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モーツァルト:ピアノ協奏曲第12番 イ長調 k.414(387a)

(P)リリー・クラウス:スティーヴン・サイモン指揮 ウィーン音楽祭管弦楽団 1965年5月5日~6日録音



Mozart:Concerto No. 12 In A Major For Piano And Ochestra, K. 414 [1.Allegro]

Mozart:Concerto No. 12 In A Major For Piano And Ochestra, K. 414 [2.Andante]

Mozart:Concerto No. 12 In A Major For Piano And Ochestra, K. 414 [3.Allegretto]


自ら企画したコンサートのために作曲された作品

ピアノ協奏曲第12番 イ長調 k.414(387a)

モーツァルトがザルツブルグの大司教であるコロレードと決定的な対立を引き起こし、ついにはその宮廷を去ってうぃーでの自由な音楽家としての道を選択したのは1781年のことでした。しかし、一見すると無謀とも燃えるそのチャレンジにはそれなりの成算もあったようなのです。
何故ならば、当時のウィーンはハプスブルク帝国の首都と言うだけでなく、その周辺のハンガリーやチェコ、ドイツ、イタリア、ロシアというような重要な国々から見ても重要な経済、文化、そして政治的な中心地でもあったからです。ですから、それらの国々の貴族達はウィーンにも住居を構え、その家族もまた多く住んでいたのです。
そして、その貴族達の多くは高い音楽的教養を身につけていて、ウィーン滞在中は多くの「良い音楽」を求めていたのでした。

モーツァルトも最初はその様な貴族の子女のためにピアノを教えて生計を維持していたのですが、やがて幾つかのヴァイオリン・ソナタの楽譜が出版されるようになり、さらに自ら企画したコンサートを行うようになっていきます。そして、そのコンサートの目玉は何といってもピアノ協奏曲でした。
このK.413~K.415までの3曲は、1784年の四旬節のコンサート・シリーズのために用意されたもので、それは彼にとって初めての予約演奏会であり、その成功は彼に大きな収入と自信を与えました。この時の演奏会を予約したのは残された記録によると174名であり、その半数は最上流階級の人々であり、残りの大部分は金銭で称号を買った下流貴族でした。いわゆる市民階級と呼ばれる中産階級からの予約は1割にも満たなかったようです。

この聴衆の構成が後のモーツァルトの没落をまねくことになるのですが、それはまたその時に詳しくふれたいと思います。
とにかく、このコンサートを成功させた頃のモーツァルトはまさに人気の絶頂をむかえた頃であり、ザルツブルグ時代とは比べものにならないほどの収入を彼にもたらしたのです。

まさに、 アインシュタインが述べたように「モーツァルトはヴィーン人の趣味をぴったりと射当てた」のです。
また、もう一つ注目すべき点は、モーツァルトは演奏会場に合わせて弦四部だけでも演奏可能であるように作っているということです。この点についてアインシュタインは次のように語っています。

モーツァルトがこれらのコンチェルトの演奏に容認した二つの可能性、すなわちオーボエとホルンを持つ完全なオーケストラを伴う場合と、弦楽四重奏のみを伴う場合との二つがあるということは、それだけですでにここでは「大きな」コンチェルトが問題にならないことを示している。
管楽器は重要でなく、弦楽器だけですでに十分表現するもの以外はなにも表現できない。
管楽器は色合をつけるか、またはリズムを強調する機能しか持たない。 ピアニストはこれら三曲を弦楽四重奏の伴奏によって、室内で非常に立派に演奏することができる。


つまりは、最上流階級のに属するような音楽通たちと、そこまでの教養に恵まれない人々との間にあるギャップを埋めるために、専用の演奏会場でフル・オーケストラをバックにしたピアノ演奏という形式にこだわらなかったのです。
そして、弦楽4部だけでしか演奏できないような会場でも演奏できる作品になる事を想定していたのです。
つまりは、彼は既成の聞き手だけでなく、全く新しい聴衆を作り出す事も念頭に置いていたのです。しかし、その試みは、時代背景としては少し早すぎたために十分に実を結ばなかったのですが、モーツァルトという音楽家を考えていく上では見過ごすことのできない事実だと思われます。

ウィーン時代前半のピアノコンチェルト



モーツァルトのウィーン時代は大変な浮き沈みを経験します。
そして、ピアノ協奏曲という彼にとっての最大の「売り」であるジャンルは、そのような浮き沈みを最も顕著に示すものとなりました。

この時代の作品をさらに細かく分けると3つのグループとそのどれにも属さない孤独な2作品に分けられるように見えます。
まず一つめは、モーツァルトがウィーンに出てきてすぐに計画した予約出版のために作曲された3作品です。番号でいうと11番から13番の協奏曲がそれに当たります。

  1. ピアノ協奏曲第12番 イ長調 k.414(387a):1782年秋に完成

  2. ピアノ協奏曲第11番 ヘ長調 k.413(387p):1783年初めに完成

  3. ピアノ協奏曲第13番 ハ長調 k.415(387b):1783年春に完成


このうち12番に関してはザルツブルグ時代に手がけられていたものだと考えられています。
他の2作品はウィーンでの初仕事として取り組んだ予約出版のために一から作曲された作品だろうと考えられています。

