クラシック音楽へのおさそい~Blue Sky Label~

ベートーベン:交響曲第4番 変ロ長調 作品60

ウィリアム・スタインバーグ指揮 ピッツバーグ交響楽団 1962年4月30日~5月2日録音





Beethoven:Symphony No.4 in Bflat major , Op.60 [1.Adagio; Allegro Vivace]

Beethoven:Symphony No.4 in Bflat major , Op.60 [2.Adagio]

Beethoven:Symphony No.4 in Bflat major , Op.60 [3.Menuetto; Allegro Vivace; Trio]

Beethoven:Symphony No.4 in Bflat major , Op.60 [4.Allegro Ma Non Troppo]


このギリシャの乙女は、その柔和でたおやかな外見に反して意外と強い芯を持った女性なのです

ベートーベンは第3番の「エロイカ」で、交響曲という形式を、それまでの誰もが考えなかったような巨大な構築物に変貌させました。しかし、それを引き継いでより巨大な作品を書くことはありませんでした。
ベートーベンが交響曲の世界で「エロイカ」を上回るような巨大な作品に取り組んだのは最後の「第9」だけでした。

「エロイカ」の中にあらわれていたのは、自らが求めるものを実現するためにはいかなる規則や常識にとらわれないという強靱にして強烈なエネルギーの迸りでした。
このほとばしるようなエネルギーに身をゆだねていれば、彼はもしかしたらベートーベンではなくてベルリオーズになっていたのかもしれません。

ベルリオーズの幻想交響曲のことを、ベートーベンのすぐ横にこれがたたずんでいることに驚きを感じると書いたことがあるのですが、落ちついて考えてみれば、「エロイカ」に内包されていたエネルギーをそのまま飼い慣らしていれば、それはシームレスにベルリオーズの妄想の爆発と歯止めのない巨大化の道に進んでいったはずです。

しかし、ベートーベンは外に向かってエネルギーを爆発させた後に、一転して収縮します。
その収縮によって生み出されたのが、「北方の巨人にはさまれたギリシャの乙女」と称された第4番の交響曲でした。

おそらく、その点にこそ、ベートーベンの他にはない偉大さがあらわれていると思われるので、そのあたりについて少しばかり詳しく考えてみたいと思います。

この交響曲は、その成り立ちからして興味をひかれます。

「エロイカ」は1803年から1804年にかけて作曲されています。1805年4月の公式な初演では多くの聴衆は戸惑いをみせたのですが、その音楽が持つ革命的な真価はすみやかに認識されていったようです。
そして、ベートーベンは「エロイカ」を完成させた後に、すぐさま新しい交響曲に取り組みはじめるのですが、それは第4番の交響曲ではなくて、後に第5番となる交響曲の方でした。

最近の研究によると、この第5番のスケッチはすでに「エロイカ」を作曲していた1803年に認められるそうです。そして、「エロイカ」を完成させた後に本格的に作曲の筆を進めていることが残された草稿帳からはっきりと窺うことが出来ます。
ところが、おそらく1805年に、ベートーベンはその創作の筆を一時ストップさせて、全く新しい交響曲を書き始めるのです。
それが、この第4番の交響曲だったのです。

この交響曲の作曲過程に関しては創作の過程を跡づけるスケッチ帳が保存されていないので、詳しいことはよく分かっていないようです。
ただし、複数の作品を同時並行で構想して筆を進めるというベートーベンのスタイルを考えれば、これに先立って構想された第5番にかかわる草稿帳の中に第4番の交響曲にかかわるスケッチが含まれていてもおかしくないのですが、不思議なことにその草稿帳の中にはこの交響曲にかかわるスケッチは一切含まれていないのです。

この第5番にかかわる草稿帳は1805年まで使われたことが分かっていますから、第4番に関しては1806年になってから取り組んだことは間違いないようです。
そして、残された手紙などから推測すると、1806年の夏頃から創作に取りかかり、11月の初め頃には完成させたようなのです。場合によっては2ヶ月、長くても3ヶ月程度で一気に完成させたことが窺われます。

これは、なんでもないスケッチから労作を重ね、念入りに時間をかけて仕上げていくのを常とするベートーベンの創作スタイルから考えると異例なことだと言えます。

「エロイカ」の後に「運命」がくるというのは、物事は直線的に進歩していくという「進化論的立場」に立つならば実に分かりやすく、そして納得もしやすい構図です。
しかし、現実には、ベートーベンはその様な「分かりやすい構図」ではなくて、それを断ち切るように作曲の筆を止めて、全く新しい「簡潔」な交響曲を一気に書き上げたのです。

