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ルドルフ・ケンペ(Rudolf Kempe) |チャイコフスキー:交響曲第6番 ロ短調 作品74 「悲愴」
チャイコフスキー:交響曲第6番 ロ短調 作品74 「悲愴」
ルドルフ・ケンペ指揮 フィルハーモニア管弦楽団 1957年5月5日~6日録音
Tchaikovsky:Symphony No.6 in B minor, Op.74 "Pathetique" [1.Adagio - Allegro non troppo]
Tchaikovsky:Symphony No.6 in B minor, Op.74 "Pathetique" [2.Allegro con grazia]
Tchaikovsky:Symphony No.6 in B minor, Op.74 "Pathetique" [3.Allegro molto vivace]
Tchaikovsky:Symphony No.6 in B minor, Op.74 "Pathetique" [4.Adagio lamentoso]
私は旅行中に頭の中でこれを作曲しながら幾度となく泣いた。
チャイコフスキーの後期の交響曲は全て「標題音楽」であって「絶対音楽」ではないとよく言われます。それは、根底に何らかの文学的なプログラムがあって、それに従って作曲されたというわけです。
もちろん、このプログラムに関してはチャイコフスキー自身もいろいろなところでふれていますし、4番のようにパトロンであるメック夫人に対して懇切丁寧にそれを解説しているものもあります。
しかし6番に関しては「プログラムはあることはあるが、公表することは希望しない」と語っています。弟のモデストも、この6番のプログラムに関する問い合わせに「彼はその秘密を墓場に持っていってしまった。」と語っていますから、あれこれの詮索は無意味なように思うのですが、いろんな人が想像をたくましくしてあれこれと語っています。
ただ、いつも思うのですが、何のプログラムも存在しない、純粋な音響の運動体でしかないような音楽などと言うのは存在するのでしょうか。いわゆる「前衛」という愚かな試みの中には存在するのでしょうが、私はああいう存在は「音楽」の名に値しないものだと信じています。人の心の琴線にふれてくるような、音楽としての最低限の資質を維持しているもののなかで、何のプログラムも存在しないと言うような作品は存在するのでしょうか。
例えば、ブラームスの交響曲をとりあげて、あれを「標題音楽」だと言う人はいないでしょう。では、あの作品は何のプログラムも存在しない純粋で絶対的な音響の運動体なのでしょうか?私は音楽を聞くことによって何らかのイメージや感情が呼び覚まされるのは、それらの作品の根底に潜むプログラムに触発されるからだと思うのですがいかがなものでしょうか。
もちろんここで言っているプログラムというのは「何らかの物語」があって、それを音でなぞっているというようなレベルの話ではありません。時々いますね。「ここは小川のせせらぎをあらわしているんですよ。次のところは田舎に着いたうれしい感情の表現ですね。」というお気楽モードの解説が・・・(^^;(R.シュトラウスの一連の交響詩みたいな、そういうレベルでの優れものはあることにはありますが。あれはあれで凄いです!!!)