その証拠に彼は手紙の中で「予約出版のための作品がまだ2曲足りません」と書いているからです。そして「これらの協奏曲は難しすぎず易しすぎることもないちょうど中程度の」ものでないといけないとも書いています。
それでいながら「もちろん、空虚なものに陥ることはありません。そこかしこに通人だけに満足してもらえる部分があります」とも述べています。

まさに、新天地でやる気満々のモーツァルトの姿が浮かび上がってきます。
しかし、残念ながらこの予約出版は大失敗に終わりモーツァルトには借金しか残しませんでした。しかし、出版では上手くいかなかったものの、これらの作品は演奏会では大喝采をあび、モーツァルトを一躍ウィーンの寵児へと引き上げていきます。
83年3月23日に行われた皇帝臨席の演奏会では一晩で1600グルテンもの収入があったと伝えられています。
500グルテンあればウィーンで普通に暮らしていけたといわれますから、それは出版の失敗を帳消しにしてあまりあるものでした。

こうして、ウィーンでの売れっ子ピアニストとしての生活が始まり、その需要に応えるために次々と協奏曲が作られ行きます。いわゆる売れっ子ピアニストであるモーツァルトのための作品群が次に来るグループです。

  1. ピアノ協奏曲第14番 k.449:1784年2月9日完成

  2. ピアノ協奏曲第15番 変ロ長調番 k.450:1784年3月15日完成

  3. ピアノ協奏曲第16番 ニ長調 k.451:1784年3月22日完成

  4. ピアノ協奏曲第17番 ト長調 k.453:1784年4月12日完成

  5. ピアノ協奏曲第18番 変ロ長調 k.456:1784年9月30日完成

  6. ピアノ協奏曲第19番 ヘ長調「第2戴冠式」 k.459:1784年12月11日完成


1784年はモーツァルトの人気が絶頂にあった年で、予約演奏会の会員は174人に上り、大小取りまぜて様々な演奏会に引っ張りだこだった年となります。そして、そのような需要に応えるために次から次へとピアノ協奏曲が作曲されていきました。
また、このような状況はモーツァルトの中にプロの音楽家としての意識が芽生えさせたようで、彼はこの年からしっかりと自作品目録をつけるようになりました。

おかげで、これ以後の作品については完成した日付が確定できるようになりました。

なお、この6作品はモーツァルトが「大協奏曲」と名付けたために「六大協奏曲」と呼ばれることがあります。
しかし、モーツァルト自身は第14番のコンチェルトとそれ以後の5作品とをはっきり区別をつけていました。それは、14番の協奏曲はバルバラという女性のために書かれたアマチュア向けの作品であるのに対して、それ以後の作品ははっきりとプロのため作品として書かれているからです。

つまり、この14番も含めてそれ以前の作品にはアマとプロの境目が判然としないザルツブルグの社交界の雰囲気を前提としているのに対して、15番以降の作品はプロがその腕を披露し、その名人芸に拍手喝采するウィーンの社交界の雰囲気がはっきりと反映しているのです。
ですから、15番以降の作品にはアマチュアの弾き手に対する配慮は姿を消します。

そうでありながら、これらの作品群に対する評価は高くありませんでした。
実は、この後に来る作品群の評価があまりにも高いが故に、その陰に隠れてしまっているという側面もありますが、当時のウィーンの社交界の雰囲気に迎合しすぎた底の浅い作品という見方もされてきました。

しかし、最近はそのような見方が19世紀のロマン派好みのバイアスがかかりすぎた見方だとして次第に是正がされてきているように見えます。
オーケストラの響きが質量ともに拡張され、それを背景にピアノが華麗に明るく、また時には陰影に満ちた表情を見せる音楽は決して悪くはありません。


明るく華やかで無垢なモーツァルト

私の知人で、リリー・クラウスの最後の来日公演を聴いたことがあるという人がいます。彼の言によれば、その演奏会は惨憺たるもので二度と思い出したくもないような代物だったようです。
演奏家の引き際というものは難しいものです。

最近の例で言えば、見事な引き際を見せてくれたのがマリア・ジョアン・ピリスでした。わたしは幸運にもその引退コンサートの一つを大阪のシンフォニー・ホールで聴く機会を得たのですが、それは見事なベートーベン演奏でした。ステージに現れた姿は颯爽としており、彼女の指から紡ぎ出されるベートーベンの音楽は、わたしが生で聞いたベートーベンのピアノ・ソナタとしては最上のものの一つでした。
「演奏家」というのはどれほどの醜態をさらしても最後までステージにしがみつく種族ですから、その引き際の見事さはは希有なものだったと言えます。それは、彼女の言動を見れば、引退のきっかけが自らの演奏能力に対する疑問ではなくて、ビジネスとしてのクラシック音楽界のあり方への絶望感に起因してたからかもしれません。

