クラシック音楽へのおさそい~Blue Sky Label~

チャイコフスキー:交響曲第6番「悲愴」

ムラヴィンスキー指揮 レニングラードフィル 1956年6月録音





Tchaikovsky:交響曲第6番「悲愴」 「第1楽章」

Tchaikovsky:交響曲第6番「悲愴」 「第2楽章」

Tchaikovsky:交響曲第6番「悲愴」 「第3楽章」

Tchaikovsky:交響曲第6番「悲愴」 「第4楽章」


私は旅行中に頭の中でこれを作曲しながら幾度となく泣いた。

 チャイコフスキーの後期の交響曲は全て「標題音楽」であって「絶対音楽」ではないとよく言われます。それは、根底に何らかの文学的なプログラムがあって、それに従って作曲されたというわけです。
 もちろん、このプログラムに関してはチャイコフスキー自身もいろいろなところでふれていますし、4番のようにパトロンであるメック夫人に対して懇切丁寧にそれを解説しているものもあります。
 しかし6番に関しては「プログラムはあることはあるが、公表することは希望しない」と語っています。弟のモデストも、この6番のプログラムに関する問い合わせに「彼はその秘密を墓場に持っていってしまった。」と語っていますから、あれこれの詮索は無意味なように思うのですが、いろんな人が想像をたくましくしてあれこれと語っています。

 ただ、いつも思うのですが、何のプログラムも存在しない、純粋な音響の運動体でしかないような音楽などと言うのは存在するのでしょうか。いわゆる「前衛」という愚かな試みの中には存在するのでしょうが、私はああいう存在は「音楽」の名に値しないものだと信じています。人の心の琴線にふれてくるような、音楽としての最低限の資質を維持しているもののなかで、何のプログラムも存在しないと言うような作品は存在するのでしょうか。
 例えば、ブラームスの交響曲をとりあげて、あれを「標題音楽」だと言う人はいないでしょう。では、あの作品は何のプログラムも存在しない純粋で絶対的な音響の運動体なのでしょうか?私は音楽を聞くことによって何らかのイメージや感情が呼び覚まされるのは、それらの作品の根底に潜むプログラムに触発されるからだと思うのですがいかがなものでしょうか。
 もちろんここで言っているプログラムというのは「何らかの物語」があって、それを音でなぞっているというようなレベルの話ではありません。時々いますね。「ここは小川のせせらぎをあらわしているんですよ。次のところは田舎に着いたうれしい感情の表現ですね。」というお気楽モードの解説が・・・(^^;(R.シュトラウスの一連の交響詩みたいな、そういうレベルでの優れものはあることにはありますが。あれはあれで凄いです!!!)
 
 私は、チャイコフスキーは創作にかかわって他の人よりは「正直」だっただけではないのかと思います。ただ、この6番のプログラムは極めて私小説的なものでした。それ故に彼は公表することを望まなかったのだと思います。
 「今度の交響曲にはプログラムはあるが、それは謎であるべきもので、想像する人に任せよう。このプログラムは全く主観的なものだ。私は旅行中に頭の中でこれを作曲しながら幾度となく泣いた。」
 チャイコフスキーのこの言葉に、「悲愴」のすべてが語られていると思います。

作品の持つアトモスフェアをつかみ取ることが大切である


ムラヴィンスキーは至る所で作品の持つ「アトモスフェア」をつかみ取ることが重要だと述べています。この「アトモスフェア」というのはロシア語だと思うのですが、ピッタリと来る日本語が見あたらないようです。一応は「雰囲気」という言葉を当てることが多いようなのですが、日本語の「雰囲気」という言葉には大雑把ないい加減さがつきまといますのであまり上手くないようです。「風情」としてもいいように思うのですが、これもまた日本的なウェット感がつきまとうのでどこかしっくりきません。そうではなくて、おそらくはその作品が演奏されたときに作り出される空間の色合い、たたずまいのようなものであり、その場に居合わせた人間をその色合いに染めてしまうような強い力を持ったものを「アトモスフェア」といっているのだと思います。ですから、この言葉は「インテリア」の世界などでよく使われるようです。内装や家具の配置などによって独自の世界を演出することによって、そこに居合わせた人の内面世界までをも変えてしまう力を「アトモスフェア」と言っているようです。そう言えば、京都のお寺などに行って庭に面した濡れ縁などに座っていると、いつもとは異なる心持ちになることを誰しもが経験したことがあると思います。それはまさに、その場の「アトモスフェア」が私たちの心に強く働きかけたからです。

