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ベートーベン:ピアノソナタ第32番 ハ短調 作品111


(P)クラウディオ・アラウ 1965年10月録音


ピアノ作品の作曲には制約が多すぎる

ベートーベンのピアノ作品の最後を飾るのが一般的に「後期ソナタ」と呼ばれる3つのソナタです。


  1. ピアノソナタ第30番 ホ長調 作品109(1820年作曲)

  2. ピアノソナタ第31番 変イ長調 作品110(1821年作曲)

  3. ピアノソナタ第32番 ハ短調 作品111(1822年作曲)



最後のハ短調ソナタを作曲した後でもベートーベンには5年の歳月があったのですが、彼はピアノ作品の作曲には制約が多すぎると述べてこの分野から去ってしまいます。この言葉をどのように受け取るのかは難しいのですが、考えるきっかけとしては作品101のイ長調ソナタ(28番)と「ハンマークラヴィーア」と題された作品106の巨大なソナタ(29番)との関連性を見ればいいのかもしれません。

聞いてみれば分かるように、後期ソナタが持っているある種の幻想性に近いのはイ長調ソナタの方です。
それに対して、「ハンマークラヴィーア」の方はアダージョ楽章の深い幻想性に惑わされるのですが、音楽全体の形は「熱情」や「ワルトシュタイン」に通ずる構造を持っているように聞こえます。言葉は悪いかもしれませんが、作品101のイ長調ソナタから見れば、いささか「先祖帰り」したような作品になっています。
しかし、それは言葉をかえれば、ベートーベン自身にとって一度前に進み出した歩みを留めて過去の自分が辿ってきた道を総決算するような営みだったのかもしれないのです。そして、その総決算によってもう一度歩みを前に踏み出したのが、これらの後期ソナタだったと言えるのです。

だとすれば、いかにベートーベンといえども、3つの後期ソナタにおけるチャレンジはピアノという楽器を用いた音楽の一つの行き止まりだったはずです。
その、ある意味での「やりきった感」が「ピアノ作品の作曲には制約が多すぎる」という言葉になり、彼の創作活動の中心が弦楽四重奏曲の世界に収斂していったのでしょう。

その証拠に(と言うのもおかしないいかたですが)、これらのソナタは当時の聴衆にはなかなか受け入れられなかっただけでなく、その後1世紀にわたって広く受け入れられることはなかったのです。これらの音楽がコンサートのメインピースとなるのは20世紀になるのを待たなければならなかったのです。
そして、創作という分野においても、彼の中期の作品は多くの作曲家に影響を与えたのですが、この後期ソナタをかみ砕くことができた作曲家はほとんどいなかったのです。

その結果として、チャールズ・ローゼンはこれらの作品は「聞き手の積極的な参加」が求められる音楽だと述べています。つまりは、構造的に極めて複雑であり、ベートーベンが果敢に挑戦した実験的な営みを聞き分ける能力が聴衆に求められるということです。
言葉をかえれば、これらの作品はその幻想的な雰囲気に浸っているだけでも十分かもしれないのですが、もう少しベートーベンのチャレンジを聞き分けることができれば、より一層、これらの作品の凄さが分かると言うことなのでしょう。

ピアノソナタ第32番 ハ短調 作品111

ベートーベンの後期ソナタは聞き手に多くのものを要求するのですが、その中でももっとも要求する度合いが大きいのがこの最後の作品111のハ短調ソナタでしょう。
一般的には、この第1楽章において、誰もが成し遂げることができなかったソナタとフーガの融合が為されていることが指摘されるのですが、それではこの音楽を聞いてみて、その「融合」の何たるかを、さらに言えばその融合を成し遂げるためにベートーベンがどのような技術的労作を試みているのかを正確に聞き取れる人がどれほどいるのでしょうか。
いや、もっと言葉を継いでみれば、そう言うことをしっかりと意識をして演奏しているピアニストってどれほどいるのかな、とも思ってしまいます。

率直に言って、彼が第1楽章で成し遂げた労作の凄さは、そのあまりの複雑さゆえに私もよく分かりません。

フーガというのは基本的にポリフォニーの音楽であり、ソナタ形式はホモフォニーの音楽です。

ホモフォニックな音楽とは簡単にいってしまえば「伴奏と歌」で成り立っている音楽です。言うまでもなく「歌」が主であり「伴奏」が従です。
それに対して、ポリフォニックな音楽では全ての声部が平等であり、主役である「歌」と従者である「伴奏」には別れていません。

