クラシック音楽へのおさそい~Blue Sky Label~

ワーグナー:「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死

ハンス・クナッパーツブッシュ指揮 ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団 1962年11月録音





Wagner:Tristan und Isolde Prelude and Liebestod


愛と情念のドラマ

ワーグナーが書いた数々のオペラの中で最もワーグナー的なオペラがこの「トリスタンとイゾルデ」でしょう。

このオペラはもともと「ニーベルングの指環」を作曲しているときに、それを中断して書かれた作品でした。
理由は簡単、「指環」を一生懸命書いているものの、たとえ完成しても上演の見込みは全くない、これじゃ駄目だ・・・、と言うことで一般受けする軽いオペラを書こうと思い立ったのです。

そこで取り上げたのが「トリスタン伝説」、叔父の花嫁と許されぬ恋におち、悲恋の炎に身を焼かれるように死への道をたどる・・・、うーん、いかにも一般受けしそうです。

ところが、台本書いて、音楽をつけていくうちに、だんだんとふくれあがって来るではないですか。

第1幕のスケッチが終わった時点で、到底、一般受けする小振りなオペラにはならないことをワーグナー自身が悟ります。
第2幕を書き終えた時点で「私の芸術の最高峰だ!」と叫んだそうです。
そして、全曲書き終えたときは「リヒャルト、お前は悪魔の申し子だ!」と叫んだとか。

自惚れと自己顕示欲の塊みたいな男ですから、さもありなんですが、しかし、このオペラに関してだけは、この「叫び」は正当なものでした。

しかし、何とか上演される作品を書こうとしたワーグナーの所期の目的は、この作品があまりにも「偉大」なものになりすぎたが故になかなか上演されないという「不幸」を背負ってしまうことになります。
とりわけ、主役の二人、トリスタンとイゾルデを歌える歌手がほとんどいないと言うことは、この作品を上演するときの最大のネックとなっています。

特に、トリスタンは最後の第3幕はほとんど一人舞台なので、舞台で息を引き取るときは歌手も息を引き取る寸前になる・・・などと言われるほどです。

それから、この作品を取り上げると、お約束のように、前奏曲の冒頭にあらわれる「トリスタン和音」や、無限旋律のことが語られ、それが20世紀の無調の音楽に道を開いたことが語られます。

私は専門家ではないので、こういう楽典的なことをはよく分からないのですが、ただ、ワーグナー自身は「調性の破壊」などという革命的な意図を持ってこの作品を書いたのではないと言うことだけは指摘しておきましょう。頭でっかちの聴き方などはしないで、ごく自然にこの音楽に耳を傾ければ、愛と死に対する濃厚な人間の情念が滔々たる流れとして描かれていることが納得できるはずであり、その世界は極めて安定した調和のある世界として描かれています。

あのトリスタン和音にしても、そう言う安定した調性の世界の中で響くからこそ一種独特の不思議な響きが引き立つのであって、決して機能和声の枠から外れたその響きが作品全体を構成するキイとはなっていないのです。

ただし、ワーグナーが用いたこの響きの中に、全く新しい音楽の世界を切り開く可能性が存在して、その上に20世紀の無調の音楽が発展したことも事実です。
しかし、それはワーグナーにとっては全く与り知らないことであり、そう言う「前衛性」でこの作品を評価するような声を聞くと、私のような「古い人間」は首をかしげざるを得ません。

それから、「イゾルデの愛の死」は第3幕の最後で歌われるもので、驚き悲しむ王がイゾルデに、「なぜにわしをこういう目に合わせるのだ」と問いかけると、イゾルデが「穏やかに、静かに、彼が微笑み」という言葉で始まる、名高い「イゾルデの愛と死」が始まります。
彼女が歌うのは天に昇るトリスタンの姿であり、やがてイゾルデも恋人の亡骸の上に身を投げて息絶えます。

深々と沈潜していく音楽がついに聞き手を無我の境地にまで誘う・・・?