さて、「作品の持つアトモスフェアをつかみ取ることが大切である」、ここまでなら誰でも言えます。しかし、ムラヴィンスキーが凄いのは、この言葉に続けて「そして、その作品を演奏するときは自分自身の生活をそのアトモスフェアに染め上げて、その中に己を浸すことが大切だ」と述べて、その事を常に実践し続けたことです。
彼は次のコンサートのプログラムを決めると、スコアを研究し、そこからつかみ取った「アトモスフェア」で己の生活を染め上げます。ですから、チャイコフスキーが予定されているときとベートーベンが予定されているときでは彼の生活は大きく変わるのです。
飛行機に乗って世界中を飛び回り、今週はベートーベンを振り、来週はチャイコフスキーを振るなどと言うことはムラヴィンスキーにはあり得ないことでした。そして、その様にしてつかみ取ったアトモスフェアを徹底した練習で完璧な形で表現しようとしたのがムラヴィンスキーの芸でした。
つまり、ムラヴィンスキーの音楽は徹底的に主観的な解釈に貫かれたものなのです。そして、その主観的な解釈を完璧なまでの形で再現するために徹底的にオーケストラを鍛え上げたのです。あのレニングラードフィルの精緻きわまる合奏能力とそこからもたらされる鋼鉄の響きは、作品に込められた作曲家の意志を忠実に再現するために捧げられているのではなくて、ムラヴィンスキーという男の主観的解釈を完璧な形で表現するために捧げられているのです。その事に気づけば、ムラヴィンスキーという絶対的な権力のもとで強力にコントロールされながら、楽団員一人一人は決して固くなることなく、時には音楽に熱狂してのめり込んでいくような風情を見せるという「奇跡のような不思議」さも理解できます。ムラヴィンスキーという男の「主観的解釈」が徹底したリハーサルを通して楽団員一人一人を駆り立て、そして熱狂させるのです。

しかし、このようなことは「ソ連型社会主義」という極めていびつな社会の中だからこそ実現したことだとも言えます。ムラヴィンスキーとソ連共産党との関係、とりわけ彼の地元であったレニングラードの党組織の関係は極めて険悪なものでした。党の幹部にとって、芸術的理由を押し立てて自分の考えを曲げることを潔しとせず、さらには決して自分たちに頭を下げようとしないこの男は目の上のたんこぶでした。しかし、彼の世界的な名声の前では表だった迫害もできないという点で、第2次大戦中のフルトヴェングラーとナチスの関係とも似通っています。
ムラヴィンスキーの名前が世界にとどろいて間もなく、とあるジャーナリストが彼をレニングラードに訪ねます。教えられた住所を訪ねてみると、そこは一般市民が住んでいる質素なアパートの一室でした。世界的マエストロがこんな質素なアパートに住んでいるはずはないと思った彼は場所を間違えたのだと思ったのですが、念のためにその一室を訪ねてみると中からムラヴィンスキーが姿を表したので驚いたという話があります。この時の訪問の様子が西側で大きく報道されると、あわてたソ連当局はムラヴィンスキーに嫌みを言いながらもう少し大きなアパートの部屋をあてがったそうです。
閑話休題。

さて、このような男が作り出す音楽に対して、はたして「批評」などというものが成り立つでしょうか?この男の「主観的解釈」に立ち向かうだけの「勇気」を持った「評論家」など存在するのでしょうか?
それよりも、飛行機に乗って世界中を飛び回り、今日はベートーベン、来週はマーラー振って、その後はフランスでドビュッシーをやるもんね!!なんどという生活をおくって何の不思議も感じない昨今の音楽家が作り出す音楽と彼の音楽を同じ俎上に並べて論ずることなどできるのでしょうか。同じ楽器を使って同じスコアを音にしていても、それはもしかしたら全く異なるジャンルに属する芸術かもしれないのです。

ここで聴くことができるチャイコフスキーの「悲愴」は彼が最も愛した音楽の一つでした。彼は暇さえあればこの作品のスコアを眺めて、時には涙していたそうです。その様な男の「悲愴」を聴いて我々凡人にできるのはこの前に頭を垂れるのか、もしくは拒否して遠ざけるかのどちらかしかないでしょう。凄まじくも、恐ろしい音楽です。

よせられたコメント

2008-07-12:koco


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