ベートーベン:交響曲第3番 変ホ長調 作品55「英雄」(Beethoven:Symphony No.3 in E flat major , Op.55 "Eroica")
ジョルジュ・ジョルジェスク指揮 ブカレスト・ジョルジェ・エネスク・フィルハーモニー管弦楽団 1961年3月録音(George Georgescu:Bucharest George Enescu Philharmonic Orchestra Recorded on March, 1961)
Beethoven:Symphony No.3 in E flat major , Op.55 "Eroica" [1.Allegro Con Brio]
Beethoven:Symphony No.3 in E flat major , Op.55 "Eroica" [2.Marcha Funebre; Adagio Assai]
Beethoven:Symphony No.3 in E flat major , Op.55 "Eroica" [3.Scherzo. Allegro Vivace; Trio]
Beethoven:Symphony No.3 in E flat major , Op.55 "Eroica" [4.Allegro Molto; Poco Andante; Presto]
音楽史における最大の奇跡
この交響曲は「ハイリゲンシュタットの遺書」と結びつけて語られることが多いのですが、それは今回は脇においておきましょう。
その様な文学的意味づけを持ってこなくても、この作品こそはそれまでの形式にとらわれない、音の純粋な芸術性だけを追求した結果として生み出された雄大にして美しい音楽なのですから。
それゆえに、この作品は「音楽史上の奇蹟」と呼ばれるのです。
それでは、その「音楽史上の奇蹟」と呼ばれるのはどんな世界なのでしょうか?
まず一つめに数え上げられるのは主題の設定とその取り扱いです。
ベートーベン以前の作曲家がソナタ形式の音楽を書こうとすれば、まず何よりも魅力的で美しい第1主題を生み出すことに力が注がれました。
しかし、ベートーベンはそれとは全く異なる手法で、より素晴らしい音楽が書けることを発見し、実証して見せたのです。
冒頭の二つの和音に続いて第1楽章の第1主題がチェロで提示されます。
第1楽章の主題
「運命」がたった4つの音を基本的な構成要素として成立したことと比べればまだしもメロディを感じられますが、それでもハイドンやモーツァルトの交響曲と比べればシンプルきわまりないものです。
それは、もはや「主題」という言葉を使うのが憚られるほどにシンプルであり、「構成要素」という言葉の方が相応しいものです。
しかし、そんな小難しい理屈から入るよりは、実際に音楽を聞いてみれば、このシンプルきわまりない構成要素が楽章全体を支配していることをすぐに了解できるはずです。
もちろん、これ以外にもいろいろな楽想が提示部に登場しますが、この構成要素の支配力は絶対的です。
そして、この第1主題に対抗するべき柔和な第2主題が登場してきてもその支配力は失われないのです。
ベートーベンは音楽の全てがこの構成要素から発し、そしてその一点に集中するようにな綿密な設計に基づいて交響曲を書き上げるという「革新」をなしえたのです。
そして、第5番「運命」ではたった4つの音を基本的な構成要素として巨大な交響曲全体を成立させるという神業にまで至ります。単純きわまる構成要素を執拗に反復したり、その旋律を変形・重複させたり、さらには省略することで切迫感を演出することで、交響曲の世界を成立させてしまったのです。
音楽において絶対と思われた「歌謡性」をバラバラの破片に解体し、その破片を徹底的に活用することで巨大な建築物を作り上げる手法を編み出してしまったのです。
しかしながら、これが「奇蹟」の正体ではありません。それは正確に言えば「奇蹟」を実現するための「手段」でした。
二つめに指摘しなければいけないのは、「デュナーミクの拡大」です。
もちろん、ハイドンやモーツァルトの交響曲においても「デュナーミク」は存在しています。
「デュナーミク」とは日本語にすると「強弱」と言うことになるのですが、つまりは強弱の変化によって音楽に表情をつける事を意味します。通常はフォルテやピアノと言った指示やクレッシェンド、ディミヌエンドなどの記号によって指示されるものです。
ベートーベンはこの「デュナーミク」の幅を飛躍的に拡大してみせたのです。
主題が歌謡性に頼っていれば、そこで可能なデュナーミクはクレッシェンドかディミヌエンドくらいです。音量はなだらかに増減するしかなく、そこに急激な変化を導入すれば主題の形は壊れてしまいます。
