ベートーヴェン:チェロ・ソナタ第3番 イ長調, Op.69(Beethoven:Cello Sonata No.3 in A major, Op.69)
(Cell)ルートヴィヒ・ヘルシャー:(P)エリー・ナイ 1956年録音(Ludwig Hoelscher:(P)Elly Ney Recorded on 1956)
Beethoven:Cello Sonata No.3 in A major, Op.69 [1.Allegro, ma non tanto]
Beethoven:Cello Sonata No.3 in A major, Op.69 [2.Scherzo. Allegro molto - Trio ]
Beethoven:Cello Sonata No.3 in A major, Op.69 [3.Adagio cantabile -Allegro vivace]
チェロの新約聖書

チェロという楽器はヴァイオリンやヴィオラと比べると独奏楽器として活躍する作品は多くはありません。
例えば、モーツァルトはチェロを独奏楽器とした作品は一つも残していません。これは、チェロを飯の種にする演奏家にとってはかえすがえすも残念なことでしょう。
そんな中で、ベートーベンが5つのチェロソナタを残してくれたことは、バッハの6つの無伴奏組曲とならんで、チェリストに対する福音となっています。
また、ベートーベンのチェロソナタはベートーベンの初期に2つ、中期に1つ、そして後期に2つという具合に、その全生涯にわたって実にバランスよく作曲されたために、1番から順番に5番まで聞き通すと、ベートーベンという偉大な音楽家の歩んだ道をミニチュアを見るように俯瞰できるという「特典」がついてきます。(^^)
俗な言い方になりますが、バッハの無伴奏組曲がチェロの旧約聖書とするなら、ベートーベンのチェロソナタは新約聖書と言っていい存在です。
(1)二つのチェロソナタ 作品5
1796年にベルリンで完成されたこの二つのソナタは、プロイセン国王フリードリヒを念頭に置いて作曲されたと言われています。
よく知られているように、フリードリヒはチェロの名手として知られており、この二つのソナタを献呈する事によって何らかの利益と保証を得ようとしたようです。
初演は宮廷楽団の首席チェリストだったデュポールとベートーベン自身によって国王の前で行われました。
この二つのソナタは、明るくて快活な第1番、感傷的な第2番というように性格的には対照的ですが、ともに長大な序奏部を持っていて、そこでたっぷりとチェロに歌わせるようになっているところは、明らかにフリードリヒを意識した作りになっています。
また、至る所に華やかなピアノのパッセージが鏤められていることも、国王のまでベートーベン自身がピアニストとして演奏することを十分に意識したものだと思われます。
(2)チェロソナタ第3番 作品69
ベートーベンのチェロソナタの中では最もよく知られている作品です。
傑作の森と言われるベートーベン中期を代表するソナタだといえます。第1楽章冒頭の、チェロに相応しいのびのびとしたメロディを聞くだけで思わず引き寄せられるような魅力を内包しています。
全体としてみると、チェロはかなり広い音域にわたって活躍し、とりわけ高音域を自由に駆使することによってピアノと同等に渡り合う地位を獲得しています。
この作品は、ベートーベンの支援者であったグライヘンシュタイン男爵に献呈されています。
当初、男爵にはピアノ協奏曲第4番を献呈するつもりだったのが、ルドルフ大公に献呈してしまったので、かわりにチェロの名手でもあった男爵のためにこの作品を書いたと言われています。
(3)二つのチェロソナタ 作品102
ベートーベンの後期を特徴づける幻想的な雰囲気がこの二つのソナタにもあふれています。
とりわけ、第5番のソナタは第2楽章に長大なアダージョを配して、深い宗教的な感情をたたえています。
この作品は、ラズモフスキー家の弦楽四重奏団のチェロ奏者であったリンケのために書かれ、エルデーディ伯爵夫人に献呈されています。
伯爵夫人はベートーベンの良き理解者であり、私生活上の煩わしい出来事に対しても良き相談相手としてあれこれと尽力してくれた人物でした。
リンケと伯爵夫人の関係については諸説があるようですが、ピアノの名手でもあった伯爵夫人がリンケとともに演奏が楽しめるようにと、夫人への感謝の意味をこめて作曲したと言われています。
矛盾に満ちた安らぎ
ルートヴィヒ・ヘルシャーとエリー・ナイという、ある意味では凄い組み合わせによるベートーベンのチェロソナタ全曲と3つの変奏曲の録音です。
何が凄いのかと言えば、分かる人は分かると思うのですが、ともに元ナチス党員だった過去を持っている二人による録音なのです。