その背景として、かつては「不滅の恋人」の存在をあげ、その幸福感に包まれた恋愛感情にとって「ハ短調」の「運命」は相応しくないので、柔和でロマン的な雰囲気が漂う交響曲を新たに書き始めたと説明されてきました。
さすがに、その様な個人的感情と創作を結びつけて解説することに賛同する人は今となっては殆どいないでしょうが、まあ、一昔前は、ベートーベン理解においてこの「不滅の恋人」は大きな意味を持ったようなのです。

もしくは、「エロイカ」という革命的な作品の次に、ある意味ではさらに革命的な「運命」を発表したのでは聴衆はついてこれないだろうから、営業的に受け入れられやすい作品を間に挟んだという話がまことしやかに語られたことがありました。結構名のある評論家もそう言うことを書いていたそうなので、いい加減といえばいい加減な話です。
最初にも少しふれたのですが、確かに「エロイカ」の初演では多くの聴衆は戸惑いをみせたのですが、その作品の真価はすみやかに認知されていったのです。

おそらく、この「収縮」にはそのような下世話な営業上の話や、「不滅の恋人」などという私生活にかかわる問題ではなくて、エネルギーのほとばしりを野放しにする事への警戒心が生まれたのだと思われます。

確かに、ベートーベンは音楽に「革命」をもたらしたことは事実ですが、彼が真に偉大なのは、その「革命」を「既存の秩序」の中におさめきろうとするぎりぎりの試みを最後まで放棄しなかったことです。
このぎりぎりのところにおける「せめぎ合い」の中で音楽を生み出していったところにこそベートーベンの凄さがあったのです。

そう思って、この第4番の交響曲を「エロイカ」と「運命」という北方の巨人の間においてみると、それは簡潔にして柔和に見えながら、彼が新しいチャレンジの中で見いだした試みの中で、何が古典的均衡の中で無理なくおさまるものかを模索したように見えるのです。
驚かされるのは、「エロイカ」によって膨張した楽器編成が縮小するのは当然だとしても、それ以前の第1番や2番の交響曲と較べてもフルートが一つ少なくなっているのです。

しかしながら、ここでは「エロイカ」によって優勢となった管楽器の役割はそのまま踏襲されています。
特にクラリネットには数多くの魅力的な独奏が用意されており、さらにはファゴットとのコンビでカノン的に進行する場面なども登場します。
弦楽合奏を基本として、そこに管楽器がアクセントをつけるだけにしかすぎなかったオーケストラの姿はここにはありません。

ただし、冒頭の序奏において弦楽器がユニゾンで分厚い響きを聞かせる部分では、管楽器優勢にふれた「エロイカ」からの揺れ戻しを感じたりもします。

そして、興味深いのは、その冒頭の序奏は何気ないムード的な音楽のように聞こえながら、そこには第1楽章の主題を構成する要素が含まれていることです。そして、その静かで長い序奏部から燦然たる光の世界に飛び出す部分でのデュナーミクの拡大は、まさに彼が獲得した新しい手法の見事な適用です。

また、緩徐楽章としての第2楽章の長さは、交響曲全体の比率から言えば第9のアダージョよりも長くなっています。そして、ともすればファースト・ヴァイオリンの美しい流れるような旋律やクラリネットの憧れに満ちた響きに耳が奪われるのですが、セカンド・ヴァイオリンが演奏し続ける伴奏の音型がこの楽章の重要な要素になっていることも、彼が獲得した新しい試みの適用でしょう。

それは、続く第3楽章にもあてはまります。
この「Allegro vivace」としか書かれていない楽章は明らかに「メヌエット」ではなくて「スケルツォ」です。
ただし、その中間のトリオの部分は流麗で美しく、メヌエット的な雰囲気を残していますので、それを中途半端とか先祖帰りと見ることも可能なのです。

しかし、20小節から同じ音型が3度繰り返される場面でコントラバスが延々と沈黙を続けるのは独特な効果をもたらしていますし、トリオに入る前に、低弦楽器と管楽器群が同じ旋律を交互に演奏する部分もユニークな効果を生み出していて、何気ない仕掛けですが注目に値します。
つまりは、この交響曲は古典的で簡潔な、それ故に「エロイカ」から見れば先祖帰りしたような作品に見えるのですが、それは決して1番や2番のような作品に舞い戻ったわけではないのです。

それは、最終楽章においても顕著で、そこでは明らかに第1主題が徹底的に活用されていて、その構成単位を積み重ねていくことで陽気で快活に終わるだけのロンドから抜け出しています。

ベートーベンは「エロイカ」の最終楽章における圧倒的な盛り上がりによって、音楽がもはや一部の限られた特権階級に奉仕するものではなく、自由な市民のための音楽になったことを宣言しました。
ベートーベンの音楽における圧倒的なフィナーレは、それは一つの解決として存在するのではなくて、疑いもなく新しい世界への扉を開けるものに転化したのです。