しかし、ベートーベンはその様な歌謡性を捨てて構成要素だけで音楽を構成することによって、未だ考えられなかったほどにデュナーミクを拡大してみせたのです。
そして、それこそが「奇蹟」の正体でした。
構成要素が執拗に反復、変形される過程で次々と楽器を追加していき、その頂点で未だかつて聞いたことがないような巨大なクライマックスを作りあげることも可能となりました。
延々とピアニッシモを維持し続けた頂点で突然のようにフォルティッシモに駆け上がることも可能です。
さら言えば、その過程で短調から長調への転調も可能なのです。
結果として、ハイドンやモーツァルトの時代には考えられないような、未だかつてない大きさをもった音楽が聴衆の前に現れたのです。そして、その「大きさ」を実現しているのが「デュナーミクの拡大」だったのです。
とは言え、この突然の変貌に対して当時の人は驚きを感じつつも、その強烈なインパクトに対してどのように対応して良いものか戸惑いはあったようです。
当時の聴衆にとってこれは異形の怪物ととも言うべき音楽であり、第1、第2というすばらしい「傑作」を書き上げたベートーベンが、どうして急にこんな「へんてこりんな音楽」を書いたのかと訝ったという話も伝わっています。
しかし、この音楽が聞くもののエモーショナルな側面に強烈に働きかける事は明らかであり、最初は戸惑いながら、やがてはその感情に素直となってブラボーをおくることになったのです。
しかしながら、交響曲は複数の楽章からなる管弦楽曲ですから、この巨大な第1楽章受けて後の楽章をどうするのかという問題が残ります。
ベートーベンはこの「エロイカ」においては、巨大な第1楽章に対抗するために第2楽章もまた巨大な葬送行進曲が配置することになります。
第2楽章の主題
ベートーベンは、このあまりにも有名な葬送のテーマでしっかりと第1楽章を受け止めます。
しかし、ここで問題が起こります。
果たして、この2つの楽章を受けて続く第3楽章は従前通りの軽いメヌエットでよいのか・・・と言う問題です。
答えはどう考えても「否」です。
そこで、ベートーベンは第2番の交響曲に続いて、ここでも当然のようにスケルツォを採用することになります。
つまりは、優雅さではなくて諧謔、シニカルな皮肉によって受け止めざるを得なかったのです。
ベートーベンはこの「スケルツォ」という形式を初期のピアノソナタから使用しています。しかしながら、その実態は伝統的なメヌエット形式を抜け出すものではありませんでした。
そこでの試行錯誤の結果として、彼は第2番の交響曲でついにメヌエットの殻を打ち破る「スケルツォ」を生み出すのですが、その一つの完成形がここに登場するのです。
そして、これら全ての3つの楽章を引き受けてまとめを付けるのが巨大な変奏曲形式の第4楽章です。
ベートーベンはこの主題がよほどお気に入りだったようで、「プロメテウスの創造物」のフィナーレやピアノ用の変奏曲などでも使用しています。
第4楽章の主題
しかしながら、交響曲という形式は常に、この最終楽章をどのようにしてけりをつけるのかという事が悩ましい問題として残ることになります。
ありとあらゆる新しい試みと挑戦が第1楽章で為され、それを引き受けるために第2楽章は緩徐楽章で、第3楽章はスケルツォでという「スタイル」が出来上がっても、それらすべてを引き受けて「けり」をつける最終楽章はどうすべきかという「形式上の問題」は残り続けるのです。
ベートーベンはここでは「変奏曲形式」を用いることでこの「音楽史上の奇蹟」を見事に締めくくってみせたのですが、それは必ずしも常に使える手段ではありませんでした。
しかしながら、この「エロイカ」の登場によって、「交響曲」という音楽形式はコンサートの前座を務める軽い音楽からクラシック音楽の王道へと変身を遂げた事は事実です。
そして、それはまさに「これからは新しい道を進もうと思う」と述べた若きベートーベンの言葉が、一つの到達点となって結実した作品でもあったのです。
聞けば聞くほど味わいが深くなるベートーベンです
「ジョルジュ・ジョルジェスク」と言われて知っている人ってどれほどいるのでしょうか。私も、このベートーベンの録音で初めて出会いました。
そして、驚いたのは、めぼしい録音はこのベートーベンの交響曲全集くらいしかないということです。
これは考えてみれば不思議な話です。この業界でベートーベンの交響曲を録音できるというのは一つのステータスです。あまり触れたくないのですが、日本人の指揮者で世界的に名が通っていても、ベートーベンの交響曲の録音がオファーされるということは滅多にありません。ですから、残っているめぼしい録音がベートーベンの交響曲全集くらいしかないというのは普通はあり得ないのです。
