ベートーベン:ピアノ・ソナタ第28番 イ長調 Op.101
(P)マリア・ユーディナ:1959年録音
Beethoven: Piano Sonata No.28 In A, Op.101 [1. Etwas lebhaft und mit der innigsten Empfindung (Allegretto ma non troppo)]
Beethoven: Piano Sonata No.28 In A, Op.101 [2. Lebhaft, marschmasig (Vivace alla marcia)]
Beethoven: Piano Sonata No.28 In A, Op.101 [3. Langsam und sehnsuchtsvoll (Adagio ma non troppo, con affetto)]
Beethoven: Piano Sonata No.28 In A, Op.101 [4. Geschwind, doch nicht zu sehr und mit Entschlossenheit (Allegro)]
模索する実験の産物

ベートーベンに関する叙述を読んでいると、「傑作の森」とも言われる充実した中期の後にスランプに襲われるという記述に必ず出会います。そのスランプ期というのは一般的には1812年から1817年に至るおよそ5年程度の時期だとされていて、その背景には「不滅の恋人」との破局や甥カールの養育権をめぐる訴訟などが指摘されるのが一般的です。
しかし、そう言う私生活のあれこれが創造活動に影響を与えるのはいわゆる「凡人」どもであって、ベートーベンほどの才能がその様な「些事」で創作活動が左右されるという「考え」はそろそろ卒業した方がいいのかもしれません。
つまりは、ベートーベンが行き悩んだのはその様な私生活上の出来事ではなくて、あくまでも音楽の創作に関わる課題だったはずなのです。
それは、言葉をかえれば、中期のベートーベンに至る過程で探求してきた課題を、「全てやりきってしまった」ことこそが最大の課題だったのです。
彼は音楽におけるデュナーミクの拡大に取り組み、それによって彼はそれまでの誰もが考えもしなかったような力を音楽に与えたのでした。
しかし、その拡大路路線は行き着くところまで行き着いてしまった以上、彼はそれとは異なる新しい道を探さねばならなかったのです。この新しい道の模索というのは、ベートーベンほどの才能をもってしても、外からはスランプに陥ったと見られるほどの停滞を招いたのです。
実際、この5年間は大規模な作品はほとんど書いていません。
彼のもっとも得意な分野であるピアノ・ソナタでも作品90と101の小規模なソナタを2曲書いているだけなのです。
しかし、そんな中にあって、この作品101のイ長調ソナタは注目に値します。
何故ならば、そこには新しい道を模索するベートーベンの「実験」の後が刻み込まれているからです。
その事を教えてくれたのがローゼン先生でした。
ローゼン先生はこのピアノ・ソナタと作品102の1のチェロ・ソナタの類似性を指摘しています。
作品101のピアノ・ソナタは一般的には3楽章構成、作品102の1のチェロ・ソナタは2楽章構成と言うことになっているのですが、ローゼン先生はこの2作品はともにアタッカで演奏される4楽章構成の作品と解するべきだと述べています。
ピアノ・ソナタの方は第3楽章の序奏部分としての「Adagio,ma non troppo,con affetto」を第3楽章と見なして、それにトリルで連結される「Allegro」の本体部分だけを第4楽章と見なすのです。
チェロ・ソナタは第1楽章の「Andante」の部分を第1楽章、「Allegro vivace」の部分を第2楽章と見なし、続く第2楽章の「Adagio - d'Andante」の部分を第3楽章、「Allegro vivace」の部分を第4楽章と見なすのです。
そうするとこんな感じになります。
ピアノソナタ第28番 イ長調 作品101
- 第1楽章:Allegretto,ma non troppo
- 第2楽章:Vivace alla Marcia
- 第3楽章:Adagio,ma non troppo,con affetto
- 第4楽章:Allegro
チェロソナタ第4番 ハ長調 作品102-1
- 第1楽章:Andante
- 第2楽章:Allegro vivace
- 第3楽章:Adagio - d'Andante
- 第4楽章:Allegro vivace
こうすると両者は第1楽章が8分の6拍子の叙情的小品、第2楽章は付点リズムの行進曲、第3楽章は終楽章への導入の役割を果たすアダージョであり、終楽章は活気に溢れた4分の2拍子のアレグロになっているのです。