クナパーツブッシュという人はオケに対して決して無理はさせない指揮者だったようです。
ですから、オケの方にやる気があり規律も取れていれば問題はないのですが、いつもいつもその様な理想的な状態でない場合もあって、そう言うときでもその範囲の中でそれなりに仕上げてしまう能力がありました。
さらに言えば、たとえ上手く仕上がらなくて破滅的なことになっても、それはそれで仕方がないと思えるタイプでもあったようです。

最近、彼の1920年代の録音をまとめて聞き直す機会があったのですが、今では考えられないような演奏がたくさん残されていて思わず笑ってしまいました。もちろん、その「今では考えられない」というのは「考えられないほどに素晴らしい」のではなくて「考えられないほどに無茶苦茶で、考えられないほどに酷いアンサンブル」だったのです。
それは「今」どころの話ではなくて、レコードと言うものが一つの産業として体を為し始めた1930年代にあっても考えられないほどの無茶苦茶な録音でした。

そして、いくら20年代とは言え、そんな演奏が「録音」という形で後世に残ることは決して名誉にならないのであって、普通ならばそこで何らかのNGが表明されそうなものなのですが、彼はそう言うことはあまり気にならなかったようなのです。
そして、そう言うスタンスは晩年に至るまで変わることはなく、さすがに20年代のようないい加減さはなかったものの、それでもその場の勢いでデフォルメが酷くなったくらいならばそままの形でリリースしてしまうのです。そして、録音サイドが録り直しを打診しても、そう言うことは無用というのがクナパーツブッシュの姿勢だったのです。

クナパーツブッシュという人は徒弟修行的な音楽の世界にあって、珍しいほどの知性派でした。
なんといっても彼の専門は哲学だったので、劇場的継承を取りあえずは無批判に受け容れて己の腕を磨くという「体育会」的スタンスとは遠い位置にありました。

おそらく、彼にとって演奏という行為は己彼の哲学に従って受容した音楽を聴衆に向かって投げかけるものだったはずです。そして、その哲学は彼の鼓動のように蠢くものであり、そのうごめきに併せて音楽の形は常に姿を変えていくのです。
つまりは、良くても悪くても、音楽の演奏というものはその場限りの一回性のものだったのです。
そう言う意味では、どこかチェリビダッケの哲学と通ずるものがあったのかもしれません。

ただし、クナパーツブッシュは録音を否定はしませんでした。
しかし、その録音は一回限りの演奏を刻み込んだものか、もしくはそれに準じたものであることが大前提であり、最初から技術的に完璧に仕上がった部分を寄せ集めて切り貼りすることを前提にしたような行為であるならば、録音などと言うものは忌まわしいだけだったのです。

何故ならば、その様に音楽が切り刻まれて継ぎ接ぎをされるということは己の生きてうごめく哲学が切り刻まれる事であり、それがいかに姿形が美しく整っていても、彼の主観においてそれはフランケンシュタインのような存在に感じたのかもしれません。
考えてみれば、美しく完璧に仕上げられた録音などと言うものは、その様な美しきフランケンシュタインのような存在かもしれません。

そして、それは一つのパラドックスだと言えると思うのですが、そう言うクナパーツブッシュの姿勢はより完璧な録音を目指そうとするDeccaの録音陣の真摯な姿勢とは相容れなかったのですが、出来る限り安いコストで安直に録音を仕上げようとするウェストミンスターとはジャストフィットしたのです。
ですから、このミュンヘン・フィルと残した最後の録音は、そう言うクナパーツブッシュの良さも悪さも綯い交ぜになって刻み込まれています。

人によっては、ミュンヘン・フィルとの間延びしすぎているとも思えるワーグナー演奏の中で、どうせ間延びしているならば、パルジファルやトリスタンのような音楽の方が、いっそのこと開き直った感じでいいという人もいます。
しかし、もともとが間延びしたように響きやすい音楽がさらに間延びすれば、聞いているうちに眠ってしまいそうになります。
しかし、考えようによっては、それは深々と沈潜していく音楽がついに聞き手を無我の境地にまで誘うと言えなくもありません。(^^;

晩年のクナパーツブッシュの演奏活動はほぼミュンヘンに限定されていました。
そして、異論はあるかもしれませんが、録音に対する偏屈な姿勢も相まって、結果として彼の人気はミュンヘンだけに留まってしまいました。

歴史に「if」はないのですが、もしも彼がカルショーの言い分をある程度は受け容れて、メジャーレーベルであるDeccaから音質的にも優れたオペラ作品を数多く残していれば(そして、それはクナパーツブッシュにその気さえあれば可能だったのです)、そして、その中に「指輪」の全曲なども含まれていれば、欧米における彼の立ち位置は全く変わっていたはずです。

ただしそうなっていればこの国での人気はなかったでしょうから、我々日本の聞き手としては痛し痒しではあります。

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