クラシック音楽へのおさそい~Blue Sky Label~

モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番ニ短調, K.466

(P)エリック・ハイドシェック:アンドレ・ヴァンデルノート パリ音楽院管弦楽団 1960年6月3日&8日録音





Mozart:Concerto No. 20 In D Minor For Piano And Orchestra, K.466 [1.Allegr]

Mozart:Concerto No. 20 In D Minor For Piano And Orchestra, K.466 [2.Romance]

Mozart:Concerto No. 20 In D Minor For Piano And Orchestra, K.466 [3.Rondo: (Allegro Assai)]


広大な感情の領域を彷徨う音楽

モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番ニ短調 , K.466

ウィーン時代のモーツァルトは大きな浮き沈みを経験します。それは人気ピアニストとして多くの収入を獲得した前半と、予約演奏会を開いてもほとんど人が集まらなくなった凋落の時代です。
そして、多くの日本の評論家達は、その分かれ目となったのがこのニ短調の協奏曲だったと書いていました。ですから、私も、このあまりにも時代の先を行きすぎたモーツァルトの音楽にウィーンの人々はついて行くことが出来ず、その無理解故にモーツァルトの人気は凋落し、その結果として若くして亡くならざるを得なかったと信じていました。

おそらく、今でもその「説」を信じておられる方は多いのではないでしょうか。しかし、残された手紙などを調べてみれば、このニ短調協奏曲が披露された予約演奏会には多くの人が申し込み、そしてその「素晴らしい音楽」に多くの聴衆は拍手を送ったのです。
ただし問題は、父レオポルドがその演奏会に様子をザルツブルグにいる娘のナンネルに送った手紙の次の一節です。

「6回のコンサートの内最初の演奏会に出かけけましたが、身分の高い人たちがたくさん集まっていました。

何気ない一節ですが、問題はモーツァルトの予約演奏会に参加をしたのは「身分の高い人たち」。つまりは上流貴族が大部分を占めていた事です。そして、彼らの音楽的教養は非常に高くて、おそらくはニ短調という特殊な調性で書かれた第1楽章に少しは驚きもしたでしょうが、それもまた一つの面白い趣向として受け入れるだけの音楽的教養を持っていました。
確かにその音楽は憂鬱であり、当時の常識から言えば広大な感情の領域を彷徨う音楽であり、それは疑いもなくロマン派の時代の音楽を予見させるものでした。しかし、そんな事ぐらいで彼らはモーツァルトを見限るわけはなく、これに続いて21番のハ長調協奏曲等の新作を含む自主興行で、レオポルドは息子が559グルテンを稼いだと手紙でザルツブルグに知らせているのです。

つまりは、モーツァルトを支えた上流貴族達は次々と進化していくモーツァルトを受け入れることはあっても、決して見捨てることはなかったのです。
また、モーツァルトもまたこの憂鬱な第1楽章の気分を振り払うように、最終楽章では明るくハッピーな気持ちで終わらせているのです。つまり、モーツァルトは基本的には作曲家であり演奏家であると同時に興行師でもあり、そのたりの仕掛けには抜かりはなかったのです。

それ故に、ロマン派の時代になると、このニ短調協奏曲の第1楽章は賞賛の対象となっても最終楽章の評判は悪かったのです。とりわけ、若きベートーベンはピアニストとしてこの作品を自分自身の重要なレパートリーとしていたのですが、このハッピーエンドがよほど気に入らなかったようで、自らの手でより悲劇的な形で終われるようにカデンツァを書いていて、これが現在でも最もよく用いられるカデンツァとなっています。

つまりは、ウィーンにおけるモーツァルトの凋落はその音楽の有り様が変化したためではなく、彼を支持していた「上流貴族」達がウィーンを去ってしまったことが最大の原因だったのです。
モーツァルトがこの作品を披露したのは1785年です。そして、その時には1789年のフランス革命に向かう導火線に火はついていて、その影響はハプスブルグ帝国にも及んでいました。長年のプロイセンとの戦争で疲弊し、さらにはハプスブルグ領だった各地で反乱が起こり、またフランス啓蒙思想の影響を受けたヨーゼフ2世の施策はことごとく失敗に帰してその混乱にさらなる拍車をかけました。
そして、そのヨーゼフ2世が亡くなると、そのあとを弟のレオポルト2世が引き継ぐのですが、彼は兄の墓に「善良な意志であるにもかかわらず何事にも成功しなかった人ここに眠る」と記して、兄の開放的な政策から一転して強圧的な政策を次々に実行しはじめたのです。そして、その変化はウィーンに滞在していた上流貴族達にも深刻な影響を与え、彼らの多くは次々と自分の領地に引き上げてしまったのです。

