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        <description>クラシック音楽の配信を行っています。フルトヴェングラーやワルター、トスカニーニなどの歴史的名演を無料でダウンロードできます。</description>
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        <title>Yung Site logo</title>
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        <dc:creator>ユング君</dc:creator>
        <title>グリーグ：ピアノ協奏曲　イ短調　作品16&gt;&gt;&gt;（Ｐ）ギーゼキング　カラヤン指揮　フィルハーモニア管弦楽団　１９５１年６月録音</title>
        <link>http://www.yung.jp/yungdb/op.php?id=1567</link>
        <description>&lt;h3&gt;Ｇ！　ＧｉｓでなくＧ！&lt;/h3&gt;　この作品はグリーグが初めて作曲した、北欧的特徴を持った大作です。１８６７年にソプラノ歌手のニーナと結婚して、翌年には女児アレキサンドラに恵まれるのですが、そのようなグリーグにとってもっとも幸せな時期に生み出された作品でもあります。&lt;br /&gt;
　この作品は今日においても、もっともよく演奏されるピアノ協奏曲の一つですが、初演当時からも熱狂的な成功をおさめるとともに、１８７０年にはグリーグが持参した手稿を初見で演奏したリストによって激賞される（「Ｇ！　ＧｉｓでなくＧ！　これが本当の北欧だ！」）という幸せな軌跡をたどった作品でもあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　グリーグは晩年にもう一曲、ロ短調の協奏曲を計画しますが、健康状態がその完成を許さなかったために、その代わりのようにこの作品の大幅改訂を行っています。この改訂で楽器編成そのものも変更され、スコアそのものもピアノのパートで１００カ所、オーケストレーションで３００前後の変更が加えられました。（管野浩和氏の解説の受け売りです・・・＾＾；）&lt;br /&gt;
　現在一般的に演奏される出版譜はこの改訂稿に基づいていますから、私たちがよく耳にする協奏曲と、グリーグを一躍世界的作曲家に押し上げた初稿の協奏曲とではかなり雰囲気が異なるようです。 </description>
    </item>
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        <dc:date>2012-02-04T15:00:00+00:00</dc:date>
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        <dc:creator>ユング君</dc:creator>
        <title>モーツァルト：ピアノ協奏曲第２４番　ハ短調　K466&gt;&gt;&gt;（Ｐ）ギーゼキング　カラヤン指揮　フィルハーモニア管弦楽団　１９５３年８月録音</title>
        <link>http://www.yung.jp/yungdb/op.php?id=1566</link>
        <description>&lt;h3&gt;モーツァルトのピアノ協奏曲を概観してみれば&lt;/h3&gt;モーツァルトはその生涯において２７曲のピアノ協奏曲を遺したといわれています。しかし、詳しくふり返ってみると事はそれほど単純ではありません。今回は、このことについて簡単にふれておきたいと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず、一般に２７曲といわれるピアノ協奏曲を大きく区切ってみると３つのグループに分かれることは誰の目にも明らかです。&lt;br /&gt;
一つは少年時代の習作に属するグループで、番号でいえば１?４番の協奏曲がこのグループに属します。次は、ザルツブルグの協定に宮仕えをしていた１７７３年から１７７９年に至るいわゆるザルツブルグ時代の作品です。番号でいえば５，６，８，９番の４作品と、３台、２台のピアノのための協奏曲と題された７番、１０番の２作品です。そして、最後は１７８１年にザルツブルグの大司教コロレドと決定的な衝突をしてウィーンに出てきてからの作品です。番号でいえば１１番から２７番に至る１７作品となります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これで、何の問題もないように見えます。発展途上の形式だった交響曲のように、ディヴェルティメントに数えるのか交響曲に数えるのかと悩む必要はありません。しかし、一つひっかかるのがケッヘル番号でいうと１０７番が割り当てられている「クリスティアン・バッハのソナタにもとづく３つの協奏曲」をどのように考えるかです。これは、その名前が示すようにクリスティアン・バッハのチェンバロソナタをそのまま協奏曲に編曲したものです。もし、この作品も「モーツァルトの協奏曲」として数えるならば、少年時代の習作は４ではなくて７となり、モーツァルトのピアノ協奏曲は全部で３０となるわけです。しかし、旧全集ではこの３作品は基本的には「他人の作品」と判定をして「モーツァルトのピアノ協奏曲」からは除外をして、それ以外の作品に１番から２７番までの番号を割り振ったわけです。&lt;br /&gt;
ところが、２０世紀の初頭になって、少年時代の習作として１番から４番までの番号が割り当てられていた作品も、実はK107の作品と同じく、他人のチェンバロソナタを下敷きにして編曲したものであることが判明したのです。ただし、K107がクリスティアンの作品をまるまる下敷きにしたのに対して、１?４番の作品は楽章ごとにいろいろな作品を組み合わせて一つの協奏曲に仕上げていたのです。こうなると１?４番の作品とK107の３作品を区別する必然性はなくなってしまいました。この不整合を解決するためには道は二つしかありません。一つはK107の３作品も「モーツァルトの協奏曲」として数え入れるのか、逆に１?４番の作品を「モーツァルトの協奏曲」から除外してしまうかです。&lt;br /&gt;
この問題に最終的な決定が下ったのは、１９５６年から着手された新全集の刊行においてでした。そこでは、最終的に１?４番の作品を「モーツァルトの協奏曲」から除外するというストイックな方向性が採用されました。しかし、旧全集によって割り振られた番号はすでに広く世間に定着していますから、ナンバーリングを繰り上げるということはしませんでした。これは賢明な判断だったと思われます。&lt;br /&gt;
シューベルトの場合はこのナンバーリングの繰り上げを実施したために（７番が削除されて、９番「グレイト」が８番に、８番「未完成」が７番に繰り上げられた）未だに混乱が続いています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうして、現在では少年時代の習作は「モーツァルトの協奏曲」からは除外され、彼のピアノ協奏曲はザルツブルグ時代の６作品とウィーン時代の１７作品という二つのグループに分かれることになったのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＜ザルツブルグ時代＞&lt;br /&gt;
第５番　K175：１７７３年１２月完成&lt;br /&gt;
=====================================&lt;br /&gt;
第６番　K238：１７７６年１月完成&lt;br /&gt;
第７番　K242：１７７６年２月完成（３台のピアノのための作品）&lt;br /&gt;
第８番　K246：１７７６年４月完成&lt;br /&gt;
第９番　K271：１７７７年１月完成&lt;br /&gt;
=====================================&lt;br /&gt;
第１０番　K365：１７７５年?１７７７年に完成&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第５番の協奏曲がモーツァルトにとっては初めての完全にオリジナルな作品だといえます。彼はこの作品に強い愛着があったようで、ウィーン時代においても何度も演奏会で取り上げ、そのたびにオーケストレーションや楽器の編成などにも手を加えています。今では、K382のコンサート・ロンドとして知られている作品は、ウィーンにおける演奏会でこの作品の第３楽章として作曲されたものです。ですから、K175を第２楽章まできいた後に、それに続けてK382をきけばウィーンでの演奏会を再現できるというわけです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、この後にしばらくの沈黙があって１７７６年から立て続けに５作品が作られています。おそらくは、姉のナンネルの演奏会か、もしくは自分の演奏会のために作曲されたものと思われます。ですから、この作品には当時のザルツブルグの社交界の雰囲気が反映していると思われます。しかし、第９番の「ジュノーム」だけはひときわ異彩をはなっています。ふつうはオーケストラの前奏の後にピアノが登場するのが古典派の常識であるのに、ここでは冒頭からいきなりピアノソロが登場します。また、ハ短調で書かれた第２楽章の陰りを帯びた表情は社交音楽の枠を超えています。K466のニ短調コンチェルトほどではないにしても、ここでも一つの大きな飛躍と断絶が口を開いているように見えます。&lt;br /&gt;