私は、チャイコフスキーは創作にかかわって他の人よりは「正直」だっただけではないのかと思います。ただ、この6番のプログラムは極めて私小説的なものでした。それ故に彼は公表することを望まなかったのだと思います。
「今度の交響曲にはプログラムはあるが、それは謎であるべきもので、想像する人に任せよう。このプログラムは全く主観的なものだ。私は旅行中に頭の中でこれを作曲しながら幾度となく泣いた。」
チャイコフスキーのこの言葉に、「悲愴」のすべてが語られていると思います。
ベートーベンの不滅の9曲と同じような手法で演奏したチャイコフスキーのシンフォニー
ほとんど話題に上ることのない録音なのですが、それが不思議に思えるほどに素晴らしい演奏がここにはおさめられています。
もしも、この演奏に価値を見いださないのであれば、その人はこの作品の決定盤とも言うべきムラヴィンスキー盤をも否定しなければならなくなるでしょう。
ムラヴィンスキー盤の価値は、チャイコフスキーのシンフォニーをベートーベンの不滅の9曲にも匹敵する偉大な音楽だと心の底から信じていたことにあります。そして、その強烈な思いに裏打ちされた「ムラヴィンスキーという男の信じたチャイコフスキーの姿」に聞くものは圧倒されるわけです。
そして、ここで聞くことのできるケンペの「悲愴」は、そう言うムラヴィンスキーが提示した「悲愴」ととても似通っているのです。それはもう「相似形」と言っていいほどに似通っています。
もちろん、録音の順番から言えばこのケンペ盤が57年で、ムラヴィンスキー盤は60年ですから、ケンペの演奏がムラヴィンスキーに似ているという言い方はおかしいのですが、60年近い時間が経過してしまえばその様に映ると言うことです。
ただし、表面的には似ているといっても本質的な部分では大きな違いがあることにも気づいてきます。
それを一言で言えば、ムラヴィンスキーは「チャイコフスキーのシンフォニーをベートーベンの不滅の9曲にも匹敵する偉大な音楽」だと信じていたのに対して、ケンペは「チャイコフスキーのシンフォニーをベートーベンの不滅の9曲と同じような手法」で演奏したと言うことです。
カルショーはケンペのことを「徹底的な保守主義者」「新しいことには全く興味を示さない」人間だと述べていました。
その評価が何処まで妥当なものかは分からないのですが、保守的だったことは間違いありません。
彼こそは、典型的なドイツのカペルマイスターだったのです。ただし、とびきり優秀で誠実なカペルマイスターでした。
ですから、彼にとって「交響曲」というものはベートーベンのように演奏されるべきであって、それがチャイコフスキーであってもドヴォルザークであってもかわりはなかったのです。
そう言う意味では、ケンペとムラヴィンスキーは登り口は違えども同じ山に登っていたことは間違いないようで、その二人は結果として頂上付近で顔を合わせたと言うことです。
今さら言うまでもないことですが、ここには音楽職人としてのチャイコフスキーが持つ「軽み」や「優雅さ」みたいなものが欠落していることは事実です。ある人に言わせればこれは「真っ黒な悲愴」なのだそうです。
その意味では、この初出の時のジャケットはこの演奏の本質を見事なまでに表現しています。(これはミケランジェロの「最後の審判」の一部でしょうか?)
確かに、ムラヴィンスキーの「悲愴」はより剛直ではあってもここまで黒くはありません。
その背景には、暇さえあれば「悲愴」のスコアを眺めて、時には涙していたというムラヴィンスキーの深い思い入れがあります。あの録音には、驚くほど細かいニュアンスが刻み込まれているのですが、このケンペ盤にはその様な思い入れはありません。
しかし、それはケンペの責任と言うよりは、誰が指揮したってムラヴィンスキーのようには演奏できないのです。
それでも第2楽章の深い情緒は見事なものです。
なお、残念なのは、57年の録音であるにもかかわらずモノラル録音だと言うことです。
この録音が長きにわたって等閑視されてきた原因の多くはそこにあるのかもしれません。
カルショーがぼやいたように「新しいことには全く興味を示さない」ケンペであれば、そう言うことは一切こだわらなかったのでしょうが、カラヤンのごり押しで漸くにしてEMIもステレオ録音にかじを切り始めていた時期だけに残念だと言わざるを得ません。
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よせられたコメント 2018-10-19:C.A. このジャケット、懐かしいですね。十代の頃、知り合いの年長の男性から、いい演奏だからどうぞ、とこのレコードを贈られました。ところが、チャイコフスキーの交響曲に関しては、1番から5番までまんべんなく聞くのですが、なぜか6番だけは食指が動きませんでした。多分、賑やかなのが好きなんでしょうね。先日、同じくケンペの指揮でアップされていた、組曲第3番の終楽章、これも大好きです。ありがとうございます。
ちなみに、ジャケットの絵、システィーナ礼拝堂にある、ミケランジェロの最後の審判の一部で間違いありません。京都市植物園に併設されている、陶板絵のミュージアムでも、原寸大の物を見ることができますよ。 2018-10-21:後藤 線が細くなくてとても良いです。フィルハーモニア管の実力も素晴らしいです。
終楽章が静かに沈み込むように終わるのではなくヒタヒタと手前に押し寄せてくるように終わるのはとても迫力を感じました。
良い演奏を紹介して頂きました。
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