そして、その事が古典的均衡の中においても可能であることをこの交響曲において示してみせたのです。

そして、あの凝縮した第5番の圧倒的なフィナーレに到達するためには、「エロイカ」で試みた営みをもう一度古典的均衡の中で問い直してみる必要があった事に気づかされるのです。
ですから、このギリシャの乙女は、その柔和でたおやかな外見に反して意外と強い芯を持った女性なのです。

聞いてみる価値は十分にある


スタインバーグは手兵のピッツバーグ交響楽団をともに1962年から1966年にかけてベートーベンの交響曲の全曲録音を行っています。
さて問題は、その録音を聞いてみたいかどうかです。

50年代から60年代はクラシック音楽にとっては輝ける黄金の時代であり、多くの指揮者とオーケストラによって数多くのベートーベンの交響曲全集が録音されました。そう言う宝の山に埋もれている状態で、いわゆる職人肌による指揮者がピッチバーグというアメリカの地方オケを振って録音したベートーベンの9曲を時間をかけて聞いてみたいかということです。
率直にって、それほど簡単に「Yes」とは言いにくいのではないでしょうか。実際私も最初はそうでした。

そして、その証拠に、この録音はデジタルの時代に入ってもCDで復刻されることはなく、聞こうと思えば中古レコードを探すしかない状態が続きました。
ところが人間というのは不思議なもので、聞こうと思ってもなかなか聞くことができない状態で、何らかの僥倖に恵まれてそれを聞くことが出来た人はその録音と演奏を持ち上げたくなります。気がつくと、あちこちでこのスタインバー&ピッツバーグ響によるベートーベン演奏を「幻の名演」という人があらわれてきます。

ただし、その真偽を確かめることはほとんどの人にとっては不可能なのですから、いつの間にかそう言う評価がじわりじわりと広がりはじめます。そして、隣接権が消滅すると得体の知れないレーベルが板おこしと思われるやり方で復刻盤CDをリリースします。
聞くところによると、このレーベルは最初は国外では販売しないと言っていたようなのですが、やがてどういうルートを使ったのかは分かりませんが、少しずつ日本国内でも入手が可能になりました。そして、その噂の「幻の名盤」をその復刻盤CDで聞いた人たちは唖然とします。ただし、その「唖然」は演奏の巣らしさゆえに「唖然」としたのではなく、その復刻盤CDの音質が「唖然」とするほどの劣悪だったのです。

その悪さたるや、人によれば50年代初頭のフルトヴェングラーの音源よりも劣悪だと言うことでした。
しかしながら、「Command Classics」というマイナーレーベルでの録音とはいえ、60年代中頃のスタジオ録音がそこまで劣悪なことは考えられません。となると、その板おこしで復刻をしたレーベルはかなりいい加減なと言うよりは、犯罪的とも言えるやり方で復刻をしたと言うことになります。

しかしながら、最近になって遂にドイツ・グラモフォンが正式に復刻盤をリリースしたことで、漸くにして多くの人にその全貌が明らかになる時が来ました。
それでも、一部の「幻の名盤」という評価を聞きながらも、それでも残り少ない人生の中でこの組み合わせでベートーベンの9曲を聴く価値はあるのだろうかという懸念は消えません。

と言うことで、前置きが少し長くなってしまったのですが、そう言う懸念を振り払って9曲を聴き通した感想は、「幻の名盤」と言う評価は「聞きたくても聞けないのに聞けちゃった」というバイアスがかかった評価であったと言うことは間違いないと言うことです。しかし、残された人生において、このスタインバーグによるステレオ録音のベートーベンは聞いてみる価値は十分にあると言うこともまた間違いないようです。

まずは一通り聞いてみて感じたことを簡単に記しておきます。
第1番の交響曲はその弾むようなリズム感と爽快な推進力は若きベートーベンのファースト・シンフォニーとしては最高の演奏の一つと言えます。この第1番の交響曲はどうしても軽く見られがちなだけにこれは貴重な演奏と録音だと言えます。続く第2番も同じようなコンセプトで貫かれているのですが、この作品の聞かせどころとも言うべき「Larghetto楽章」がいささかあっさりしすぎている感じがします。
このラルゲット楽章の美しいロマン性は第1番の交響曲では聞くことが出来なかったものですし、そこには「歌う」事への試行錯誤が結実していると思われるだけに、ここまで意図的に素っ気なく演奏することはないのではないかとは思ってしまいました。

ただし、第4番の「Adagio楽章」もどちらかと言えば素っ気ない感じなので、そのあたりはスタインバーグの姿勢なのかもしれません。
しかし、第4番では長い序奏の後に第1主題が表れてくるところで思いっきり「タメ」を作って見得を切ったりしているのですから、そのあたりがただの「職人肌」とは言いきれないスタインバーグの複雑さが表れています。そして、第3楽書から第4楽章にかけてはあ青の第1番で見せた推進力とリズムが炸裂して、何処かカルロス・クライバーの姿を思い出してしまう自分がいました。