しかし、この後にモーツァルトはザルツブルグの宮廷と決定的な衝突を引き起こし、一人の自立した芸術家としてウィーンでの生活を始めます。そこでは、売れなければ生きていけないわけですから、一瞬姿を現した断絶は閉じてしまいます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＜ウィーン時代＞&lt;br /&gt;
モーツァルトのウィーン時代は大変な浮き沈みを経験します。そして、ピアノ協奏曲という彼にとっての最大の「売り」であるジャンルは、そのような浮き沈みを最も顕著に示すものとなりました。&lt;br /&gt;
この時代の作品をさらに細かく分けると３つのグループとそのどれにも属さない孤独な２作品に分けられるように見えます。&lt;br /&gt;
まず一つめは、モーツァルトがウィーンに出てきてすぐに計画した予約出版のために作曲された３作品です。番号でいうと１１番から１３番の協奏曲がそれに当たります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第１２番　K414：１７８２年秋に完成&lt;br /&gt;
=====================================&lt;br /&gt;
第１１番　K413：１７８３年初めに完成&lt;br /&gt;
第１３番　K415：１７８３年春に完成&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このうち１２番に関してはザルツブルグ時代に手がけられていたものだと考えられています。他の２作品はウィーンでの初仕事として取り組んだ予約出版のために一から作曲された作品だろうと考えられています。その証拠に彼は手紙の中で「予約出版のための作品がまだ２曲足りません」と書いているからです。そして「これらの協奏曲は難しすぎず易しすぎることもないちょうど中程度の」ものでないといけないとも書いています。それでいながら「もちろん、空虚なものに陥ることはありません。そこかしこに通人だけに満足してもらえる部分があります」とも述べています。&lt;br /&gt;
まさに、新天地でやる気満々のモーツァルトの姿が浮かび上がってきます。&lt;br /&gt;
しかし、残念ながらこの予約出版は大失敗に終わりモーツァルトには借金しか残しませんでした。しかし、出版では上手くいかなかったものの、これらの作品は演奏会では大喝采をあび、モーツァルトを一躍ウィーンの寵児へと引き上げていきます。８３年３月２３日に行われた皇帝臨席の演奏会では一晩で１６００グルテンもの収入があったと伝えられています。５００グルテンあればウィーンで普通に暮らしていけたといわれますから、それは出版の失敗を帳消しにしてあまりあるものでした。&lt;br /&gt;
こうして、ウィーンでの売れっ子ピアニストとしての生活が始まり、その需要に応えるために次々と協奏曲が作られ行きます。いわゆる売れっ子ピアニストであるモーツァルトのための作品群が次に来るグループです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第１４番　K449：１７８４年２月９日完成&lt;br /&gt;
=====================================&lt;br /&gt;
第１５番　K450：１７８４年３月１５日完成&lt;br /&gt;
第一六番　K451：１７８４年３月２２日完成&lt;br /&gt;
第１７番　K453：１７８４年４月１２日完成&lt;br /&gt;
第１８番　K456：１７８４年９月３０日完成&lt;br /&gt;
第１９番　K459：１７８４年１２月１１日完成&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１７８４年はモーツァルトの人気が絶頂にあった年で、予約演奏会の会員は１７４人に上り、大小取りまぜて様々な演奏会に引っ張りだこだった年となります。そして、そのような需要に応えるために次から次へとピアノ協奏曲が作曲されていきました。また、このような状況はモーツァルトの中にプロの音楽家としての意識が芽生えさせたようで、彼はこの年からしっかりと自作品目録をつけるようになりました。おかげで、これ以後の作品については完成した日付が確定できるようになりました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、この６作品はモーツァルトが「大協奏曲」と名付けたために「六大協奏曲」と呼ばれることがあります。しかし、モーツァルト自身は第１４番のコンチェルトとそれ以後の５作品とをはっきり区別をつけていました。それは、１４番の協奏曲はバルバラという女性のために書かれたアマチュア向けの作品であるのに対して、それ以後の作品ははっきりとプロのため作品として書かれているからです。つまり、この１４番も含めてそれ以前の作品にはアマとプロの境目が判然としないザルツブルグの社交界の雰囲気を前提としているのに対して、１５番以降の作品はプロがその腕を披露し、その名人芸に拍手喝采するウィーンの社交界の雰囲気がはっきりと反映しているのです。ですから、１５番以降の作品にはアマチュアの弾き手に対する配慮は姿を消します。&lt;br /&gt;
そうでありながら、これらの作品群に対する評価は高くありませんでした。実は、この後に来る作品群の評価があまりにも高いが故に、その陰に隠れてしまっているという側面もありますが、当時のウィーンの社交界の雰囲気に迎合しすぎた底の浅い作品という見方もされてきました。しかし、最近はそのような見方が１９世紀のロマン派好みのバイアスがかかりすぎた見方だとして次第に是正がされてきているように見えます。オーケストラの響きが質量ともに拡張され、それを背景にピアノが華麗に明るく、また時には陰影に満ちた表情を見せる音楽は決して悪くはありません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、これに続くのが第２０番から２５番までの６作品です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第２０番　K466：１７８５年２月１０日完成&lt;br /&gt;
第２１番　K467：１７８５年３月９日完成&lt;br /&gt;
第２２番　K482：１７８５年１２月１６日完成&lt;br /&gt;
第２３番　K488：１７８６年３月２日完成&lt;br /&gt;
第２４番　K466：１７８６年３月２４日完成&lt;br /&gt;
第２５番　K491：１７８６年１２月４日完成&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここには断絶があります。&lt;br /&gt;
９番「ジュノーム」で一瞬顔をのぞかせた「断絶」がはっきりと姿を現し、それが拡大していきます。そして、その拡大は２４番のハ短調のコンチェルトで行き着くところまで行き着きます。そして、このような断絶が当時の軽佻浮薄なウィーンの聴衆に受け入れられずモーツァルトの人生は転落していったのだと解説されてきました。&lt;br /&gt;
しかし、事実は少し違うようです。&lt;br /&gt;
たとえば、有名なニ短調の協奏曲が初演された演奏会には、たまたまウィーンを訪れていた父のレオポルドも参加しています。そして娘のナンネルにその演奏会がいかに素晴らしく成功したものだったかを手紙で伝えています。そして、これに続く２１番のハ長調協奏曲が初演された演奏会でも客は大入り満員であり、その一夜で普通の人の一年分の年収に当たるお金を稼ぎ出していることもレオポルドは手紙の中に驚きを持ってしたためています。そして、この状況は１７８６年においても大きな違いはないようなのです。ですから、ニ短調協奏曲以後の世界にウィーンの聴衆がついてこれなかったというのは事実に照らしてみれば少し異なるといわざるをえません。&lt;br /&gt;
ただし、作品の方は１４番から１９番の世界とはがらりと変わります。それは、おそらくは２３番、２５番というおそらくは８５年に着手されたと思われる作品でも、それがこの時代に完成されることによって前者の作品群とはがらりと風貌を異にしていることでも分かります。それが、この時代に着手されこの時代に完成された作品であるならば、その違いは一目瞭然です。とりわけ２４番のハ短調協奏曲は第１楽章の主題は１２音のすべてがつかわれているという異形のスタイルであり、「１２音技法の先駆け」といわれるほどの前衛性を持っています。また、第３楽章の巨大な変奏曲形式もきくものの心に深く刻み込まれる偉大さを持っています。それ以外にも、一瞬地獄のそこをのぞき込むようなニ短調協奏曲の出だしのシンコペーションといい、２１番のハ長調協奏曲第２楽章の天国的な美しさといい、どれをとっても他に比べるもののない独自性を誇っています。&lt;br /&gt;
これ以後、ベートーベンを初めとして多くの作曲家がこのジャンルの作品に挑戦をしてきますが、本質的な部分においてこのモーツァルトの作品をこえていないようにさえ見えます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、この後に２つの作品が残されることになります。ユング君はこれらをどのグループにも属さない孤独な２作品と書きました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第２６番　k537：１７７８年２月２４日完成&lt;br /&gt;