ポリフォニックな音楽のもっとも簡単な形が「カエルの歌」や「静かな湖畔」に代表される「輪唱」形式です。

これを3グループくらいに分けて歌うというのは小学生でも可能ですが、その3声が重なった部分をホモフォニックに見てみるととんでもなく複雑なことになっています。そして、言うまでもなく、この3グループ(3声)の間に何の上下関係も存在しません。
これをもう少し複雑にすると「カノン」になり、その究極の形が「フーガ」になるわけです。

「フーガ」とは最初に示された単純な主題をもとに、それを少しずつ形を変えながら積み上げていく形式です。積み上げていく声部が増えれば増えるほどとんでもなく複雑なことになっていくのですが、聞き手からしてみれば、どこまで行っても最初に示された主題が何度も繰り返されるので、音楽が見上げるような大伽藍になってしまってもその主題に出会うたびにほっと一息がつけます。

つまりは、「フーガ」というのは作る方にとっては大変な労力が求められるのですが、聞き手にとっては非常に親切で優しい形式なのです。
そして、その事はこのソナタにも言えて、聞いているととんでもなく複雑なことになっているような気はするのですが、第1主題の最初の音型が何度も帰ってくるので、聞き手はその複雑さに足をすくわれることなく安心して聞いていることができます。ですから、この楽章は聞いている方にとっては「フーガ」的に聞こえます。

しかし、ベートーベンはそこにソナタ形式というもう一つの形式を持ち込んでいるらしいのです。
ホモフォニックな音楽というのは今では耳に馴染みがあるので聞きやすいように思えます。しかし、ポピュラー音楽のように5分程度で終わる小品ならば「Aメロ」と「Bメロ」と「サビ」くらいでまとめることができます。しかし、このソナタのような長大な音楽になるとそれだけでは間が持ちません。
そこで、その長い時間を持たせるためには構造が必要となります。そんな構造の一つがソナタ形式です。第1主題と第2主題を用意してそれをあれこれ展開させ、最後に第1主題を帰ってこさせる・・・みたいな複雑な構造ですね(^^v。

つまりは、ホモフォニックな音楽というのは規模が大きくなると複雑な構造が必要となり、聞き手はその構造を把握していないと何をやっているのか分からなくなってしまうのです。
ですから、こういう音楽は聞き手に一定の訓練を要求します。そして、クラシック音楽が少なくない人に拒否される原因の一つがそこにあります。ですから、ベートーベンやブラームスはよく分かんないけどバッハなら楽しく聞けるという人がいるのですが、それは極めて正直な話だと思います。

そして、この第1楽章においてベートーベンが聞き手に要求しているのは、この基本的にフーガの姿をとりながらそれをソナタという形式にまとめ上げたところを聞き取ってほしいと言うことなのでしょう。
でも、そうなると、私も聞いていてよく分からないというのが正直なところなのです。
要は凡なだけですが。

それから、アリエッタと題された第2楽章はベートーベンが得意とした変奏曲形式で書かれています。
この変奏曲の一番の聞き所は、第1変奏からだ3変奏へとどんどん音価が短く刻まれていくところで、それはまるで20世紀のジャズ音楽を想起させると言われます。そして、その極限まで短くなった細かい音符で緩やかに旋律が歌われていくところは一種異様な雰囲気を讃えた音楽になっています。

しかし、そう言う斬新さに満ちていながら、おそらく、ベートーベンが書いた数多い変奏曲の中でももっとも感動的な音楽の一つでしょう。
ただし、この楽章にはどのようなテンポ設定をとるのが相応しいのかという問題が常に横たわっています。

この変奏曲は冒頭の変奏主題と5つの変奏で成り立っているのですが、やりようによってはいくらでもテンポを落とすことが可能です。そして、テンポを落とせば落とすほどより深い精神性に満ちた世界が展開されるように聞こえる事は事実で、そこに仏教における「解脱:の領域を見いだす人もいるようです。(^^;

しかし、それでは「Adagio molto, semplice e cantabile」と指示しているベートーベンの意図との整合性が問われることになります。
つまりは「素朴に歌え(semplice e cantabile)」と言う指示をどのように受け取るかという問題なのですが、多くのピアニストは「素朴に歌う」よりは遅いテンポ設定で入念に歌い上げることで「己の深い精神性」を表明したとの欲望から逃れることは難しいようです。