いささか煩わしい説明ではあるのですが、その様に指摘されてあらため「チェロソナタ第4番 ハ長調 作品102-1」を聞き直してみると、その類似性には驚かされるのです。
そして、この似通った構造が音楽の形式としては非常に変わったものであると言うことを考え合わせれば、ベートーベンはここで一つの実験を試みた事は間違いないのです。
そして、そう言う構造を使って彼が実現しようとしたのは力の発現としての音楽ではなくて、繊細さの描写を通して人間の内面を描き出す事だったはずなのです。
しかし、この道はそれほど容易いものではなかったようで、彼はもう一度作品106の巨大なソナタによって中期の自分を総括しなおすことで、ようやくにして作品109からの後期の世界に分け入っていくことができたのです。
それだけに、それら後期のソナタに通底しているある種の悲壮感を「不滅の恋人」との破局に結びつけるような「文学的解釈」とはいい加減に手を切った方がいいのです。
彼は「力」の発言で大いなるものを表現する道を開いた後に、「繊細」さを極めることで「人間の深い内面」を描きうる可能性を示したのです。
もしも、恋人との破局という「些事」が影響を与えたとしたら、それはその様して生み出した音楽が描きうる一つの対象としての意味は持ち得たかもしれません。
しかし、その様な「些事」が音楽の可能性を切り開く原動力となったというのは明らかに誤った解釈と心得るべきでしょう。
豪快さと深い瞑想性の融合
マリア・ユーディナほど深い謎と神秘につつまれたピアニストはいません。そして、その思いは、彼女が演奏したベートーベンのソナタをまとめて聞いてみてさらに強くなりました。
おそらく、これほどに主観性に満ちたベートーベンのピアノ・ソナタは滅多にないでしょう。確かに、例えばホロヴィッツのベートーベンもまたとんでもなく主観性に満ちた演奏なのですが、その主観性が指向する方向性が全く異なるのです。
ユーディナの「奇矯」と言っていいほどの言動はすでに紹介済みです。しかし、そんな事を過去のページから掘り返るのはめんどうだと言う人のために一つだけエピソードを紹介しておきます。
ユーディナを深く愛したのはスターリンでした。そして、スターリンは自分のためだけにモーツァルトのピアノ協奏曲の23番を録音させ、多額の謝礼金(2万ルーブルだったと伝えられています)を彼女に支払いました。ところが、その謝礼金をユーディナは全て教会に寄付をして、スターリンには次のようなメッセージを送ったのです。
「ヨシフ・ヴィッサリオノヴィッチ、あなたの支援に大変感謝いたします。私はこれから、国民や国に対するあなたの罪を神が許してくれるよう、昼も夜も神に祈りを捧げてまいる所存です。慈悲深い神はきっと許してくださることでしょう。いただいた2万ルーブルは、私が通っております教会の改修工事のために遣わせていただきます」
普通ならば間違いなくシベリアの収容所送りだと思うのですが、何故かスターリンはこのメッセージには一切ふれませんでした。それどころか、彼がユーディナに求めたイ長調コンチェルトのレコードはスターリンの死後に彼の執務室から見つかったと伝えられています。それこそ、贈り物などは掃いて捨てるほどあったであろうスターリンにとって、その一枚のレコードはこの上もなく貴重なものであったことだけは事実なのです。
おそらくユーディナほど物質的富よりも精神的なものに価値を求めた人はいないでしょう。
そして、その精神的なものというのは、イデオロギーなどと言う表面的で浮薄なものであるはずもなく、宗教的なものでもなく、さらに言えば何を大切にするかという本質的な価値観のようなものでもなかったように思われます。
それは、人間的な思念の表層にあるものではなくて、言ってみれば「人間という種」がその深層において引き継いできたきたようなものを突き詰めようとしているように思えるのです。もちろん、それがどの様なものかとさらに問われれば、それをこれ以上に語る言葉を持たないのですが、ユーディナの演奏からはその「何もの」かに手が届きそうな思いになる瞬間があるのです。
ユーディナは実演では随分とムラの多い人で、酷いときは本当に酷い演奏を行ったようなのですが、それもまた演奏という行為にそう言う突き詰めたものを求めたが故かもしれません。
ですから、その追求がその深層に手が届きそうになると、それは言語に絶するような音楽が立ちあらわれることになります。
ベートーベンを豪快に演奏するピアニストはいます。
また、ベートーベンの瞑想性を見事に描き出すピアニストもいます。
しかし、その二つを自由自在に行き来して、それを一つの精神世界として描き出して見せたのはユーディナだけでしょう。
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