第２７番　K595：１７９１年１月５日完成&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時代のモーツァルトは演奏会を行っても客が集まらず困窮の度合いを深めていくと言われてきました。しかし、これもまた最近の研究によると少しばかり事情が異なることが分かってきました。&lt;br /&gt;
たとえば、有名な３９番?４１番の３大交響曲も従来は演奏される当てもなく作曲されたと言われてきましたが、現在でははっきりとした資料は残っていないものの何らかの形で演奏されたのではないかと言われています。確かに、予約演奏会という形ではその名簿に名前を連ねてくれる人はいなくなったのですが、当時の演奏会記録を丹念に調べてみると、依然としてウィーンにおけるモーツァルトの人気は高かったことが伺えます。ですから、確かに人気が絶頂にあった時代と比べれば収入は落ち込んだでしょうが、世間一般の常識とくべれば十分すぎるほどの収入があったことが最近になって分かってきました。&lt;br /&gt;
この時代にモーツァルトはフリーメイソンの盟友であるプフベルグ宛に泣きたくなるような借金の依頼を繰り返していますが、それは従来言われたような困窮の反映ではなく、生活のレベルを落とすことのできないモーツァルト一家の支出の多さの反映と見るべきもののようです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから、２６番の「戴冠式」と題された協奏曲もウィーンでだめならフランクフルトで一旗揚げてやろうという山っ気たっぷりの作品と見るべきもののようです。ですから、借金をしてまでフランクフルトで演奏会をおこなったのは悲壮な決意で乗り込んだと言うよりは、もう少し脂ぎった思惑があったと見る方が現実に近いのかもしれません。そして、己の将来を切り開くべく繰り出した作品なのですから、モーツァルトとしてもそれなりに自信のあった作品だと見ていいでしょう。ここでは、一度開ききった断絶が再び閉じようとしているように見えます。&lt;br /&gt;
しかし、残念ながらこの演奏会はモーツァルトが期待したような結果をもたらしてくれませんでした。そして、人気ピアニストとしてのモーツァルトの活動はこれを持って事実上終わりを告げます。ロマン派の音楽家ならば演奏されるあてがなくても己の感興の赴くままに作曲はするでしょうが、モーツァルトの場合はピアニストとしての活動が終わりを告げれば協奏曲が創作されなくなるのは理の当然です。ですから、この後にモーツァルトは再び交響曲に戻っていくことになり例の３大交響曲を残すことになるわけです。&lt;br /&gt;
そんなモーツァルトが死の１年前の１７９１年に突然一つのピアノ協奏曲を残します。K595の変ロ長調の協奏曲です。作品はその年の１月に完成され、３月４日のクラリネット奏者ヨーゼフ・ベーアが主催する演奏会で演奏されました。そして、それがコンサートピアニストとしての最後の舞台となりました。&lt;br /&gt;
アインシュタインはこの作品について「この曲は・・・永遠への戸口に立っている。」「彼がその最後の言葉を述べたのはレクイエムにおいてではなく、この作品においてである。」と述べています。&lt;br /&gt;
しかし、これもまた最近の研究により、この作品の素材が１７７８年頃にほとんどできあがっていたことを示唆するようになり、アインシュタインの言葉はその根拠を失おうとしています。実際、この時代のモーツァルトは交響曲作家としてイギリスに渡る道があったにもかかわらずそれを断り、ドイツ語によるドイツオペラの創作という夢に向かって進み始めていたのです。ですから、アインシュタインのようなモーツァルト理解は幾分かは１９世紀的バイアスがかかったものとしてみておく必要があるようです。&lt;br /&gt;
ただし、コンサートピアニストとしての活動が終わったことは自覚していたでしょうから、その意味ではこれは「訣別」の曲と言っても間違いないのかもしれません。しかし、はたしてアインシュタインが言ったように「人生への訣別」だったのかは議論の分かれるところでしょう。 </description>
    </item>
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        <dc:creator>ユング君</dc:creator>
        <title>モーツァルト：ピアノ協奏曲第２３番　イ長調 K.488&gt;&gt;&gt;（Ｐ）ギーゼキング　カラヤン指揮　フィルハーモニア管弦楽団　１９５１年６月録音</title>
        <link>http://www.yung.jp/yungdb/op.php?id=1565</link>
        <description>&lt;h3&gt;ヴェールをかぶった熱情&lt;/h3&gt;モーツァルトにとってイ長調は多彩の調性であり、教会の多彩なステンドグラスの透明さの調性である。（アルフレート・アインシュタイン）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
モーツァルトは、k466（ニ短調：２０番）、K467（ハ長調：２１番）で、明らかに行き過ぎてしまいました。そのために自分への贔屓が去っていくのを感じたのか、それに続く二つのコンチェルトはある意味での先祖帰りの雰囲気を持っています。&lt;br /&gt;
構造が簡単で主題も明確、そしてオケとピアノの関係も常識的です。&lt;br /&gt;
事実、この作品で、幾ばくかはウィーンの聴衆の支持を回復することができたようです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、一度遠い世界へとさまよい出てしまったモーツァルトが、聴衆の意を迎え入れるためだけに昔の姿に舞い戻るとは考えられません。そう、両端楽章に挟まれた中間のアンダンテ楽章は紛れもなく遠い世界へさまよい出たモーツァルトの姿が刻印されています。&lt;br /&gt;
それは深い嘆きと絶望の音楽です。&lt;br /&gt;
ただし、そのようなくらい熱情はヴェールが被されることによって、その本質はいくらかはカモフラージュされています。このカモフラージュによってモーツァルトはかろうじてウィーンの聴衆の支持をつなぎ止めたわけです。&lt;br /&gt;
遠い世界へさまよい出ようとするモーツァルトと、ウィーンの聴衆の支持を引き止めようとするモーツァルト。この二つのモーツァルトの微妙な綱引きの狭間で、奇跡的なバランスを保って成立したのがこの作品でした。しかし、そのような微妙なバランスをいつまでも保ち続けることができるはずがありません。&lt;br /&gt;
続くK491（ハ短調：２４番）のコンチェルトでモーツァルトはそのくらい熱情を爆発させ、そしてウィーンの聴衆は彼のもとを去っていきます。</description>
    </item>
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        <dc:creator>ユング君</dc:creator>
        <title>ベートーベン：ピアノ協奏曲第５番　変ホ長調　Op.７３　「皇帝」&gt;&gt;&gt;（Ｐ）ギーゼキング　カラヤン指揮　フィルハーモニア管弦楽団　1951年6月録音</title>
        <link>http://www.yung.jp/yungdb/op.php?id=1564</link>
        <description>&lt;h3&gt;演奏者の即興によるカデンツァは不必要&lt;/h3&gt;ピアノ協奏曲というジャンルはベートーベンにとってあまりやる気の出る仕事ではなかったようです。ピアノソナタが彼の作曲家人生のすべての時期にわたって創作されているのに、協奏曲は初期から中期に至る時期に限られています。&lt;br /&gt;
第５番の、通称「皇帝」と呼ばれるこのピアノコンチェルトがこの分野における最後の仕事となっています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それはコンチェルトという形式が持っている制約のためでしょうか。&lt;br /&gt;
これはあちこちで書いていますので、ここでもまた繰り返すのは気が引けるのですが、やはり書いておきます。（＾＾；&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いつの時代にあっても、コンチェルトというのはソリストの名人芸披露のための道具であるという事実からは抜け出せません。つまり、ソリストがひきたつように書かれていることが大前提であり、何よりも外面的な効果が重視されます。&lt;br /&gt;
ベートーベンもピアニストでもあったわけですから、ウィーンで売り出していくためには自分のためにいくつかのコンチェルトを創作する必要がありました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、上で述べたような制約は、何よりも音楽の内面性を重視するベートーベンにとっては決して気の進む仕事でなかったことは容易に想像できます。&lt;br /&gt;