  1. 第1楽章:Maestoso - Allegro con brio ed appassionato

  2. 第2楽章:Arietta. Adagio molto, semplice e cantabile



細部を蔑ろにすることなく音楽を進めていくアラウ


バックハウスを取り上げた時に、ほぼ同時期にソナタの全曲録音を行っていたこともあって、比較のためにアラウを取り上げました。その比較の中であれこれ述べたのですが、私の言だけでは一方的すぎますから実際の音源もアップしておきます。
アラウはよく「コンプリート魔」と言われるのですが、このベートーベンのソナタに関しても2度全曲録音を行っています。

一つめが1962年から1966年にかけて録音された「DECCA盤」です。
二つめが、1984年から1990年にかけてデジタル録音された「Philips盤」です。
そして、これ以外に1956年から1960年にかけてEMIで10曲(NO.7,21,22,23,24,26,28,30,31,32)の録音を残しています。

不思議なのは、60年代の旧全集は何度も再発されていますし、50年代のEMIへの録音も簡単に入手できるのに、最新のデジタル録音による新全集が現在はほとんど入手困難なことです。資本主義の世の中ですから、裏を返せばアラウの古い録音を求める人はいても最新のデジタル録音を求める人はあまりいない証左と言えるのでしょう。
そして、それはアラウというピアニストに対する一定の評価を示しているとも言えます。

この関係はバックハウスの新旧の全集にも言えるのかもしれません。
指もしっかり回って覇気溢れる旧全集と、いささかへたれて来た中で勇を鼓して必死に取り組んだ新全集と言えば言葉がきつすぎるでしょうか。

ただ一つ違うところがあるとすれば、バックハウスの旧全集はモノラル録音だったのに対して、アラウの旧全集は「DECCA」による優秀なステレオ録音だったと言うことです。さらに言えば、デジタル録音の方はアナログからデジタルへの移行期と言うこともあって、録音エンジニアによって音質のばらつきがかなりあることも指摘しておく必要があるでしょう。

バックハウスならば「旧全集がいいんだけど音質がね・・・」と言って新全集に手が伸びる人はいるでしょうが、アラウの場合は音質の問題で旧全集に不満を感じることは全くありません。逆に、音質に関しては部分的にはデジタル録音の方に不満を感じる人も多くいるはずです。
この録音と音質をめぐる問題が新全集とってには辛いところでしょう。
しかし、あのポツリ、ポツリという独白のようなソナタも年を経ればそれほど悪くない面もあるので、できれば再発して欲しいものだと思います。

と言うことで、この後期ソナタのアラウの録音です。
聞けば分かるように、テンポ設定はバックハウスとは真逆です。バックハウスほど速いテンポで弾いている演奏は少ないのですが、このアラウほどに遅いテンポで演奏してるピアニストも少ないはずです。

このアプローチは新全集においてもそれほど大きな差はないようです。
例えば、作品111のハ短調ソナタの第2楽章などでは、ここぞと言うところにくるとさらにがくんとテンポを落として入念に歌い上げます。

ただしそんなテンポの切り替えを「あざとい」と感じることがないのがアラウらしいと言えばアラウらしいです。
基本的には生真面目なピアニストですから、そうやってテンポが落ちるところはべートーベンの思考を丹念に確認しながら一歩ずつ前に進んでいるという感じです。

当然の事ながら、テクニックの衰えは未だ来ていない時期ですから、バックハウスの新全集のように細かい部分を曖昧に弾きとばしてしまうと言うことはありません。
ただし、そうでありながらも、何故か聞き終わった後にどこか平板な演奏だったという印象が残ってしまうのです。

確かに、この後期ソナタは中期のソナタとは違って交響的に、つまりは構築的に響かせることを狙ってはいないので、それはそれでいいのかもしれません。
逆に、バックハウスのような音楽の作り方の方が、そう言うベートーベンの方向性からはずれているのでしょう。
しかし、聞き終わった後に立派な音楽を聞かせてもらったと感じるのは、私の場合はやはりバックハウスの方なのです。

とは言え、これがアラウの表現であり、一つ一つの細部を蔑ろにすることなく丹念に確かめながら音楽を進めていくという「アラウのあるがまま」を受け入れることが必要なのでしょう。それに、この「DECCA」録音は本当に素晴らしいですから、このピアノの響きを楽しめるだけでも値打ちがあるというものです。

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