つまりは、モーツァルトの凋落はウィーンの人たちが彼の音楽を理解しなかったのではなくて、彼を支えていた「身分の高い人」達がウィーンを去ってしまったことが最大の原因だったのです。
そして、時代は1789年のフランス革命という発火点を契機として、時代の主役は貴族から市民階級にうつっていくのです。しかし、この時代の市民階級には未だにモーツァルトのような音楽家を支えるだけの力は持ち得ていませんでした。

モーツァルトは1756年に生まれていますが、ベートーベンは1770年に生まれています。この14年の差はこの時代にあっては決定的でした。
ベートーベンがウィーンに出てきたのは1792年であり、ブルク劇場で第1響曲などを公演して交響曲作家としても評価されるようになるのは1800年のことでした。そして、その時には彼は貴族ではなくて市民階級を対象として音楽を書き、フリーランスの作曲家として生きていくことが出来たのでした。

まさに、父レオポルが何気なく手紙にしたためた「身分の高い人たちがたくさん集まっていました。」の一言は途轍もない重しとなって晩年のモーツァルトにのしかかったのでした。

ウィーン時代後半のピアノコンチェルト



  1. 第20番 ニ短調 K.466:1785年2月10日完成

  2. 第21番 ハ長調 K.467:1785年3月9日完成

  3. 第22番 変ホ長調 K.482:1785年12月16日完成

  4. 第23番 イ長調 K.488:1786年3月2日完成

  5. 第24番 ハ短調 K.491:1786年3月24日完成

  6. 第25番 ハ長調 K.503:1786年12月4日完成


9番「ジュノーム」で一瞬顔をのぞかせた「断絶」がはっきりと姿を現し、それが拡大していきます。それが20番以降のいわゆる「ウィーン時代後半」のコンチェルトの特徴です。
そして、その拡大は24番のハ短調のコンチェルトで行き着くところまで行き着きます。
そして、このような断絶が当時の軽佻浮薄なウィーンの聴衆に受け入れられずモーツァルトの人生は転落していったのだと解説されてきました。

しかし、事実は少し違うようです。

たとえば、有名なニ短調の協奏曲が初演された演奏会には、たまたまウィーンを訪れていた父のレオポルドも参加しています。そして娘のナンネルにその演奏会がいかに素晴らしく成功したものだったかを手紙で伝えています。
これに続く21番のハ長調協奏曲が初演された演奏会でも客は大入り満員であり、その一夜で普通の人の一年分の年収に当たるお金を稼ぎ出していることもレオポルドは手紙の中に驚きを持ってしたためています。

この状況は1786年においても大きな違いはないようなのです。
ですから、ニ短調協奏曲以後の世界にウィーンの聴衆がついてこれなかったというのは事実に照らしてみれば少し異なるといわざるをえません。

ただし、作品の方は14番から19番の世界とはがらりと変わります。
それは、おそらくは23番、25番というおそらくは85年に着手されたと思われる作品でも、それがこの時代に完成されることによって前者の作品群とはがらりと風貌を異にしていることでも分かります。
それが、この時代に着手されこの時代に完成された作品であるならば、その違いは一目瞭然です。

とりわけ24番のハ短調協奏曲は第1楽章の主題は12音のすべてがつかわれているという異形のスタイルであり、「12音技法の先駆け」といわれるほどの前衛性を持っています。
また、第3楽章の巨大な変奏曲形式も聞くものの心に深く刻み込まれる偉大さを持っています。

それ以外にも、一瞬地獄のそこをのぞき込むようなニ短調協奏曲の出だしのシンコペーションといい、21番のハ長調協奏曲第2楽章の天国的な美しさといい、どれをとっても他に比べるもののない独自性を誇っています。
これ以後、ベートーベンを初めとして多くの作曲家がこのジャンルの作品に挑戦をしてきますが、本質的な部分においてこのモーツァルトの作品をこえていないようにさえ見えます。

二人の音楽性が見事に一致したモーツァルト


ハイドシェックの名前が世間に知られるようになったのはこのモーツァルトのコンチェルトの録音によってでしょう。
この録音はハイドシェックのピアノも素晴らしいのですが、それと同じくらいヴァンデルノートの指揮が素晴らしいのです。後の世代から俯瞰してみれば、ヴァンデルノートの才能は1957年にパリ音楽院管弦楽団を指揮して録音したモーツァルトの交響曲によってすでに明らかでした。
しかし、その録音は世の中がすでにステレオ録音へと移行しつつある中でモノラルによって録音されたものだったので、それほど多くのの人の目に触れることがなかったようです。