そのため、華麗な名人芸や華やかな雰囲気を保ちながらも、真面目に音楽を聴こうとする人の耳にも耐えられるような作品を書こうと試みました。（おそらく最も厳しい聞き手はベートーベン自身であったはずです。）&lt;br /&gt;
その意味では、晩年のモーツァルトが挑んだコンチェルトの世界を最も正当な形で継承した人物だといえます。&lt;br /&gt;
実際、モーツァルトからベートーベンへと引き継がれた仕事によって、協奏曲というジャンルはその夜限りのなぐさみものの音楽から、まじめに聞くに値する音楽形式へと引き上げられたのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ベートーベンのそうのような努力は、この第５番の協奏曲において「演奏者の即興によるカデンツァは不必要」という域にまで達します。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分の意図した音楽の流れを演奏者の気まぐれで壊されたくないと言う思いから、第１番のコンチェルトからカデンツァはベートーベン自身の手で書かれていました。しかし、それを使うかどうかは演奏者にゆだねられていました。自らがカデンツァを書いて、それを使う、使わないは演奏者にゆだねると言っても、ほとんどはベートーベン自身が演奏するのですから問題はなかったのでしょう。&lt;br /&gt;
しかし、聴力の衰えから、第５番を創作したときは自らが公開の場で演奏することは不可能になっていました。&lt;br /&gt;
自らが演奏することが不可能となると、やはり演奏者の恣意的判断にゆだねることには躊躇があったのでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、その様な決断は、コンチェルトが名人芸の披露の場であったことを考えると画期的な事だったといえます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、これを最後にベートーベンは新しい協奏曲を完成させることはありませんでした。聴力が衰え、ピアニストとして活躍することが不可能となっていたベートーベンにとってこの分野の仕事は自分にとってはもはや必要のない仕事になったと言うことです。&lt;br /&gt;
そして、そうなるとこのジャンルは気の進む仕事ではなかったようで、その後も何人かのピアノストから依頼はあったようですが完成はさせていません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ベートーベンにとってソナタこそがピアノに最も相応しい言葉だったようです 。 </description>
    </item>
    <item rdf:about="http://www.yung.jp/yungdb/op.php?id=1563">
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        <dc:date>2012-02-03T15:00:00+00:00</dc:date>
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        <dc:creator>ユング君</dc:creator>
        <title>ベートーベン：ピアノ協奏曲第４番　ト長調　Op.５８&gt;&gt;&gt;（Ｐ）ギーゼキング　カラヤン指揮　フィルハーモニア管弦楽団　1951年6月録音</title>
        <link>http://www.yung.jp/yungdb/op.php?id=1563</link>
        <description>&lt;h3&gt;新しい世界への開拓&lt;/h3&gt;１８０５年に第３番の協奏曲を完成させたベートーベンは、このパセティックな作品とは全く異なる明るくて幸福感に満ちた新しい第４番の協奏曲を書き始めます。そして、翌年の７月に一応の完成を見たものの多少の手なしが必要だったようで、最終的にはその年の暮れ頃に完成しただろうと言われています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この作品はピアノソナタの作曲家と交響曲の作曲家が融合した作品だと言われ、特にこの時期のベートーベンのを特徴づける新しい世界への開拓精神があふれた作品だと言われてきました。&lt;br /&gt;
それは、第１楽章の冒頭においてピアノが第１主題を奏して音楽が始まるとか、第２楽章がフェルマータで終了してそのまま第３楽章に切れ目なく流れていくとか、そう言う形式的な面だけではなりません。もちろんそれも重要な要因ですが、それよりも重要なことは作品全体に漂う即興性と幻想的な性格にこそベートーベンの新しいチャレンジがあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その意味で、この作品に呼応するのが交響曲の第４番でしょう。&lt;br /&gt;
壮大で構築的な「エロイカ」を書いたベートーベンが次にチャレンジした第４番はガラリとその性格を変えて、何よりもファンタジックなものを交響曲という形式に持ち込もうとしました。それと同じ方向性がこの協奏曲の中にも流れています。&lt;br /&gt;
パセティックでアパショナータなベートーベンは姿を潜め、ロマンティックでファンタジックなベートーベンが姿をあらわしているのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とりわけ、第２楽章で聞くことの出来る「歌」の素晴らしさは、その様なベートーベンの新生面をはっきりと示しています。&lt;br /&gt;
「復讐の女神たちをやわらげるオルフェウス」とリストは語りましたし、ショパンのプレリュードにまでこの楽章の影響が及んでいることを指摘する人もいます。&lt;br /&gt;
そして、これを持ってベートーベンのピアノ協奏曲の最高傑作とする人もいます。ユング君も個人的には第５番の協奏曲よりもこちらの方を高く評価しています。（そんなことはどうでもいい！と言われそうですが・・・）</description>
    </item>
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        <dc:date>2012-01-28T15:00:00+00:00</dc:date>
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        <dc:creator>ユング君</dc:creator>
        <title>シベリウス：交響曲第2番 ニ長調 op.43&gt;&gt;&gt;カラヤン指揮　フィルハーモニア管弦楽団　1960年3月録音</title>
        <link>http://www.yung.jp/yungdb/op.php?id=1562</link>
        <description>&lt;h3&gt;シベリウスの田園交響曲？&lt;/h3&gt;シベリウスの作品の中ではフィンランディアと並んでもっとも有名な作品です。そして、シベリウスの田園交響曲と呼ばれることもあります。もちろん、ベートーベンの第６番を念頭に置いた比喩ですが、あちらがウィーン郊外の伸びやかな田園風景だとすれば、こちらは疑いもなく森と湖に囲まれたフィンランドの田園風景です。&lt;br /&gt;
さらに、この作品にはフィンランドの解放賛歌としての側面もあります。重々しい第２楽章と荒々しい第３楽章を受けた最終楽章が壮麗なフィナーレで結ばれるところが、ロシアの圧政に苦しむフィンランド民衆の解放への思いを代弁しているというもので、この解釈はシベリウスの権威と見なされていたカヤヌスが言い出したものだけに広く受け入れられました。&lt;br /&gt;
もっとも、シベリウス本人はその様な解釈を否定していたようです。&lt;br /&gt;
言うまでもないことですが、この作品の暗から明へというスタイルはベートーベン以降綿々と受け継がれてきた古典的な交響曲の常套手段ですから、シベリウスは自分の作品をフィンランドの解放というような時事的な際物としてではなく、その様な交響曲の系譜に連なるものとして受け取って欲しかったのかもしれません。&lt;br /&gt;
しかし、芸術というものは、それが一度生み出されて人々の中に投げ込まれれば、作曲家の思いから離れて人々が求めるような受け入れ方をされることを拒むことはできません。シベリウスの思いがどこにあろうと、カヤヌスを初めとしたフィンランドの人々がこの作品に自らの独立への思いを代弁するものとしてとらえたとしても、それを否定することはできないと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この作品は第１番の初演が大成功で終わるとすぐに着手されたようですが、本格的取り組まれたのはアクセル・カルペラン男爵の尽力で実現したイタリア旅行においてでした。&lt;br /&gt;
この作品の中に横溢している牧歌的で伸びやかな雰囲気は、明らかにイタリアの雰囲気が色濃く反映しています。さらに、彼がイタリア滞在中にふれたこの国の文化や歴史もこの作品に多くのインスピレーションを与えたようです。よく言われるのは第２楽章の第１主題で、ここにはドンファン伝説が影響を与えていると言われています。&lt;br /&gt;
しかし、結局はイタリア滞在中にこの作品を完成させることができなかったシベリウスは、フィンランドに帰国したあとも精力的に作曲活動を続けて、イタリア旅行の年となった１９０１年の末に完成させます。&lt;br /&gt;