ルートヴィヒ・ヘルシャーについてはすでに少しふれました。彼の場合はナチス政権下で公職に就くために「手段」として入党した雰囲気が濃厚です。戦時下のベルリンフィルにおいてフルトヴェングラーを支えた人物だったようですから、おそらく、基本的にはナチスに対して面従腹背だったのかもしれません。
しかし、エリー・ナイは異なります。
彼女は徹底した反ユダヤ主義の家庭で育ちました。何しろ、彼女の一族はユダヤは人にあらずと考える程の反ユダヤ主義者だったのです。そして、彼女は自分が正しいと信じたことは断固として押し通す生真面目さと強さを持っていましたから、その反ユダヤ主義は彼女という人間の骨格を形成していました。
ですから、11歳でケルン音楽院に進学してイシドール・ザイスのクラスで9年間学ぶのですが、ザイスがユダヤ人だとわかると、彼を心の底から軽蔑して師の元を去っていきました。
そして、ピアニストとしての活動をはじめるようになっても、コンサートであろうと録音であろうと、スタッフにユダヤ人がいないことを絶対の条件としていました。
こういう信念を持ったピアニストが反ユダヤ主義をかかげるナチスに接近するのは当然のことであり、ナチスもまた彼女の才能と名声を最大限に利用して「総統のピアニスト」に祭り上げたのです。そして、困ったことに、そう言われるだけの音楽的才能を持っていたのです。
そんなエリー・ナイは当然の事ながら戦後は演奏活動を禁止され、再び演奏活動が再開できたのは1952年のことでした。この年は、西ドイツが独立を果たし、新しく成立した政府機関を維持するためにナチス時代の官僚などを復帰させる必要に迫られて彼らの公職追放を解除した年でした。
しかし、表だった言動は控えたものの、彼女は己の反ユダヤ種的な信念は決して曲げることはなかったようで、そのため戦後の演奏活動は極めて不遇なものでした。とは言え、それは仕方のない事というか、当然とも言うべき事だったのでしょう。
ところが、心底驚いたのは、そう言う二人によって演奏されたチェロ・ソナタはこの上もなく穏やかで心安らぐ音楽だったことです。
誤解を招く言い方かもしれませんが、ベートーベンの音楽というのは何らかの緊張を聞き手に強いるものです。しかし、この二人の手になるチェロ・ソナタは穏やかで、静かで、そしてリー・ナイのピアノもまた静かで透明感に溢れているのです。
あの骨の髄までの反ユダヤ主義とこのベートーベンの音楽の安らぎに満ちた演奏が私の中ではどうしても上手く結びつかないのです。
そして、もしかしたらナチズムの真のの恐ろしさはこういう矛盾の中にこそ存在していたのかもしれません。
良き市民であり、良き父親である人物が昼間は任務に従ってユダヤ人や反体制派の人々の大量殺戮を行い、家に帰ってからは微笑みを浮かべてモーツァルトの音楽を聞いていたのです。
そんな恐ろしい矛盾がこの二人の演奏の中にも潜んでいると言えば、あまりにも穿ちすぎでしょうか。
NHKはテレビ放送70周年の企画として、1995年に放映した「映像の世紀」をまとめて深夜帯に放送しています。そのドキュメンタリーは淡々とした語りとあるがままの映像が流れるだけなのですが、それ故に見るものに人間の愚かしさを嫌というほど思い知らされます。
昨日は第5集の「人類は地獄を見た」を見ました。その時に頭の中をよぎったのがこの二人の手になるベートーベン演奏でした。
よせられたコメント
2023-03-17:yk
- 私も初めて聴かせていただいた録音です。それにしても、この二人の”戦後”録音と言うのはある意味で貴重なものです。
ナチスと音楽・・・更にはドイツ文化との関係は一筋縄で談じられるものでも、談じられるべきものでもないと考えますが、この演奏を聴き私はトーマス・マンを思い起こしました。彼はドイツ文化の根底にある”ナチス的”なるものについて語り、戦後長編小説「ファウストス博士」を書きますが、その告発はナイの様なナチス党員はもとよりフルトヴェングラー等に代表されるような非党員であってもナチス政権下のドイツに残留し活動した”文化人”に対する最も自省的かつ厳しい告発でも有りました(それ故ドイツ国内でのマンに対する評価は微妙なものがありますが・・・・)。
マンがドイツ文化の何を告発したのか?・・・・ソノ理念的な側面は「ファウストス博士」にも描かれていますが、この演奏のyungさんの言う処の”安らぎ”はその実際の”音(楽)”による具体的な記録(の一例)とも聞く事が出来るように思います。
この”穏やかで、静かで、・・・透明感に溢れ”た音楽の内に矛盾なく共存する狂気は、確かにマンが深い自省の中から見出した”ドイツ文化”的なるものを教えてくれるように思いますが、21世紀になりなおウクライナに侵攻したロシアが存在する”今”となってみると、ソノ”狂気”は単に”ドイツ文化”にだけ潜むものであるかどうか改めて考えさせられるものでもあります。
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