二人の女性が歩いている。
若い女性は麗しい。
齢を重ねた女性はさらに麗しい。


話がいささかいらぬ方向にそれたのですが、このクラウスのコンチェルトの全集もまた、彼女のピアニストとしての衰えをはっきりと聞き取ることが出来ます。
それは、彼女が54年に録音したソナタの全集と聞き比べてみれば一目(一聴?)瞭然です。あのソナタ全集では、モーツァルトの音楽が持つ微妙なニュアンスが見事なまでに表現されていました。しかし、このコンチェルトの演奏では、そう言う微妙なニュアンスを表現しきる能力がすでに失われていることは明らかです。

しかしながら、それでは全体としてつまらぬ演奏なのかと言えばそうとも言いきれない部分があるので困ってしまうのです。
ここでのクラウスのピアノの響きに微妙で多彩な表情を求めることは出来ないのですが、逆に、驚くほど華やかで明るく、そしてチャーミングな響きで最初から最後まで貫徹しています。これは1番から27番まで一気に聞き通したので自信を持って言い切ることが出来ます。
おそらく己の能力を自覚した上で、それでもその限界の中で実現可能なモーツァルトの姿を探求した結果かもしれません。

そして、そう言う衰えたクラウスを必死でサポートしたのが指揮者のスティーヴン・サイモンでした。オーケストラの「ウィーン音楽祭管弦楽団」というのは怪しげな存在のように聞こえるのですが、その実態はウィーン交響楽団からの選抜メンバーであったことはすでに知られています。
ところが、どういう訳か、世間一般では衰えたクラウスを持ち上げて、逆にオーケストラ伴奏を批判する人が多いのです。
曰く、「響きが薄い」、曰く、「表情が平板に過ぎる」等々です。

しかし、そう言う批判は本当に的を射ているのでしょうか。
わたしには、指揮者であるサイモンがクラウスの衰えを敏感に感じとり、その衰えに最も相応しいやり方で伴奏を付けたがゆえに、明るく華やかで、そして無垢な姿のモーツァルトが実現したのではないかと考えます。

モーツァルトのピアノ協奏曲には19番と20番の間に大きな断層が存在していることがよく指摘されます。しかし、このコンビによる演奏で聞いてみれば、そこに大きな断層を聞き取ることは難しいかもしれません。そして、その事の責をオーケストラ伴奏に求めるのでしょうが、聞けばすぐに分かるようにクラウスのピアノにはロマン派好みのバイアスがかかったような微妙な陰影を描き出す能力はすでに失われています。
スティーヴン・サイモンにしてみれば、20番以降の作品群においても、それ以前と同じようなスタイルで伴奏を付けるしかなかったのです。

しかし、漏れ聞くところによると、そう言うサイモンのオーケストラ伴奏にクラウスはたびたび不満を申し立てていたようです。ということは、もしかしたら彼女は自らの「衰え」を自覚できていなかったのかもしれません。
もしも、このエピソードが事実ならば、それこそ「演奏家」という種族が陥らざるをえない「誤解」だと言わなければなりません。そして、それが「誤解」であったとすれば、その「誤解」を「美しき誤解」に仕立て直した功績はスティーヴン・サイモンとウィーン交響楽団からの選抜メンバーで構成された「ウィーン音楽祭管弦楽団」にこそあったのかもしれません。

そして、クラウスもこの辺りを潮時として第一線から身を引いていれば、彼女にも「齢を重ねた女性はさらに麗しい。」という言葉を捧げることができたのかもしれません。

<追記>
最初にも指摘したように、この時のクラウスのピアノの響きに微妙で多彩な表情を求めることは出来なくなっています。しかし逆に、驚くほど華やかで明るく、そしてチャーミングな響きで全ての協奏曲を最初から最後まで貫徹しています。
そして、その事を持ってこのクラウスの演奏を低く評価する向きもあるのですが、それは一面ではモーツァルトの作品をロマン派好みの視点から、言葉をかえればロマン的なバイアスがかかった視点で捉えようとすことから来る批判でもあります。そして、そん批判は、確かに20番咽喉の、つまりはモーツァルトが大きな飛躍を遂げた後の作品では認めざるを得ない批判かもしれません。

しかし、このような華やかなウィーンの社交界で人気を得ていた時代の作品に関しては、このようなクラウスの響きで紡ぎ出される音楽は決して悪くはありません。逆に、あまりにも濃厚な表情を付けすぎるよりはかえって好ましいと思われます。
もっとも、それはモーツァルトの作品からロマン派的なバイアスを排除しようとしたピリオド演奏的な要素から生まれたものではありません。
それは、疑いもなく隠しようもない衰えを自覚しながら、しかし、その衰えの中にあっても必死で己のモーツァルトの姿を模索した結果です。

ですから、最後にもう一度この言葉を彼女に捧げたいと思います。
二人の女性が歩いている。
若い女性は麗しい。
齢を重ねた女性はさらに麗しい。

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