一度聞けば誰でも分かるように、この作品は極めて少ない要素で作られています。そのため、全体として非常に見通しのよいすっきりとした音楽になっているのですが、それが逆にいささか食い足りなさも感じる原因となっているようです。その昔、この作品を初めて聞いた私の友人は最終楽章を評して「何だかハリウッドの映画音楽みたい」とのたまいました。先入観のない素人の意見は意外と鋭いものです。&lt;br /&gt;
正直言うと、ユング君は若い頃はこの作品はとても大好きでよく聴いたものですが、最近はすっかりご無沙汰していました。やはり、食い足りないんですね。皆さんはいかがなものでしょうか？ </description>
    </item>
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        <dc:date>2012-01-28T15:00:00+00:00</dc:date>
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        <dc:creator>ユング君</dc:creator>
        <title>シベリウス：交響曲第5番 変ホ長調 op.82&gt;&gt;&gt;カラヤン指揮　フィルハーモニア管弦楽団　1960年9月録音</title>
        <link>http://www.yung.jp/yungdb/op.php?id=1561</link>
        <description>&lt;h3&gt;影の印象派&lt;/h3&gt;この作品はよく知られているように、シベリウスの生誕５０年を祝う記念式典のメインイベントとして計画されました。彼を死の恐怖に陥れた喉の腫瘍もようやくにして快癒し、伸びやかで明るさに満ちた作品に仕上がっています。&lt;br /&gt;
しかし、その伸びやかさや明るさは２番シンフォニーに溢れていたものとはやはりどこか趣が異なります。&lt;br /&gt;
それは、最終楽章で壮大に盛り上がったフィナーレが六つの和音によって突然断ち切られるように終わるところに端的にあらわれています。さらに、若い頃の朗々とした旋律線は姿を消して、全体として動機風の短く簡潔な旋律がパッチワークのように組み合わされるようになっています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
誰の言葉かは忘れましたが、この後期のシベリウスとドビュッシーの親近性を指摘し、〜実際シベリウスとドビュッシーは１９０９年にヘンリー・ウッドの自宅で出会い、さらにドビュッシーの指揮する「牧神の午後」などを聞いて「われわれの間にはすぐに結びつきが出来た」と述べています〜ドビュッシーを光の印象主義だとすれば、シベリウスは影の印象主義だと述べた人がいました。上手いこというものだと感心させられたのですが、まさにここで描かれるシベリウスの田園風景における主役は光ではなく影であることを指摘されると、なるほどと納得させられます。第４番シンフォニーではその世界があまりにも深い影に塗りつぶされていたのに対して、この第５番シンフォニーは影の中に光が燦めいています。&lt;br /&gt;
シベリウスは日記の中で、この交響曲のイメージをつかんだ瞬間を次のようにしたためています。&lt;br /&gt;
「日はくすみ、冷たい。しかし春はクレッシェンドで近づいてくる。・・・白鳥たちは私の頭上を長い間旋回し、にぶい太陽の光の中に銀の帯のように消えていった。時々背を輝かせながら。白鳥の鳴き声はトランペットに似てくる。赤子の泣き声を思わせるリフレイン。自然の神秘と生の憂愁、これこそ第５交響曲のフィナーレ・テーマだ。」&lt;br /&gt;
彼こそは本当に影の印象派だったのです。 </description>
    </item>
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        <dc:date>2012-01-27T15:00:00+00:00</dc:date>
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        <dc:creator>ユング君</dc:creator>
        <title>ハイドン：交響曲第98番　変ロ長調&gt;&gt;&gt;クレンペラー指揮　フィルハーモニア管弦楽団　1960年1月録音</title>
        <link>http://www.yung.jp/yungdb/op.php?id=1560</link>
        <description>&lt;h3&gt;ザロモン演奏会の概要&lt;/h3&gt;エステルハージ候の死によって事実上自由の身となってウィーンに出てきたハイドンに、「イギリスで演奏会をしませんか」と持ちかけてきたのがペーター・ザロモンでした。&lt;br /&gt;
彼はロンドンにおいてザロモン・コンサートなる定期演奏会を開催していた興行主でした。&lt;br /&gt;
当時ロンドンでは彼の演奏会とプロフェッショナル・コンサートという演奏会が激しい競争状態にありました。そして、その競争相手であるプロフェッショナル・コンサートはエステルハージ候が存命中にもハイドンの招聘を何度も願い出ていました。しかし、エステルハージ候がその依頼には頑としてイエスと言わなかったために、やむなく別の人物を指揮者として招いて演奏会を行っていたという経緯がありました。&lt;br /&gt;
それだけに、ザロモンはエステルハージ候の死を知ると素早く行動を開始し、破格とも言えるギャランティでハイドンを口説き落とします。&lt;br /&gt;
そのギャラとは、伝えられるところによると、「新作の交響曲に対してそれぞれ一曲あたり３００ポンド、それらの指揮に対して１２０ポンド」等々だったといわれています。ハイドンが３０年にわたってエステルハ?ジ家に仕えることで貯蓄できたお金は２００ポンドだったといわれますから、これはまさに「破格」の提示でした。&lt;br /&gt;
このザロモンによる口説き落としによって、１７９１年・１７９２年・１７９４年の３年間にハイドンを指揮者に招いてのザロモン演奏会が行われることになりました。そして、ハイドンもその演奏会のために９３番から１０４番に至る多くの名作、いわゆる「ザロモン・セット」とよばれる交響曲を生み出したわけですから、私たちはザロモンに対してどれほどの感謝を捧げたとして捧げすぎるということはありません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第１期ザロモン交響曲（第９３番?９８番）&lt;br /&gt;
１７９１年から９２年にかけて作曲され、演奏された作品を一つにまとめて「第１期ザロモン交響曲」とよぶのが一般化しています。この６曲は、９１年に作曲されて、その年に初演された９６番と９５番、９１年に作曲されて９２年に初演された９３番と９４番、そして９２年に作曲されてその年に初演された９８番と９７番という三つのグループに分けることが出来ます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＜第１グループ＞&lt;br /&gt;
・９６番「奇跡」：９１年作曲　９１年３月１１日初演&lt;br /&gt;
・９５番　　　　：９１年作曲　９１年４月１日or４月２９日初演&lt;br /&gt;
＜第２グループ＞&lt;br /&gt;
・９３番　　　　：９１年作曲　９２年２月１７日初演&lt;br /&gt;
・９４番「驚愕」：９１年作曲　９２年３月２３日初演&lt;br /&gt;
＜第３グループ＞&lt;br /&gt;
・９８番　　　　：９２年作曲　９２年３月２日初演&lt;br /&gt;
・９７番　　　　：９２年作曲　９２年５月３日or５月４日初演&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
９１年はハイドンを招いての演奏会は３月１１日からスタートし、その後ほぼ週に一回のペースで行われて、６月３日にこの年の最後の演奏会が行われています。これ以外に５月１６日に慈善演奏会が行われたので、この年は都合１３回の演奏会が行われたことになります。&lt;br /&gt;
これらの演奏会は「聴衆は狂乱と言っていいほどの熱狂を示した」といわれているように、ザロモン自身の予想をすら覆すほどの大成功をおさめました。また、ハイドン自身も行く先々で熱狂的な歓迎を受け、オックスフォード大学から音楽博士号を受けるという名誉も獲得します。&lt;br /&gt;
この大成功に気をよくしたザロモンは、来年度もハイドンを招いての演奏会を行うということを大々的に発表することになります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
９２年はプロフェッショナル・コンサートがハイドンの作品を取り上げ、ザロモン・コンサートの方がプレイエルの作品を取り上げるというエールの交換でスタートします。&lt;br /&gt;
そして、その翌週の２月１７日から５月１８日までの１２回にわたってハイドンの作品が演奏されました。この年は、これ以外に６月６日に臨時の追加演奏会が行われ、さらに５月３日に昨年同様に慈善演奏会が行われています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第２期ザロモン交響曲（第９９番?１０４番）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１９７４年にハイドンはイギリスでの演奏会を再び企画します。&lt;br /&gt;
