ベートーベン:交響曲第9番 ニ短調 「合唱付き」作品125(歌唱:ルーマニア語)(Beethoven:Symphony No.9 in D minor, Op.125 "Choral")
ジョルジュ・ジョルジェスク指揮 ブカレスト・ジョルジェ・エネスク・フィルハーモニー管弦楽団 (S)Emilia (Ms)マルタ・ケスラー、(T)イオン・ピソ (Bass)マリウス・リンツラー (Chorus Master)ヴァシリ・パンテ ジョルジュ・エネスコ・フィル合唱団 (Chorus Master)カロル・リトヴィン ルーマニア放送合唱団 1961年8月録音(George Georgescu:Bucharest George Enescu Philharmonic Orchestra (S)Emilia Petrescu (Ms)Martha Kessler (T)Ion Piso (Bass)マMarius Rintzler (Chorus Master)Vasile Pintea Corul Filarmonicii "George Enescu”(Chorus Master) arol Litvin Corul Radioteleviziunii Romane Recorded on July, 1961)
Beethoven:Symphony No.9 in D minor, Op.125 "Choral" [1.Allegro Ma Non Troppo, Un Poco Maestoso]
Beethoven:Symphony No.9 in D minor, Op.125 "Choral" [2.Molto Vivace]
Beethoven:Symphony No.9 in D minor, Op.125 "Choral" [3.Adagio Molto E Cantabile; Andante; Adagio]
Beethoven:Symphony No.9 in D minor, Op.125 "Choral" [4.Presto; Allegro Ma Non Troppo; Allegro Assai; Presto; Allegro Vivace; Alla Marcia; Andante Maestoso; Allegro Energico Sempre Ben Marcato; Allegro Ma Non Tanto; Poco Adagio; Prestissimo]
何かと問題の多い作品です
ベートーベンの第9と言えば、世間的にはベートーベンの最高傑作とされ、同時にクラシック音楽の最高峰と目されています。
そのために、日頃はあまりクラシック音楽には興味のないような方でも、年の暮れになると合唱団に参加している友人から誘われたりして、コンサートなどに出かけたりします。
しかし、その実態はベートーベンの最高傑作からはほど遠い作品であるどころか、9曲ある交響曲の中でも一番問題の多い作品なのです。さらに悪いことに、その問題点はこの作品の「命」とも言うべき第4楽章に集中しています。
そして、その様な問題を生み出した原因は、この作品の創作過程にあります。
この第9番の交響曲はイギリスのフィルハーモニア協会からの依頼を受けて創作されました。しかし、作品の構想はそれよりも前から暖められていたことが残されたスケッチ帳などから明らかになっています。
当初、ベートーベンは二つの交響曲を予定していました。
一つは、純器楽による今までの延長線上に位置する作品であり、もう一つは合唱を加えるというまったく斬新なアイデアに基づく作品でした。
後者はベートーベンの中では「ドイツ交響曲」と命名されており、シラーの「歓喜によせる」に基づいたドイツの民族意識を高揚させるような作品として計画されていました。
ところが、何があったのかは不明ですが、ベートーベンはまったく異なる構想のもとにスケッチをすすめていた二つの作品を、何故か突然に、一つの作品としてドッキングさせてフィルハーモニア協会に提出したのです。
そして出来上がった作品が「第九」です
交響曲のような作品形式においては、論理的な一貫性は必要不可欠の要素であり、異質なものを接ぎ木のようにくっつけたのでは座り心地の悪さが生まれるのは当然です。