調べてみればルーマニアの指揮者がルーマニアのオーケストラと録音したということなので、岩城宏之がN響とベートーヴェンの交響曲を全曲録音したようなものなのかとも思ったのですが、どうやらそういう類のものでもないようです。
実際にその録音を聞いてみれば、なかなかすっきりとしたベートーベンなので気持ちよく聞くことができました。もちろん、岩城宏之とN響が駄目だと言っているわけではないのでお間違いのないように。
ジョルジェスクはリヒャルト・シュトラウスに見いだされ、アルトゥール・ニキシュに学び、トスカニーニとの親交によってその名を世界に知られるようになった指揮者です。そういう経歴からおおむね想像がつくのですが、図式的に割り切れば原典に忠実な新即物主義の演奏ということになります。なかなかすっきりとしたベートーベンだと言ったのはそういう一面を表したものです。しかし、それは楽譜を忠実になぞっただけのつまらない演奏ではありません。
何よりも魅力的なのは何とも言えない間のとり方や歌わせ方です。
彼の歌わせ方は細部に至るまで入念なのですが「あざとさ」は一切ありません。
それ故に、その歌や間のとり方が多くの人にすっきりと受け入れられるのだと思われます。その背景には彼の音楽家としてのキャリアがチェリストとして始まっていることが大きく寄与しているのでしょう。
そして、全体の造形はどこまでも端正で、重くもなく鈍くもなく、引き締まったたたずまいが崩れることはありません。
一見すれば思わず身を乗り出すような特徴のある表現はないのですが、聞けば聞くほどにその歌にはまっていきます。
それから、もう一つ面白いのは最後の第9です。
ソリストも合唱もすべて変なのです。なんじゃこれ…と思ったのですが、どうやら全員がルーマニア語で歌っているのです。
「なんじゃこれ!!」という第9なのですが、「第9なんて聞きあきた!」という向きにはいささか面白く聞けるのではないでしょうか。
ということで、ジョルジュ・ジョルジェスクという指揮者についてもう少し知りたいと思ったのですが、日本語の情報はほとんどありません。それはもう、知る人ぞ知るともも言えないほどの無名ぶりです。
しかし、英語版のウィキペディアなどではかなり詳しく記述されているので、それなりに彼の人生とキャリアについて知ることができました。
そして、彼の人生を知ってみると、月並みな言い方ですが、人生には三つの坂があるという言葉がぴったりなのです。
三つの坂とは、今更なのですが、「上り坂と下り坂」、そしてもう一つは「まさか」という坂です。
ということで、掻い摘んでジョルジェスクの生涯をふりかえってみます。
ここから下はは興味のある方だけお読みください。
ジョルジェスクは1887年9月12日、ルーマニアのトゥルチャ県で生まれました。
彼の音楽家としてのキャリアはチェロ奏者として始まるのですが、そのきっかけは、父親がくじ引きで当てたバイオリンをチェロのように脚の間に挟んで弾き始めた事だというので、笑ってしまいます。
最初はバイオリンのレッスンを始めるのですが、最初からバイオリンを脚の間に挟んで弾き始めたくらいですから、当然のようにチェロに興味を持つようになっていきました。
そして、18歳でブカレスト音楽院に入学します。
父親は彼が音楽を学ぶことに否定的だったために経済的な支援を得られず、教会の聖歌隊で歌ったり、オペレッタのオーケストラで演奏や指揮をしたりして生計を立てたようです。この多様な経験が後年に役立ったのかもしれません。
ブカレスト音楽院を卒業すると、ベルリンで学ぶための奨学金を得てベルリン音楽大学で著名なチェリスト、フーゴ・ベッカーに師事します。
そして、1910年には師であったベッカーにかわってマルトー四重奏団のチェロ奏者に就任しプロとしてのキャリをスタートさせることになりました。
しかし、転機は突然やってきます。一つめの「まさか」です。
第一次世界大戦末期に彼は敵国人としてベルリンで一時抑留され、さらには1916年の演奏旅行の途中に列車のドアに当たってしまい、その怪我によってチェロの演奏ができなくなってしまったのです。
ただし、転機というのですから、それで彼のキャリアが終わったのではなく、新たな幕が開くことになります。これもまた「まさか」でしょうか。
なんと、彼の才能を惜しんだリヒャルト・シュトラウスが指揮者への転身を勧めたのです。そして、勧めるだけでなくアルトゥール・ニキシュと引き合わせ、指揮法を学ぶことになったのです。
そして、1918年2月15日にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮して、指揮者としてキャリアをスタートさせたのですから驚いてしまいます。
その後、故国ルーマニアに戻りブカレスト・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者に就任します。ブカレスト・フィルとの関係は、その後いろいろなことがありながらも生涯続くことになります。