しかし、形式的には未だに雇い主であったエステルハージ候は「年寄りには静かな生活が相応しい」といって容易に許可を与えようとはしませんでした。このあたりの経緯の真実はヤブの中ですが、結果的にはイギリスへの演奏旅行がハイドンにとって多大な利益をもたらすことを理解した候が最終的には許可を与えたということになっています。&lt;br /&gt;
しかし、経緯はどうであれ、この再度のイギリス行きが実現し、その結果として後のベートーベンのシンフォニーへとまっすぐにつながっていく偉大な作品が生み出されたことに私たちは感謝しなければなりません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この９４年の演奏会は、かつてのような社会現象ともいうべき熱狂的な騒ぎは巻き起こさなかったようですが、演奏会そのものは好意的に迎え入れられ大きな成功を収めることが出来ました。&lt;br /&gt;
演奏会はエステルハージ候からの許可を取りつけるに手間取ったために一週間遅れてスタートしました。しかし、２月１０日から始まった演奏会は、いつものように一週間に一回のペースで５月１２日まで続けられました。そして、この演奏会では９９番から１０１番までの三つの作品が演奏され、とりわけ第１００番「軍隊」は非常な好評を博したことが伝えられています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・　９９番　　　　：９３年作曲　９４年２月１０日初演&lt;br /&gt;
・１０１番「時計」：９４年作曲　９４年３月３日初演&lt;br /&gt;
・１００番「軍隊」：９４年作曲　９４年３月３１日初演&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
フランス革命による混乱のために、優秀な歌手を呼び寄せることが次第に困難になったためにザロモンは演奏会を行うことが難しくなっていきます。そして、１７９５年の１月にはついに同年の演奏会の中止を発表します。しかし、イギリスの音楽家たちは大同団結をして「オペラ・コンサート」と呼ばれる演奏会を行うことになり、ハイドンもその演奏会で最後の３曲（１０２番?１０４番）を発表しました。&lt;br /&gt;
そのために、厳密にいえばこの３曲をザロモンセットに数えいれるのは不適切かもしれないのですが、一般的にはあまり細かいことはいわずにこれら三作品もザロモンセットの中に数えいれています。&lt;br /&gt;
ただし、ザロモンコンサートが９４年にピリオドをうっているのに、最後の三作品の初演が９５年になっているのはその様な事情によります。&lt;br /&gt;
このオペラコンサートは２月２日に幕を開き、その後２週間に一回のペースで開催されました。そして、５月１８日まで９回にわたって行われ、さらに好評に応えて５月２１日と６月１日に臨時演奏会も追加されました&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・１０２番　　　　　　：９４年作曲　９５年２月２日初演&lt;br /&gt;
・１０３番「太鼓連打」：９５年作曲　９５年３月２日初演&lt;br /&gt;
・１０４番「ロンドン」：９５年作曲　９５年５月４日初演&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ハイドンはこのイギリス滞在で２４００ポンドの収入を得ました。そして、それを得るためにかかった費用は９００ポンドだったと伝えられています。エステルハージ家に仕えた辛苦の３０年で得たものがわずか２００ポンドだったことを考えれば、それは想像もできないような成功だったといえます。&lt;br /&gt;
ハイドンはその収入によって、ウィーン郊外の別荘地で一切の煩わしい出来事から解放されて幸福な最晩年をおくることができました。ハイドンは晩年に過ごしたこのイギリス時代を「一生で最も幸福な時期」と呼んでいますが、それは実に納得のできる話です。 </description>
    </item>
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        <dc:date>2012-01-27T15:00:00+00:00</dc:date>
        <dc:source>http://www.yung.jp/index.php</dc:source>
        <dc:creator>ユング君</dc:creator>
        <title>ハイドン：交響曲第101番　ニ長調　「時計」&gt;&gt;&gt;クレンペラー指揮　フィルハーモニア管弦楽団　1960年1月録音</title>
        <link>http://www.yung.jp/yungdb/op.php?id=1559</link>
        <description>&lt;h3&gt;ハイドンの人気曲&lt;/h3&gt;「交響曲第○○番」とか、「作品番号○○番　嬰ハ短調」などと言うよりも、何かタイトルが付いている方が親しみやすさを感じるようです。この作品も、「交響曲第１０１番　ニ長調」と言うよりは「時計」と言うニックネームの方が親しみやすさを感じます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ハイドンはその生涯に１００をこえる交響曲を残しましたが、タイトルが付けられているものが少なくありません。「告別」「驚愕」「軍隊」「奇跡」などなどですが、それらのタイトルはハイドン自身によってネーミングされたものもありますが、後世の人が勝手に付けたタイトルもあります。この１０１番の交響曲につけられた「時計」というタイトルはハイドン自身によるものではなく、第２楽章の伴奏がスタッカートによって規則正しく刻まれる雰囲気が時計を連想させたようで、おそらくは１９世紀に入ってからつけられたものだろうと言われています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、その様な特徴がある作品は他にもいくらでもあるわけで、とくにこの作品にその様なタイトルが冠せられたと言うことは、いかに当時のイギリスでこの作品の人気が高かったかという証明でもあります。&lt;br /&gt;
ハイドンの晩年を飾るザロモン交響曲はどれも素晴らしい作品ですが、とりわけ第２期ザロモンセットと呼ばれる９９番から１０４番に至る作品群はハイドンの頂点を示すものであると同時に、初期古典派の頂点を示す作品です。とくにこの「時計」は、第３楽章に堂々たるメヌエットを配していて、さらに最終楽章はハイドンが書いた最もすぐれたフィナーレの一つだといえます。ユング君の個人的な感想としては、この「時計」と最後の１０４番の交響曲が最もすぐれたもののように思えます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１００を超えるハイドンの交響曲を概観してみると、その初期作品からここに至る道筋のはるかな道程には呆然とさせられるものがあります。そして、これを超えていくには、モーツァルトやベートーベンという異能（異常？）の人の存在が必要だったことを思えば、常識人であるハイドンがその刻苦勉励によってよくぞここまで辿り着いたものだと感嘆させられます。</description>
    </item>
    <item rdf:about="http://www.yung.jp/yungdb/op.php?id=1558">
        <dc:format>text/html</dc:format>
        <dc:date>2012-01-21T15:00:00+00:00</dc:date>
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        <dc:creator>ユング君</dc:creator>
        <title>モーツァルト：ピアノ協奏曲2台のピアノのための協奏曲 変ホ長調 　K365&gt;&gt;&gt;（Ｐ）ロベルト＆ギャビ　カサドシュ　セル指揮　コロンビア交響楽団　１９５６年録音</title>
        <link>http://www.yung.jp/yungdb/op.php?id=1558</link>
        <description>&lt;h3&gt;モーツァルトのピアノ協奏曲を概観してみれば&lt;/h3&gt;モーツァルトはその生涯において２７曲のピアノ協奏曲を遺したといわれています。しかし、詳しくふり返ってみると事はそれほど単純ではありません。今回は、このことについて簡単にふれておきたいと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず、一般に２７曲といわれるピアノ協奏曲を大きく区切ってみると３つのグループに分かれることは誰の目にも明らかです。&lt;br /&gt;