もちろん、そんなことはベートーベン自身が百も承知のことなのですが、何故かその様な座り心地の悪さを無視してでも、強引に一つの作品にしてしまったのです。
年末の第九のコンサートに行くと、友人に誘われてきたような人たちは音楽が始めると眠り込んでしまう光景をよく目にします。そして、いよいよ本番の(?)第4楽章が始まるとムクリと起きあがってきます。
でも、それは決して不自然なことではないのかもしれません。
ある意味で接ぎ木のようなこの作品においては、前半の三楽章を眠り込んでいたとしても、最終楽章を鑑賞するにはそれほどの不自然さを感じないからです。
極端な話前半の三楽章はカットして、一種のカンタータのように独立した作品として第四楽章だけ演奏してもそれほどの不自然さは感じません。つまりは、合唱付きの最終楽章はそれだけで単独の作品として十分に成り立っているのです。
そして、「逆もまた真」であって、第3楽章まで演奏してコンサートを終了したとしても、聴衆からは大ブーイングでしょうが・・・、これもまた、音楽的にはそれほど不自然さを感じません。それはおそらく、ブルックナーの9番と同じような扱いを受けるのかもしれません。最終楽章が未完成の時には自作の「テ・デウム」を演奏するようにブルックナーは言い残したそうですが、第3楽章までで十分に完結しています。
そして、過去に年末に日本中で繰り広げられる第九の合唱を「大人の学芸会」と書いて大顰蹙をかった事があるのですが、残念ながらそう言わざるを得ないような合唱が今も大部分を占めています。
素人集団が歌い切るにはあの合唱は難しすぎるのです。
ですから、一時このようなコンサートを想像したことがあります。
それは、第3楽章と第4楽章の間に休憩を入れるのです。
前半に興味のない人は、それまではロビーでゆっくりとくつろいでから休憩時間に入場すればいいし、合唱を聴きたくない人は家路を急げばいいし、とにかくベートーベンに敬意を表して全曲を聴こうという人は通して聞けばいいと言うわけです。
これが決して暴論とは言いきれないところに(言い切れるという人もいるでしょうが・・・^^;)、この作品の持つ問題点が浮き彫りになっています。
聞けば聞くほど味わいが深くなるベートーベンです
「ジョルジュ・ジョルジェスク」と言われて知っている人ってどれほどいるのでしょうか。私も、このベートーベンの録音で初めて出会いました。
そして、驚いたのは、めぼしい録音はこのベートーベンの交響曲全集くらいしかないということです。
これは考えてみれば不思議な話です。この業界でベートーベンの交響曲を録音できるというのは一つのステータスです。あまり触れたくないのですが、日本人の指揮者で世界的に名が通っていても、ベートーベンの交響曲の録音がオファーされるということは滅多にありません。ですから、残っているめぼしい録音がベートーベンの交響曲全集くらいしかないというのは普通はあり得ないのです。
調べてみればルーマニアの指揮者がルーマニアのオーケストラと録音したということなので、岩城宏之がN響とベートーヴェンの交響曲を全曲録音したようなものなのかとも思ったのですが、どうやらそういう類のものでもないようです。
実際にその録音を聞いてみれば、なかなかすっきりとしたベートーベンなので気持ちよく聞くことができました。もちろん、岩城宏之とN響が駄目だと言っているわけではないのでお間違いのないように。
ジョルジェスクはリヒャルト・シュトラウスに見いだされ、アルトゥール・ニキシュに学び、トスカニーニとの親交によってその名を世界に知られるようになった指揮者です。そういう経歴からおおむね想像がつくのですが、図式的に割り切れば原典に忠実な新即物主義の演奏ということになります。なかなかすっきりとしたベートーベンだと言ったのはそういう一面を表したものです。しかし、それは楽譜を忠実になぞっただけのつまらない演奏ではありません。
何よりも魅力的なのは何とも言えない間のとり方や歌わせ方です。
彼の歌わせ方は細部に至るまで入念なのですが「あざとさ」は一切ありません。
