞いたら絶対に忘れることのない動機がこの楽章全体の基礎になっていることは明らかです。この動機をもとにした序奏部が10小節にわたって展開され、その後早いパッセージノ経過句をはさんで核心のソナタ部へ突入していきます。
悲愴、かつ幻想的な序奏部からソナタの核心へのこの一気の突入はきわめて印象的です。
その後、この動機は展開部やコーダの部分で繰り返しあらわれますが、それが結果としてある種の悲壮感が楽章全体をおおうこととなります。
それがベートーベン自身がこの作品に「悲愴」という表題をつけたゆえんです。
しかし、ここに聞ける悲壮感は後期の作品に聞ける、心の奥底を揺さぶるような性質のものではありません。
長い人生を生きたものが苦さと諦観の彼方に吐き出す悲しみではなく、それはあくまでも若者が持つところの悲壮感です。
ならば、それは後期の一連の作品と比べれば劣るのかと言われれば、答えはイエスであると同時にノーです。
なぜなら、後期のベートーベンの作品は後期のベートーベンにしか書けなかったように、この作品もまた若きベートーベンにしか書けない作品です。
年を重ねた人間にはかけない音楽です。
そして、重い主題を背負った音楽ばかり聞くというのはしんどいことです。時には、悲壮感のなかに甘さをたっぷりと含みながらも、若者らしい瑞々しさを失わない音楽もいいものです。
それに、ユング君には無理ですが、この作品はベートーベンのピアノソナタのなかでは演奏が最も優しい部類に属します。
ある程度ピアノが弾ける人なら、過ぎ去りし青春の日々に思いを馳せながら演奏してみるのも楽しいのではないでしょうか。
(ユング君もこれぐらいの曲が弾けるようになればいいなといつも思っているのですが、道は遠いです。)
第1楽章
クラーヴェ(4分の4拍子)−アレグロ・ディ・モルト・エ・コン・ブリオ ハ短調 2分の2拍子 ソナタ形式
第2楽章
アダージョ・カンタービレ 変イ長調 4分の2拍子 3部形式
ベートーベンが書いたもっとも優れた音楽の一つ、と言って過言はないでしょう。今までの緩徐楽章も申し分なく美しい音楽でしたが、ここではその美しさが一種の祈りにもにた形へと昇華されています。
第3楽章
アレグロ ハ短調 2分の2拍子 ロンド形式
「かろみ」の世界
49年から50年にかけてベートーベンのピアノソナタをまとめて録音しながら、4・5・7番と20・22番の5曲だけは録音されずに残されてしまいました。この少し後にモーツァルトのピアノソナタは全曲録音して全集として完成させているわけですから、このベートーベンに関しても「全集」として完成させることへの意欲はなかったとは思えません。20番と22番に関しては演奏する気になれなかったというのなら理解できないことはないのですが、4・5・7番に関してはベートーベンの初期を代表する重要な作品ですから、この欠落の仕方は実に不思議です。
全くの想像ですが、おそらくは芸術上の問題ではなくてビジネス上の問題として打ち切られた可能性が高いように思われます。(あくまでも、私の想像ですが・・・)
その結果として、モーツァルトのピアノソナタ全集は20世紀におけるモーツァルト演奏の一つのスタンダードとして今もって現役盤としてカタログを飾り続けていますが、ベートーベンのこれら一連の録音は長く忘却の彼方に追いやられていました。おかげで、マスターテープの保存状態もあまりよろしくなかったようで、音質的にもいまいち冴えません。ギーゼキングにわずかに遅れて(50〜54年)、バックハウスがベートーベンのピアノソナタを全曲録音しているのですが、それと比べてみれば音質の違いは歴然としています。
バックハウスの録音は全集として完成し、さらに音質的にもモノラルの極上とは言えないまでも十分に音楽として楽しめるクオリティをもっていたのに対して、ギーゼキングの方は中途半端な形で放置されたままに、音質的にもパッとしません。結果として、スタンダードとしての地位を獲得したのがバックハウスであったことは仕方のないことです。
しかし、今ひとつさえない録音であるにも関わらず、ギーゼキング特有のクリアな音色は感じ取ることができます。一度魅了されれば麻薬のように人を虜にするあの魅力の香りはスポイルされていません。
さらに、バックハウスなどとは全く違う作品の作り方は実に魅力的です。
実はこういう言い方はあまりにも曖昧で注意しなければいけないのですが、いわゆるバックハウスなどに代表される「ドイツ精神主義」的な演奏とは全く異なったポジションからアプローチされた演奏です。その結果として、彼の演奏からは「重さ」ではなくて「軽さ」を感じます。イヤ。「軽さ」などと表現すれば「チープ」もしくは「プア」と混同されかねませんから、和語の「かろみ」と言い換えた方がいいかもしれません。
彼の演奏でベートーベンを聞くと、ベートーベンという偶像にまとわりついていた一切のしがらみから切り離されて、ふわりと空中に浮遊するような自由な感覚を楽しむことができます。それでいながら、作品のエッジは常に明瞭で一切の曖昧さとは無縁ですし、内部の見通しも極上の透明感を保持しています。
ギーゼキングは「ノイエ ザハリヒカイト(新即物主義)」の旗手といわれてきました。本人はこの「ノイエ ザハリヒカイト」といういわれ方はあまりお好きではなかったようですが、この一連のベートーベン演奏を聴くと「ノイエ ザハリヒカイト」の本当に正しい姿が提示されているように思えてなりません。
それは、ただ楽譜に忠実にばりばり弾きまくることではなくて、「楽譜に忠実に、そして作曲者の御心にそうように(^^;、己の想像力を最大限に活用して作品をもう一度クリアに再構築」することであったはずです。昨今の楽譜に忠実なだけの演奏がつまらないのは、作品を再構築する演奏者の「想像力」が欠落しているからです。
その様にとらえれば、バックハウスとギーゼキングの違いは両者のベートーベンに対する「想像力」の違いだということになります。そして、その様な様々な想像力を許容するところに作品の偉大さがあるのだということにも気づかされます。
ベートーベンのスタンダードとしてのバックハウスもいいのですが、時にはギーゼキングの「かろみ」の世界に遊んでみるものいいのではないでしょうか。
<追記>
8番「悲愴」・14番「月光」という有名どころがとりわけ音質が冴えないようです。ちょっと残念です。
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