一つは少年時代の習作に属するグループで、番号でいえば１〜４番の協奏曲がこのグループに属します。次は、ザルツブルグの協定に宮仕えをしていた１７７３年から１７７９年に至るいわゆるザルツブルグ時代の作品です。番号でいえば５，６，８，９番の４作品と、３台、２台のピアノのための協奏曲と題された７番、１０番の２作品です。そして、最後は１７８１年にザルツブルグの大司教コロレドと決定的な衝突をしてウィーンに出てきてからの作品です。番号でいえば１１番から２７番に至る１７作品となります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これで、何の問題もないように見えます。発展途上の形式だった交響曲のように、ディヴェルティメントに数えるのか交響曲に数えるのかと悩む必要はありません。しかし、一つひっかかるのがケッヘル番号でいうと１０７番が割り当てられている「クリスティアン・バッハのソナタにもとづく３つの協奏曲」をどのように考えるかです。これは、その名前が示すようにクリスティアン・バッハのチェンバロソナタをそのまま協奏曲に編曲したものです。もし、この作品も「モーツァルトの協奏曲」として数えるならば、少年時代の習作は４ではなくて７となり、モーツァルトのピアノ協奏曲は全部で３０となるわけです。しかし、旧全集ではこの３作品は基本的には「他人の作品」と判定をして「モーツァルトのピアノ協奏曲」からは除外をして、それ以外の作品に１番から２７番までの番号を割り振ったわけです。&lt;br /&gt;
ところが、２０世紀の初頭になって、少年時代の習作として１番から４番までの番号が割り当てられていた作品も、実はK107の作品と同じく、他人のチェンバロソナタを下敷きにして編曲したものであることが判明したのです。ただし、K107がクリスティアンの作品をまるまる下敷きにしたのに対して、１〜４番の作品は楽章ごとにいろいろな作品を組み合わせて一つの協奏曲に仕上げていたのです。こうなると１〜４番の作品とK107の３作品を区別する必然性はなくなってしまいました。この不整合を解決するためには道は二つしかありません。一つはK107の３作品も「モーツァルトの協奏曲」として数え入れるのか、逆に１〜４番の作品を「モーツァルトの協奏曲」から除外してしまうかです。&lt;br /&gt;
この問題に最終的な決定が下ったのは、１９５６年から着手された新全集の刊行においてでした。そこでは、最終的に１〜４番の作品を「モーツァルトの協奏曲」から除外するというストイックな方向性が採用されました。しかし、旧全集によって割り振られた番号はすでに広く世間に定着していますから、ナンバーリングを繰り上げるということはしませんでした。これは賢明な判断だったと思われます。&lt;br /&gt;
シューベルトの場合はこのナンバーリングの繰り上げを実施したために（７番が削除されて、９番「グレイト」が８番に、８番「未完成」が７番に繰り上げられた）未だに混乱が続いています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうして、現在では少年時代の習作は「モーツァルトの協奏曲」からは除外され、彼のピアノ協奏曲はザルツブルグ時代の６作品とウィーン時代の１７作品という二つのグループに分かれることになったのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＜ザルツブルグ時代＞&lt;br /&gt;
第５番　K175：１７７３年１２月完成&lt;br /&gt;
=====================================&lt;br /&gt;
第６番　K238：１７７６年１月完成&lt;br /&gt;
第７番　K242：１７７６年２月完成（３台のピアノのための作品）&lt;br /&gt;
第８番　K246：１７７６年４月完成&lt;br /&gt;
第９番　K271：１７７７年１月完成&lt;br /&gt;
=====================================&lt;br /&gt;
第１０番　K365：１７７５年〜１７７７年に完成&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第５番の協奏曲がモーツァルトにとっては初めての完全にオリジナルな作品だといえます。彼はこの作品に強い愛着があったようで、ウィーン時代においても何度も演奏会で取り上げ、そのたびにオーケストレーションや楽器の編成などにも手を加えています。今では、K382のコンサート・ロンドとして知られている作品は、ウィーンにおける演奏会でこの作品の第３楽章として作曲されたものです。ですから、K175を第２楽章まできいた後に、それに続けてK382をきけばウィーンでの演奏会を再現できるというわけです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、この後にしばらくの沈黙があって１７７６年から立て続けに５作品が作られています。おそらくは、姉のナンネルの演奏会か、もしくは自分の演奏会のために作曲されたものと思われます。ですから、この作品には当時のザルツブルグの社交界の雰囲気が反映していると思われます。しかし、第９番の「ジュノーム」だけはひときわ異彩をはなっています。ふつうはオーケストラの前奏の後にピアノが登場するのが古典派の常識であるのに、ここでは冒頭からいきなりピアノソロが登場します。また、ハ短調で書かれた第２楽章の陰りを帯びた表情は社交音楽の枠を超えています。K466のニ短調コンチェルトほどではないにしても、ここでも一つの大きな飛躍と断絶が口を開いているように見えます。&lt;br /&gt;
しかし、この後にモーツァルトはザルツブルグの宮廷と決定的な衝突を引き起こし、一人の自立した芸術家としてウィーンでの生活を始めます。そこでは、売れなければ生きていけないわけですから、一瞬姿を現した断絶は閉じてしまいます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＜ウィーン時代＞&lt;br /&gt;
モーツァルトのウィーン時代は大変な浮き沈みを経験します。そして、ピアノ協奏曲という彼にとっての最大の「売り」であるジャンルは、そのような浮き沈みを最も顕著に示すものとなりました。&lt;br /&gt;
この時代の作品をさらに細かく分けると３つのグループとそのどれにも属さない孤独な２作品に分けられるように見えます。&lt;br /&gt;
まず一つめは、モーツァルトがウィーンに出てきてすぐに計画した予約出版のために作曲された３作品です。番号でいうと１１番から１３番の協奏曲がそれに当たります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第１２番　K414：１７８２年秋に完成&lt;br /&gt;
=====================================&lt;br /&gt;
第１１番　K413：１７８３年初めに完成&lt;br /&gt;
第１３番　K415：１７８３年春に完成&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このうち１２番に関してはザルツブルグ時代に手がけられていたものだと考えられています。他の２作品はウィーンでの初仕事として取り組んだ予約出版のために一から作曲された作品だろうと考えられています。その証拠に彼は手紙の中で「予約出版のための作品がまだ２曲足りません」と書いているからです。そして「これらの協奏曲は難しすぎず易しすぎることもないちょうど中程度の」ものでないといけないとも書いています。それでいながら「もちろん、空虚なものに陥ることはありません。そこかしこに通人だけに満足してもらえる部分があります」とも述べています。&lt;br /&gt;
まさに、新天地でやる気満々のモーツァルトの姿が浮かび上がってきます。&lt;br /&gt;
しかし、残念ながらこの予約出版は大失敗に終わりモーツァルトには借金しか残しませんでした。しかし、出版では上手くいかなかったものの、これらの作品は演奏会では大喝采をあび、モーツァルトを一躍ウィーンの寵児へと引き上げていきます。８３年３月２３日に行われた皇帝臨席の演奏会では一晩で１６００グルテンもの収入があったと伝えられています。５００グルテンあればウィーンで普通に暮らしていけたといわれますから、それは出版の失敗を帳消しにしてあまりあるものでした。&lt;br /&gt;
こうして、ウィーンでの売れっ子ピアニストとしての生活が始まり、その需要に応えるために次々と協奏曲が作られ行きます。いわゆる売れっ子ピアニストであるモーツァルトのための作品群が次に来るグループです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第１４番　K449：１７８４年２月９日完成&lt;br /&gt;
=====================================&lt;br /&gt;
第１５番　K450：１７８４年３月１５日完成&lt;br /&gt;
第一六番　K451：１７８４年３月２２日完成&lt;br /&gt;
第１７番　K453：１７８４年４月１２日完成&lt;br /&gt;
第１８番　K456：１７８４年９月３０日完成&lt;br /&gt;