それからもう一つ面白いのは、突然テンポ設定が変わってしまう場面があることです。
例えば、第6番「田園」では嵐がやってくる前の場面で急激にテンポが速くなって緊張感を高めるのですが、いささかあざといという感じがしないでもありません。

それから、第7番の交響曲では最初の2楽章はやや遅めのテンポ設定で演奏して、第2楽章の「Allegretto」では2番や4番の緩徐楽章とは対照的なほどに入念に歌っています。どうも、このあたりがスタインバーグという男のつかみ所のなさです。そして、第3楽章からは途端にテンポを上げるのでそのつながり具合にいささか違和感を感じるのですが、そのテンポのまま最終楽章になだれ込むとその強い推進力ゆえに、「まあ、これでいいのだ」と思わせられてしまうのです。

それからもう一つ気づいたのは、第8番におけるオケの響きです。
後期の作品でありながら小ぶりなこの交響曲は下手をすると初期のシンフォニーのように聞こえてしまうのですが、スタインバーグはここでは明らかに低声部を分厚めにならしてどっしりとした雰囲気を醸し出しています。そう言えば、「田園」の第1楽章でも結構低声部を厚めに成らしているので、そのあたりのオケの響きにも彼なりのポリシーが貫かれていたのかもしれません。

つまりは、一見するとスタインバーグのベートーベンというのは職人肌の指揮者がキッチリと仕上げただけの演奏のように見えるのですが、じっくりと聞いてみるといろいろと屈折した部分があちこちにに顔を出すのです。
ただし、私の効き方が悪いのだと思うのですが「エロイカ」や「運命」のような大物ではあまり無茶なことはしないでキッチリと仕上げているように思われます。悪い演奏ではないのですが、数多の名演がひしめくこの作品の録音の中ではいささか自己主張が乏しいかもしれません。

しかしながら、スタインバーグの全集の中で一番注目すべきは最後の第9番でしょう。
何故ならば、そこでスタインバーグは一般的に「マーラー版」と呼ばれるものを使っているからです。

ただし、このマーラー版というのはマーラーが実際に演奏したときに楽譜に追加したり書き直したりしたもので、シューベルトの「死と乙女」を弦楽合奏版にしたように新たにスコアにしたものではないようです。そして、マーラーは演奏のたびにスコアに手を加えるのを常にしていましたから、ベートーベンの第9にしても定まった「マーラー版」があるわけではないようです。

ですから、スタインバーグが「マーラー版」と記しているのは、おそらくはマーラーがニューヨークフィル時代に、そのライブラリに書き込んだものを参考にしたものだと思われます。
ところが、この「マーラー版」による第9なのですが、実際に聞いてみると何処がどのように改変されているのかほとんど分かりません。どちらかと言えば、上で述べたような他の交響曲の独特な解釈の部分の方が印象的です。

ただし、最終楽章にはいると急に低声部が分厚くなって響きが太くなるのが印象的ですし、第2楽章のホルンのソロの部分からの音楽の運びが印象的なので、そのあたりに何らかのマーラーの手が入っているのかなと憶測する程度です。
ですから、スタインバーグはこの全集を完成させる上で、何故に、この第9番だけにその様なエディションを使ったのかの方が興味があります。
それはもしかしたら、職人肌で、手堅く作品をまとめるだけという印象をこのベートーベンの交響曲全集で払拭したかったのかもしれません。確かに、この全集を聞いてみれば、彼がただの職人肌だけの指揮者でないことはよく分かります。しかし、一部で囁かれるような「幻の名盤」はさすがに言いすぎのようです。
とは言え、この時代に数多くの優れたベートーベン演奏が生み出されたのですが、その中にあってもそれなりに聞く価値は十分にある録音であることは間違いようです。

なお、その後あれこれ調べてみると、第九のマーラー版の最大の特徴はスコアの細かい改変ではなくて、2管編成で書かれていたオリジナル編成を倍管にし、ティンパニを2人に増強し、さらに原曲に用いられていないテューバを加えるという「巨大化」を目指すことが目玉だった事が分かりました。
つまりは、その編成の巨大化を最大に活用することによって、ベートーベンの本質の一つである「デュナーミクの拡大」をより一層「壮絶」なものにしたかったようなのです。
私が第2楽章のホルンソロからの音楽運びに通常にはない美しさを感じたのはその成果だったようです。最終楽章に感じた分厚さもオケの巨大化によるものかもしれません。その証拠に、楽章の始めの部分ではオケと合唱・ソリストのバランスがあまり良くないのですが、次第にそのバランスが整っていくのがよく分かります。
そのあたり、録音エンジニアも苦労したようです。

とは言え、そういうマーラーの意図は、プリアンプのボリュームでいくらでも音量が調整できる録音ではなかなか実感するのは難しいかもしれません。

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