そして、このコンチェルトの録音に関しても、1958年に録音された21番と24番の2曲もまた、信じがたいことにモノラルでしか録音されていませんでした。しかし、さすがに60年以降に録音された残りの4曲はステレオによって録音されていたので、それらは一躍世間の注目を集めるようになりました。そして、その事をきっかっけにしてヴァンデルノートの交響曲録音も一部の好事家から注目されるようになりました。
そのヴァンデルノートの録音に関してはすでに紹介してあるのですが、そこで感じたのは「これは30歳の若者にしか作れなかった音楽だな」という感想でした。

その録音は、ボンヤリと聞いていると一見何もしていないように聞こえなくもありません。しかし、その何もしていないように見えながらも、そこからは若者でしか為しえない、ほとばしるうな生命観に満ちあふれている事に気づかされたものでした。
演奏の基本的なスタンスは、この時代を席巻していたザッハリヒカイトな音楽作りといえるのでしょうが、その音楽からはザッハリヒカイトという言葉から連想される素っ気なさや硬直した雰囲気などは微塵も存在しません。

石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも
そんな万葉の歌が思い起こされるような音楽でした。
そして、そう言う音楽の方向性はまさにハイドシェックの音楽性と見事にマッチしたのでした。

とりわけ、25番のコンチェルトは、まるでベートーベンの初期のコンチェルトを聞いているような錯覚に陥ります。そのダイナミックな音楽の迸りはある意味ではモーツァルトらしくはないのかもしれませんが、聞いてワクワクさせられることは間違いありません。
そして、この一連の録音によってハイドシェックは「モーツァルト弾き」として認識されることになったらしいのですが、彼のピアノは正直言ってモーツァルトが持っている柔らかさよりは、ベートーベン的な直進性が持ち味のように聞こえます。そして、それがヴァンデルノートのの指揮と相まって、1960年に録音されたK.466のニ短調コンチェルトやK.488のイ長調コンチェルトなどは、溢れんばかりの推進力と生命力に溢れています。

こういうハイドシェックのピアノを聞けば、おそらく彼はこの後にベートーベンの世界に踏み込んで行くであろう事は容易に想像がつきますし、現実もその通りになりました。ただし、彼が1967年から開始したベートーベンのソナタ全曲録音は全てパブリック・ドメインとなる前にそこからこぼれ落ちてしまいました。
かえすがえすも残念なことでした。

ちなみに、音楽の方向性はモノラルで1958年に録音されたK.467のハ長調コンチェルトやK.491のハ短調コンチェルトに関しても同じです。
ただし、その二つはモノラルとしても録音のクオリティが良くないのが些か残念です。とりわけ、マスターテープの劣化が原因かと思うのですが、曲の冒頭が実に窮屈な音になってしまっています。しかし、演奏が進むにつれてモノラル最終期に相応しい音質へと回復していきますので、取りあえずは最後までお付き合いしてやってください。

それから、最後になりますが、モーツァルトの最後のピアノ・コンチェルトとなったK.595のコンチェルトはアプローチがそれ以外の5曲とは少し異なっています。
確かに、この簡潔きわまるコンチェルトを今までのようにスッキリと直線的に演奏したのではその透明感に溢れた世界を壊してしまいます。そして、その事はハイドシェックもヴァンデルノートも十分に心得ていたでしょう。そこでは、直線的な推進力は影をひそめ、作品に溢れ津透明感に溢れた悲しみをこの上もなく丁寧にすくい取るように、ニュアンス豊かに歌っていきます。

その意味では、1961年に録音された最後の2曲はそれまでの4曲よりはいろいろな意味で一歩も二歩も踏み込んだ演奏になっているようです。

なお、余談ながら、ヴァンデルノートはこの後にシカゴ交響楽団を指揮してアメリカデビューも果たし、彼のことをクリュイタンスの後継者と見なす人も多くなるのですが、何故かそのすぐ後にベルギー国内のブラバンド管弦楽団というマイナーなオケの首席指揮者に就任して、実質的にドロップ・アウトしてしまいます。おそらく、ペーター・マークと同じように飛行機で飛び回って演奏会場とホテルを行き来するだけの生活に嫌気がさしたのでしょう。
しかし、マークはそう言うマイナーオケで自分の好きな音楽をやりながら、晩年にいたって多くの人を驚嘆させるような音楽を生み出したのですが、ヴァンデルノートはそれほどの音楽を生み出すこともなくフェード・アウトしてしまいました。

そして、ハイドシェックなのですが、彼は2018年にも来日して各地でコンサートを行って多くの人に感銘を与えたようです。(私は実際に聞いていないのであくまでも伝聞です)
そして、亡くなったというニュースにも接していないので今も元気に活動しているのでしょうか。
もしも今も現役だとすれば、84歳ですから、それは不可能なことではありません。

ですから、この偉大なピアニストの業績をパブリック・ドメインで追えるのはごく初期の活動だけとなるのですが、それでも少なくない録音がパブリック・ドメインとなっていたことは有り難い話です。

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