第１９番　K459：１７８４年１２月１１日完成&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１７８４年はモーツァルトの人気が絶頂にあった年で、予約演奏会の会員は１７４人に上り、大小取りまぜて様々な演奏会に引っ張りだこだった年となります。そして、そのような需要に応えるために次から次へとピアノ協奏曲が作曲されていきました。また、このような状況はモーツァルトの中にプロの音楽家としての意識が芽生えさせたようで、彼はこの年からしっかりと自作品目録をつけるようになりました。おかげで、これ以後の作品については完成した日付が確定できるようになりました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なお、この６作品はモーツァルトが「大協奏曲」と名付けたために「六大協奏曲」と呼ばれることがあります。しかし、モーツァルト自身は第１４番のコンチェルトとそれ以後の５作品とをはっきり区別をつけていました。それは、１４番の協奏曲はバルバラという女性のために書かれたアマチュア向けの作品であるのに対して、それ以後の作品ははっきりとプロのため作品として書かれているからです。つまり、この１４番も含めてそれ以前の作品にはアマとプロの境目が判然としないザルツブルグの社交界の雰囲気を前提としているのに対して、１５番以降の作品はプロがその腕を披露し、その名人芸に拍手喝采するウィーンの社交界の雰囲気がはっきりと反映しているのです。ですから、１５番以降の作品にはアマチュアの弾き手に対する配慮は姿を消します。&lt;br /&gt;
そうでありながら、これらの作品群に対する評価は高くありませんでした。実は、この後に来る作品群の評価があまりにも高いが故に、その陰に隠れてしまっているという側面もありますが、当時のウィーンの社交界の雰囲気に迎合しすぎた底の浅い作品という見方もされてきました。しかし、最近はそのような見方が１９世紀のロマン派好みのバイアスがかかりすぎた見方だとして次第に是正がされてきているように見えます。オーケストラの響きが質量ともに拡張され、それを背景にピアノが華麗に明るく、また時には陰影に満ちた表情を見せる音楽は決して悪くはありません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、これに続くのが第２０番から２５番までの６作品です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第２０番　K466：１７８５年２月１０日完成&lt;br /&gt;
第２１番　K467：１７８５年３月９日完成&lt;br /&gt;
第２２番　K482：１７８５年１２月１６日完成&lt;br /&gt;
第２３番　K488：１７８６年３月２日完成&lt;br /&gt;
第２４番　K466：１７８６年３月２４日完成&lt;br /&gt;
第２５番　K491：１７８６年１２月４日完成&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここには断絶があります。&lt;br /&gt;
９番「ジュノーム」で一瞬顔をのぞかせた「断絶」がはっきりと姿を現し、それが拡大していきます。そして、その拡大は２４番のハ短調のコンチェルトで行き着くところまで行き着きます。そして、このような断絶が当時の軽佻浮薄なウィーンの聴衆に受け入れられずモーツァルトの人生は転落していったのだと解説されてきました。&lt;br /&gt;
しかし、事実は少し違うようです。&lt;br /&gt;
たとえば、有名なニ短調の協奏曲が初演された演奏会には、たまたまウィーンを訪れていた父のレオポルドも参加しています。そして娘のナンネルにその演奏会がいかに素晴らしく成功したものだったかを手紙で伝えています。そして、これに続く２１番のハ長調協奏曲が初演された演奏会でも客は大入り満員であり、その一夜で普通の人の一年分の年収に当たるお金を稼ぎ出していることもレオポルドは手紙の中に驚きを持ってしたためています。そして、この状況は１７８６年においても大きな違いはないようなのです。ですから、ニ短調協奏曲以後の世界にウィーンの聴衆がついてこれなかったというのは事実に照らしてみれば少し異なるといわざるをえません。&lt;br /&gt;
ただし、作品の方は１４番から１９番の世界とはがらりと変わります。それは、おそらくは２３番、２５番というおそらくは８５年に着手されたと思われる作品でも、それがこの時代に完成されることによって前者の作品群とはがらりと風貌を異にしていることでも分かります。それが、この時代に着手されこの時代に完成された作品であるならば、その違いは一目瞭然です。とりわけ２４番のハ短調協奏曲は第１楽章の主題は１２音のすべてがつかわれているという異形のスタイルであり、「１２音技法の先駆け」といわれるほどの前衛性を持っています。また、第３楽章の巨大な変奏曲形式もきくものの心に深く刻み込まれる偉大さを持っています。それ以外にも、一瞬地獄のそこをのぞき込むようなニ短調協奏曲の出だしのシンコペーションといい、２１番のハ長調協奏曲第２楽章の天国的な美しさといい、どれをとっても他に比べるもののない独自性を誇っています。&lt;br /&gt;
これ以後、ベートーベンを初めとして多くの作曲家がこのジャンルの作品に挑戦をしてきますが、本質的な部分においてこのモーツァルトの作品をこえていないようにさえ見えます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、この後に２つの作品が残されることになります。ユング君はこれらをどのグループにも属さない孤独な２作品と書きました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第２６番　k537：１７７８年２月２４日完成&lt;br /&gt;
第２７番　K595：１７９１年１月５日完成&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この時代のモーツァルトは演奏会を行っても客が集まらず困窮の度合いを深めていくと言われてきました。しかし、これもまた最近の研究によると少しばかり事情が異なることが分かってきました。&lt;br /&gt;
たとえば、有名な３９番〜４１番の３大交響曲も従来は演奏される当てもなく作曲されたと言われてきましたが、現在でははっきりとした資料は残っていないものの何らかの形で演奏されたのではないかと言われています。確かに、予約演奏会という形ではその名簿に名前を連ねてくれる人はいなくなったのですが、当時の演奏会記録を丹念に調べてみると、依然としてウィーンにおけるモーツァルトの人気は高かったことが伺えます。ですから、確かに人気が絶頂にあった時代と比べれば収入は落ち込んだでしょうが、世間一般の常識とくべれば十分すぎるほどの収入があったことが最近になって分かってきました。&lt;br /&gt;
この時代にモーツァルトはフリーメイソンの盟友であるプフベルグ宛に泣きたくなるような借金の依頼を繰り返していますが、それは従来言われたような困窮の反映ではなく、生活のレベルを落とすことのできないモーツァルト一家の支出の多さの反映と見るべきもののようです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ですから、２６番の「戴冠式」と題された協奏曲もウィーンでだめならフランクフルトで一旗揚げてやろうという山っ気たっぷりの作品と見るべきもののようです。ですから、借金をしてまでフランクフルトで演奏会をおこなったのは悲壮な決意で乗り込んだと言うよりは、もう少し脂ぎった思惑があったと見る方が現実に近いのかもしれません。そして、己の将来を切り開くべく繰り出した作品なのですから、モーツァルトとしてもそれなりに自信のあった作品だと見ていいでしょう。ここでは、一度開ききった断絶が再び閉じようとしているように見えます。&lt;br /&gt;
しかし、残念ながらこの演奏会はモーツァルトが期待したような結果をもたらしてくれませんでした。そして、人気ピアニストとしてのモーツァルトの活動はこれを持って事実上終わりを告げます。ロマン派の音楽家ならば演奏されるあてがなくても己の感興の赴くままに作曲はするでしょうが、モーツァルトの場合はピアニストとしての活動が終わりを告げれば協奏曲が創作されなくなるのは理の当然です。ですから、この後にモーツァルトは再び交響曲に戻っていくことになり例の３大交響曲を残すことになるわけです。&lt;br /&gt;
そんなモーツァルトが死の１年前の１７９１年に突然一つのピアノ協奏曲を残します。K595の変ロ長調の協奏曲です。作品はその年の１月に完成され、３月４日のクラリネット奏者ヨーゼフ・ベーアが主催する演奏会で演奏されました。そして、それがコンサートピアニストとしての最後の舞台となりました。&lt;br /&gt;
アインシュタインはこの作品について「この曲は・・・永遠への戸口に立っている。」「彼がその最後の言葉を述べたのはレクイエムにおいてではなく、この作品においてである。」と述べています。&lt;br /&gt;
しかし、これもまた最近の研究により、この作品の素材が１７７８年頃にほとんどできあがっていたことを示唆するようになり、アインシュタインの言葉はその根拠を失おうとしています。実際、この時代のモーツァルトは交響曲作家としてイギリスに渡る道があったにもかかわらずそれを断り、ドイツ語によるドイツオペラの創作という夢に向かって進み始めていたのです。ですから、アインシュタインのようなモーツァルト理解は幾分かは１９世紀的バイアスがかかったものとしてみておく必要があるようです。&lt;br /&gt;
ただし、コンサートピアニストとしての活動が終わったことは自覚していたでしょうから、その意味ではこれは「訣別」の曲と言っても間違いないのかもしれません。しかし、はたしてアインシュタインが言ったように「人生への訣別」だったのかは議論の分かれるところでしょう。</description>
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