それ故に、その歌や間のとり方が多くの人にすっきりと受け入れられるのだと思われます。その背景には彼の音楽家としてのキャリアがチェリストとして始まっていることが大きく寄与しているのでしょう。
そして、全体の造形はどこまでも端正で、重くもなく鈍くもなく、引き締まったたたずまいが崩れることはありません。
一見すれば思わず身を乗り出すような特徴のある表現はないのですが、聞けば聞くほどにその歌にはまっていきます。
それから、もう一つ面白いのは最後の第9です。
ソリストも合唱もすべて変なのです。なんじゃこれ…と思ったのですが、どうやら全員がルーマニア語で歌っているのです。
「なんじゃこれ!!」という第9なのですが、「第9なんて聞きあきた!」という向きにはいささか面白く聞けるのではないでしょうか。
ということで、ジョルジュ・ジョルジェスクという指揮者についてもう少し知りたいと思ったのですが、日本語の情報はほとんどありません。それはもう、知る人ぞ知るともも言えないほどの無名ぶりです。
しかし、英語版のウィキペディアなどではかなり詳しく記述されているので、それなりに彼の人生とキャリアについて知ることができました。
そして、彼の人生を知ってみると、月並みな言い方ですが、人生には三つの坂があるという言葉がぴったりなのです。
三つの坂とは、今更なのですが、「上り坂と下り坂」、そしてもう一つは「まさか」という坂です。
ということで、掻い摘んでジョルジェスクの生涯をふりかえってみます。
ここから下はは興味のある方だけお読みください。
ジョルジェスクは1887年9月12日、ルーマニアのトゥルチャ県で生まれました。
彼の音楽家としてのキャリアはチェロ奏者として始まるのですが、そのきっかけは、父親がくじ引きで当てたバイオリンをチェロのように脚の間に挟んで弾き始めた事だというので、笑ってしまいます。
最初はバイオリンのレッスンを始めるのですが、最初からバイオリンを脚の間に挟んで弾き始めたくらいですから、当然のようにチェロに興味を持つようになっていきました。
そして、18歳でブカレスト音楽院に入学します。
父親は彼が音楽を学ぶことに否定的だったために経済的な支援を得られず、教会の聖歌隊で歌ったり、オペレッタのオーケストラで演奏や指揮をしたりして生計を立てたようです。この多様な経験が後年に役立ったのかもしれません。
ブカレスト音楽院を卒業すると、ベルリンで学ぶための奨学金を得てベルリン音楽大学で著名なチェリスト、フーゴ・ベッカーに師事します。
そして、1910年には師であったベッカーにかわってマルトー四重奏団のチェロ奏者に就任しプロとしてのキャリをスタートさせることになりました。
しかし、転機は突然やってきます。一つめの「まさか」です。
第一次世界大戦末期に彼は敵国人としてベルリンで一時抑留され、さらには1916年の演奏旅行の途中に列車のドアに当たってしまい、その怪我によってチェロの演奏ができなくなってしまったのです。
ただし、転機というのですから、それで彼のキャリアが終わったのではなく、新たな幕が開くことになります。これもまた「まさか」でしょうか。
なんと、彼の才能を惜しんだリヒャルト・シュトラウスが指揮者への転身を勧めたのです。そして、勧めるだけでなくアルトゥール・ニキシュと引き合わせ、指揮法を学ぶことになったのです。
そして、1918年2月15日にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮して、指揮者としてキャリアをスタートさせたのですから驚いてしまいます。
その後、故国ルーマニアに戻りブカレスト・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者に就任します。ブカレスト・フィルとの関係は、その後いろいろなことがありながらも生涯続くことになります。
そして、このブカレスト・フィルを拠点としながら活動を世界へと広げていきました。
手の怪我がなく、チェリストとして活動していたならばこういう飛躍はなかったでしょうから、人の運というか運命というか、不思議なものです。
この海外での活動で特に重要だったのはフランスとアメリカだったようです。
フランスへは1921年に初めて演奏会を行って高いな評価を受け、1926年と1929年にも演奏会を行っています。