そして、このブカレスト・フィルを拠点としながら活動を世界へと広げていきました。
手の怪我がなく、チェリストとして活動していたならばこういう飛躍はなかったでしょうから、人の運というか運命というか、不思議なものです。
この海外での活動で特に重要だったのはフランスとアメリカだったようです。
フランスへは1921年に初めて演奏会を行って高いな評価を受け、1926年と1929年にも演奏会を行っています。
特に、1926年のパリ訪問では「フランス6人組」との交流を深め、フランス近代音楽への功績を称えてフランス政府からレジオンドヌール勲章を授与されています。
アメリカでの活動ではトスカニーニと親交を深めまし。そして、1926年にトスカニーニが健康上の理由でニューヨーク・フィルとの契約をキャンセルせざるを得なくなったときに、ジョルジェスクは数か月にわたってその指揮台に立つ事になったのです。全く無名の若い指揮者がトスカニーニの代役として指揮台にたち、その責任を十分に果たしたのですから、話題にならないほうが不思議です。
この成功によって世界的にはいまだ無名だったジョルジェスクはその名を多くの人々に知られることになり、その後20年にわたってヨーロッパ各地での演奏会を行う土台となったのです。
しかし、これもまた第2次世界大戦によって大きな転機を迎えます。ルーマニアがナチス・ドイツの同盟国として第二次世界大戦に参戦したのです。しかし、ジョルジェスクの国内外での活動を今まで通り行なわれ、ブカレスト・フィルを率いてナチス占領下の国々をも巡業して回ったのです。
しかし、「まさか」はいつも突然やってきます。
1944年にルーマニアが突如連合国側に寝返ったのです。
彼の運命は一気に暗転します。
彼のそれまでの音楽活動がナチスの文化・宣伝機関への協力だとしてルーマニアでの指揮活動を「終身」禁止されてしまい、ブカレスト・フィルからも追放されてしまいます。
ナチスとの関りによって運命を大きく変えられてしまった音楽家は数多くいるのですが、ジョルジェスクもまたそのような一人だったわけです。
そんなジョルジェスクが戦後のキャリアを再スタートさせたのは1947年のことでした。
友人であるジョルジェ・エネスクの仲介でルーマニア国立放送管弦楽団の指揮者に任命されたのです。さらに、モルドヴァ・フィルの指揮者も務め、プラハやキエフへでの指揮の依頼を受けるなど、国際的なキャリアも再スタートさせます。
そして、1953年にジルヴェストリがブカレスト・フィルの指揮者を辞任すると、ジョルジェスクが再びその指揮台に立つことになりました。
おそらくは政治的無知、無関心ゆえにナチスとかかわりを持っただけだったのでしょう。それに加えて指揮者としての能力もキャリアも十分だったのですから、誰もそういう復帰への道を怪しまなかったのかもしれません。
もっとも、本当のことはわかりませんが…。
しかし、友人であるエネスクがルーマニアが共産圏の支配下に入ったためにフランスに亡命し、1955年にパリで亡くなると、ブカレスト・フィルの名称をジョルジュ・エネスク・フィルハーモニー変更することを提案し、実現させています。
そういえば、録音嫌いとして知られていたジョルジェスクが珍しくも1942年に磁気テープという新しい媒体で録音をしているのですが、その時の曲目がエネスコの交響曲第1番と2曲のルーマニア狂詩曲でした。
ジョルジェスクとエネスクの深いつながりがうかがえます。そして、そういう人間的なつながりを大切にした人間であったことは間違いなかったようです。
ブカレスト・フィルに復帰してからは順調に活躍の場を広げていき、真偽のほどで定かではありませんが、プラハで彼の演奏を聴いたエフゲニー・ムラヴィンスキーが「ベートーヴェンとチャイコフスキーの第一人者」と絶賛した、という話も伝わっています。
そして、そういう順調な活動の頂点として、1961年から1962年にかけて手兵のブカレスト・ジョルジェ・エネスク・フィルハーモニー管弦楽団とベートーヴェンの交響曲を全曲録音したのでした。
ジョルジェスク最後のコンサートはジョルジュ・エネスク・フィルハーモニー管弦楽団を指揮し、ヴァイオリニストのクリスティアン・フェラスをゲストに迎えたプログラムでした。
そして、心臓発作の後遺症に悩まされていたジョルジェスクは1964年9月1日にブカレストの病院で亡くなりました。
心臓の持病も抱えていたので、いささか早すぎる死ではあったのですが本人とっては「まさか」ではなかったでしょう。
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