特に、1926年のパリ訪問では「フランス6人組」との交流を深め、フランス近代音楽への功績を称えてフランス政府からレジオンドヌール勲章を授与されています。
アメリカでの活動ではトスカニーニと親交を深めまし。そして、1926年にトスカニーニが健康上の理由でニューヨーク・フィルとの契約をキャンセルせざるを得なくなったときに、ジョルジェスクは数か月にわたってその指揮台に立つ事になったのです。全く無名の若い指揮者がトスカニーニの代役として指揮台にたち、その責任を十分に果たしたのですから、話題にならないほうが不思議です。
この成功によって世界的にはいまだ無名だったジョルジェスクはその名を多くの人々に知られることになり、その後20年にわたってヨーロッパ各地での演奏会を行う土台となったのです。
しかし、これもまた第2次世界大戦によって大きな転機を迎えます。ルーマニアがナチス・ドイツの同盟国として第二次世界大戦に参戦したのです。しかし、ジョルジェスクの国内外での活動を今まで通り行なわれ、ブカレスト・フィルを率いてナチス占領下の国々をも巡業して回ったのです。
しかし、「まさか」はいつも突然やってきます。
1944年にルーマニアが突如連合国側に寝返ったのです。
彼の運命は一気に暗転します。
彼のそれまでの音楽活動がナチスの文化・宣伝機関への協力だとしてルーマニアでの指揮活動を「終身」禁止されてしまい、ブカレスト・フィルからも追放されてしまいます。
ナチスとの関りによって運命を大きく変えられてしまった音楽家は数多くいるのですが、ジョルジェスクもまたそのような一人だったわけです。
そんなジョルジェスクが戦後のキャリアを再スタートさせたのは1947年のことでした。
友人であるジョルジェ・エネスクの仲介でルーマニア国立放送管弦楽団の指揮者に任命されたのです。さらに、モルドヴァ・フィルの指揮者も務め、プラハやキエフへでの指揮の依頼を受けるなど、国際的なキャリアも再スタートさせます。
そして、1953年にジルヴェストリがブカレスト・フィルの指揮者を辞任すると、ジョルジェスクが再びその指揮台に立つことになりました。
おそらくは政治的無知、無関心ゆえにナチスとかかわりを持っただけだったのでしょう。それに加えて指揮者としての能力もキャリアも十分だったのですから、誰もそういう復帰への道を怪しまなかったのかもしれません。
もっとも、本当のことはわかりませんが…。
しかし、友人であるエネスクがルーマニアが共産圏の支配下に入ったためにフランスに亡命し、1955年にパリで亡くなると、ブカレスト・フィルの名称をジョルジュ・エネスク・フィルハーモニー変更することを提案し、実現させています。
そういえば、録音嫌いとして知られていたジョルジェスクが珍しくも1942年に磁気テープという新しい媒体で録音をしているのですが、その時の曲目がエネスコの交響曲第1番と2曲のルーマニア狂詩曲でした。
ジョルジェスクとエネスクの深いつながりがうかがえます。そして、そういう人間的なつながりを大切にした人間であったことは間違いなかったようです。
ブカレスト・フィルに復帰してからは順調に活躍の場を広げていき、真偽のほどで定かではありませんが、プラハで彼の演奏を聴いたエフゲニー・ムラヴィンスキーが「ベートーヴェンとチャイコフスキーの第一人者」と絶賛した、という話も伝わっています。
そして、そういう順調な活動の頂点として、1961年から1962年にかけて手兵のブカレスト・ジョルジェ・エネスク・フィルハーモニー管弦楽団とベートーヴェンの交響曲を全曲録音したのでした。
ジョルジェスク最後のコンサートはジョルジュ・エネスク・フィルハーモニー管弦楽団を指揮し、ヴァイオリニストのクリスティアン・フェラスをゲストに迎えたプログラムでした。
そして、心臓発作の後遺症に悩まされていたジョルジェスクは1964年9月1日にブカレストの病院で亡くなりました。
心臓の持病も抱えていたので、いささか早すぎる死ではあったのですが本人とっては「まさか」ではなかったでしょう。
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